第5話

 


 その翌日だった。


「こっちでバイトしようかな。母さん、アパート借りていいでしょ?」


 雑煮を食べながら英征が綾子を見た。


「こっちで働くのかい? ほりゃあ嬉しいけど、アパートなんか借らんで、ここから通えばいいでねえか」


「……自活したいんだ」


「東京のアパートはどうするんだ」


 卓也は、おせちをつまみに酒を呑んでいた。


「こっちで仕事が決まったら、引っ越すよ」


「お前は浮き草みたいだな。バイトなんかしないで、うちの会社で働こうとは思わないのか」


 卓也がさかずきを傾けた。


「……自由に生きたいんだ」


「いいでねえの。英征の好きなようにさせてあげよまいか」


 ほたるいか生姜しょうが煮を食べながら、綾子が卓也を見た。


「おふくろがそう言うんなら、構わないが」


 英征を一瞥いちべつすると、ぶりの照り焼きを口にした。


 柊子は、鱈子たらこ昆布巻きを食べながら、柔らかな笑みを英征に向けていた。



 それは、仕事始めの当日だった。卓也は会社に、綾子は暁雄が運転する車で年始回りに、扶美は買い物に出掛けていた。柊子が寝室に掃除機をかけている時だった。突然、後ろから口を塞がれた。


「うっ」


 振り向くこともできないほどの力で押さえられ、身動きできなかった。どうやって逃れようかと考えたが、掃除機の音が邪魔して、冷静な判断ができなかった。


「うう……」


 力の限りにこばんだが、男の力は緩まなかった。だが、その指がスカートの中に入った瞬間、柊子は火事場の馬鹿力を出すと、思い切り身をよじって離れた。


 振り向いたそこには予想どおりの男がいた。柊子は悔しそうに唇を噛むと、横を向いている英征の頬を平手で打った。


「あなたが今したことは、卓也さんを冒涜ぼうとくしたのよ。分かってるの?」


「……」


 英征は頬に手を置いたまま、目を合わせなかった。


「……ごめん」


 英征はぽつりとそう言うと、げるように出ていった。柊子はため息と共に肩の力を抜くと、掃除機のスイッチを切った。――間もなくして、英征は家を出ていった。



 数日後、柊子に一本の電話があった。


「若奥様、お電話です」


 扶美の声で居間を出ると、廊下を行った。


「どなた?」


「佐々木とおっしゃる女の方です」


「……佐々木?」


 心当たりがなかったが扶美から受話器を受け取った。


「もしもし、お電話代わりました」


「しゅうこさんですか」


 若い女の声だった。


「はい、そうですが」


「代わりますので、ちょっと待ってください」


「あ、はい」


「……英征」


「! ……」


「ウエイトレスに電話してもらった。アパート決まったから住所言う。母さんと兄さんには内緒で」


「あら、ようこ? 久し振り。元気だった? ……分かったわ。どうぞ言って」


 居間にいる綾子に、相手が英征だと悟られまいとして、友人からの電話の振りをした。そして、電話台のメモ用紙に、筆圧を弱くして住所を書くと、跡が残らないように数枚を剥がした。


「じゃ、明日会おうか? 何時頃がいい?」


「一日中いる」


「了解。じゃ、お昼でも食べましょう」


「うん」


「それじゃ、明日ね」


 柊子は受話器を置くと、考える顔をした。……会ってはいけない。だが、会わなければ何度も電話を寄越すだろう。やはり、一度会ってちゃんと話をするべきだ。


 電話の相手が英征だと悟られたのではないかと、戦々恐々せんせんきょうきょうとしながら居間に戻ると、綾子は、


「お友達?」


 と、上目で一言訊いて、刺繍ししゅうの続きをした。



 翌日、綾子に友人に会うと嘘をいて出掛けた。英征のアパートに向かう途中にあったスーパーで食料を買うと、鉄筋コンクリートの二階の〈小山内〉と表札のあるドアをノックした。ドアスコープで覗いたのか、鍵を開ける音がした。開いたドアの向こうには、少年のような英征の笑顔があった。


「食事作りに来ましたわ、若お坊ちゃま」


 皮肉まじりに言った。


「ありがとう」


 悪びれる様子もなく、当然のように答えた。


 フローリングのワンルームには、真新しい組み立て式のベッドと小さなテーブル、それと小型の冷蔵庫があった。流しの横には炊飯器とトースターがあって、コンロの上には片手鍋とフライパンが置いてあった。


「料理、作ってる?」


 冷蔵庫に肉や野菜を入れながら訊いた。


「うん。インスタントラーメンや目玉焼きぐらいだけど」


「何食べたい?」


「何でも。任せる」


 英征はテーブルに置いた煙草を一本抜くと、アイボリーの丸いクッションに胡座あぐらをかいた。色々訊きたかったが、食後に話すことにした。


 買ってきた白飯でチャーハンを作ると、英征は「うまい!」と言って、あっという間に平らげた。コーヒーが好きな柊子は、一緒に買ったドリッパーとフィルターでモカを淹れた。


「……東京に帰ったんじゃないの?」


 コーヒーを飲みながら訊いた。


「……あんなことして居づらいから出たまでさ」


 煙草をくゆらせながら横を向いた。


「……私とどうしたいの?」


「……欲しい」


 目を見ないで呟いた。


「自分で何を言ってるか分かってるの?」


「分かってる。……覚悟もしてる」


「何を?」


「家族と縁を切る覚悟……」


「どうして? どうしてそこまで私に執着するの? 卓也さんを裏切ってまで……」


「好きになるのに理由が要るかよ」


 子供のように向きになって、柊子を睨んだ。


「どうしてそんな偏屈な物の考え方をするの? 私が訊いているのは、私は仮にもあなたの兄さんの妻よ。非常識だとは思わないの?」


「兄さんが好きになった人を俺が好きになって当然じゃないか。兄弟なんだから……」


「……え?」


 柊子は何が何だか訳が分からなくなっていた。自分の考える道徳というものが果たして本当の道徳なのか。理不尽りふじんに思える英征の言うことが正論なのか……。

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