愛鍵

井守ひろみ

第1話:黙拶(もくさつ)

「それじゃこの問題を…鐘ヶ江かねがえさんに解いてもらおう」

 授業中に指名を受けたあたしは、ホワイトボードの前まで行って数式と答えを書き綴る。

「うむ、正解だ。席に戻ってよし」

 こうして板書の場合はいいけど、朗読の指名を受けた時は周りの視線が痛い。

 特に進級、進学の一学期で先生が入れ替わった時は。

 何人かの同窓生がヒソヒソと何かを話している。

 多分、あたしのこと。


 キーンコーンカーンコーン…


 授業の終わりを告げる鐘が鳴る。

「よーし、授業終了だ。明日からは進学試験だからな、しっかり復習しておけよ」

 進学試験。

 小中高大一貫のエスカレーター式だから、他の進路を選ばない限り進路は一直線。

 他の学校から編入もあるし、進路次第では他の学校へ転出もある。

明梨あかり、一緒に帰ろ」

 こくん

 あたしの返事はこれだけ。

 容姿は本当にパッとしない。

 長く伸ばしたストレートの黒髪を後ろで無造作に束ねていて、目元は隠れがちな前髪にしている。

 身長139cmと小柄でほっそりしている。

 起伏に乏しいボディラインだし、性格と呼べるものは無いに等しい。

 あえて表現するなら、引っ込み思案で暗い。

 感情の浮き沈みも、沈んだまま浮いてこないというべきだろうか。


「明日から進学試験か…明梨は勉強してる?」

 こんなあたしでも懲りずに接してきてくれる、とても大切な友達は吹上ふきあげ優愛ゆあちゃん。

 ほんのり茶色がかったウェーブヘアで、活発でかつては人気者だった。

 中学生とは思えないほどに発達したボディラインが彼女にとってコンプレックスとなっている。

 身長は151cmだから、あたしからは見上げるような格好になる。

 こくん、と返事をした。

「自信は?」

 こくん

 あたしは必死に勉強した。

 優愛ちゃんと離れるわけにはいかない。

 それがあたしの背中を押し続けている。

 奇跡的に小学校からずっと優愛ちゃんと同じクラスでここまで来ている。

「また同じクラスになれるといいね」


 はしっ


 思わず優愛ちゃんの袖を掴んでしまう。

 あたしが強い思いを持っている時に出るクセ。


 こくん


 優愛ちゃんの家はあたしの家から真裏にあるから、家が見えるまでは同じ道を辿る。

 帰り道の商店街アーケードに差し掛かる。

 それほど人通りは多くないけど、車がスピードを出せないようクランク状に道が曲がりくねっている。

 放置自転車対策もされていて、あちこちに立ってるポール同士をチェーンで簡易な柵を作っているものの、そのチェーン内側へ自転車を置いてる人がいる。


 ドン!


「おっと」

 商店街で通行人を避けた他の男子学生が、足をもつれさせてバランスを崩す。

「ああっ!どいてっ!」

 反応が遅れたあたしは、振り向くと黒い制服が目の前を覆っていた。

 そのまま…


 どしーん!


「あたた…」

 あたしは男子学生の下敷きになってしまい、ずっしり伸し掛かる重さを受け続けていた。

「明梨!!」

 クラクラする頭をハッキリさせようと、ブンブンと髪を振り乱す。

「君っ!大丈夫っ!?悪い!」

 優愛ちゃんが肩を抱いて起き上がらせようとするところに、知らない男子学生が手を差し伸べてきた。

 思わず顔が強ばる。

「すまない!これは完全に俺が悪いっ!立てるか?」

 まるでテレビのアイドル番組にでも出ていそうなほどの整った顔立ち。

 嫌味なくらいサラサラな髪が風になびく。

 細いながらもがっしりしたその大きな体は、あたしの視界を半分以上占めた。

 ジリ、とお尻をついたまま後ずさりする。

 優愛ちゃんが目の前に割り込んできて

「大丈夫?怪我ない?」

 さっきの衝撃が冷めやらぬも、軽く体を打っただけなのは分かったから

 こくん

 と返事した。

 ホッとした顔をする優愛ちゃんは、あたしを立ち上がらせると男子学生の方へ向き直って

「ごめんなさい、この娘は極度の人見知りなのでびっくりしています。怪我はないようですので、これで失礼します」

 ぺこりと会釈して背を向ける。

「もし怪我してたら言ってくれ。逃げも隠れもしない。見てのとおり俺はあっちの中学に通ってる白須賀しらすかしゅんだ」

 優愛ちゃんに手を引っ張られながら、あたしは顔だけをそちらに向けて首だけ下げた。

「ほんとに大丈夫?」

 こくん

「さっきの人、すっごくかっこよかったよ。あんな人がいたなんてね」

「………」

 あたしは何も応えなかった。

「あ…そうだよね…」

 何かを思い出したのか、バツが悪そうに頬を掻く。


「さっきの娘、制服は確か小中高大一貫の学園だったか」

 瞬は明梨の後ろ姿を見送ってからきびすを返す。

「ま、縁があればまた会えるだろう」

 誰にともなく言い残して歩き始める。


 ぱしゃ…


 お風呂に入ったあたしは、湯船に浸かってお湯を掬う。

 明日からは進学試験。

 絶対に落としてはいけない。

 そのためにしっかり勉強したし、万全の状態で臨むためにこうして早めの就寝へ向けてお風呂に入った。

 優愛ちゃんと一緒に、進学しなければならない。

 何があっても、離れないように。


 ベッドに潜り込んで目を閉じる。

 そういえば、あたしが最後に声を出したのはいつ以来だったっけ…。

 小学校低学年くらいだったかな。

 あたしは…喋ってはいけない。

 あたしが喋ると、人が不幸になる。

 声が出ないのではない。

 出したい声が出てこない。

 声に出して言いたいことはいっぱいある。けどあたしの口は…思いどおりに動いてくれなくなっている。

 忌まわしい思い出が脳裏をよぎり、それを振り切ろうと布団を深くかぶる。

 唯一の友達である優愛ちゃんは、あたしが声を出せなくなった理由を知っている。

 だからいつも優愛ちゃんがあたしをかばってくれている。

 替えの利かない、唯一にして大切な友達。

 いつまでも甘えていたくはない。

 けど…怖い…。

 あたしが口を開くことで人が不幸になるのは、耐えられない。

 喋らないことで、声を出さないことで人が不幸にならなくて済むなら、あたしはそっちを選ぶ。


「始め!」

 周囲が一斉に紙を翻すペラ、という音があたりを支配した。

 次いでカッ、カッと鉛筆の先が紙を通して机を叩く音が続く。

 進学試験が始まった。

 あたしは黙々と鉛筆を走らせる。

 試験は緊張するけど、一切喋ってはいけないという決まりがむしろホッとする時間でもある。

 ここの進学試験だけは変わった方法が取られていて、全教科を午前中すべてを使って一コマで行う。

 500点満点で、試験時間はまる3時間ぶっ通し。

 40ページもある設問用紙と、5ページもある答案用紙が組になっている。

 持続する集中力と効率よく回答する機転が鍵とされ、これで留年する人も毎年出ているらしい。

 進学の条件は各教科で半分以上が正答であること。

 つまり250点未満は確実に進学できなくなる。

 仮に300点でも、どれか一教科の正答率が半分を割ると進学できない。

 全問確実に解いてやろう、と途中の問題で囚われたら最後のほうが苦しくなる。

 だから効率よくやらなければならない。

 数秒考えてわからなかったら一旦飛ばす。

 それで最後のページまで達したら、飛ばしたところを順番に片付ける。

 自己採点もしておく必要がある。

 正答率が低い教科があったら、そこに時間を割く。

 誰が考えたのか知らないけど、これはかなり意地悪な試験方法だ。

 この方法を実現に漕ぎ着けた先生は多分、超ドSのはず。


 午前もそろそろ終わろうとしている。

 試験終了の時間が迫る。

「あと30分。手薄な教科の解答欄を優先して埋めろよー」

 先生が制限時間と軽いアドバイスを送るけど、あたしはすべての教科において正答率7割を超える手応えがあった。

 埋まってない解答欄は少ない。

 間違いに気づいて直したり、手強い問題に手を付け始める。


「よし終了だ。全員ただちに教室を出ろ。10分間の休憩後は帰りのホームルームをするぞー」

 ガタガタと立ち上がる人に混じって「やっと終わった!」だの「俺マズいかも…」などと口々に漏らしながら教室を出ていく。

「明梨、どうだった?」

 優愛ちゃんが駆けつけてきて、声をかけてきた。

 あたしは小さく親指を立ててニコリと微笑む。

「やったね!これで来年も一緒の学年だね。ついに高校生だよっ!」

 喜び勇んで優愛ちゃんが抱きついてくる。

 ひとしきり喜びを分かち合ったあたしたちは、お手洗いに行った帰りの廊下を並んで歩いていた。

 窓の外を見ると、校庭に見慣れない制服に身を包んだ人がちらほらいた。

 昨日ぶつかられた近くの中学生と同じ制服の姿も多い。

「この時期ならではだよね。うちは小中高大一貫だけど、別の学校へ進学する人もいればうちに編入してくる人もいて、その編入試験が今日なんだよね」

 こくん、と相づちを打つ。

「誰かカッコイイ人が入ってこないかな…」

 優愛ちゃんは、ほう…とため息を漏らす。

 あたしは…ずっと一人でいるつもり。

 でも、もし優愛ちゃんに彼氏ができたら…。

 どうすればいいんだろうか。

 今は優愛ちゃんに依存しきっている自覚はある。

 その優愛ちゃんがあたしから離れていったら…。

 このままでいいわけがない。

 けどあたしは言葉が喉を通らない。

 残された時間は少ない。

 その間に何とかしなければ、優愛ちゃんに負担がかかる。

 焦ったところでいい案が浮かぶわけでもない。

 自分で…何とかしなきゃ…。


 翌日


「そんじゃ通知票配るぞ。呼ばれたら順に出てくること。通知票の中でDやE評価があったら留年だぞ。高校には上がれないからな」

 ついに来た。

 次々に呼ばれては通知票を恐る恐る開いて喜ぶ人が圧倒的に多い感じ。

 一部、がっくりと肩を落とす人もいる。

「鐘ヶ江」

 ガタ、と席を立って通知票を受け取る。

 中はまだ見ない。

「吹上」

 優愛ちゃんが呼ばれた。

 最後のホームルームだから気が緩んでいるのか、席を移動している人が多い。

 少しガヤガヤしてるけど、先生もそれをあえて指摘しようとはしない。

「それじゃ、お互いの通知票を…」

 あたしは優愛ちゃんに自分の通知票を渡して、あたしは優愛ちゃんの通知票を受け取る。

「オープン!」

 ………さすが優愛ちゃん。B評価とA評価以外にない。

 しかもB+(ビープラス)が一番低い。

「えっと…やったね明梨!進学おめでとう!」

 優愛ちゃんが満面の笑顔で抱きついてきたから、あたしも優愛ちゃんを抱き返す。

「わたしはどうだった?」

 キュッと力を入れて、こくんと頷いて答えた。

「よかった。また同じクラスになれるといいね」

 こくん、こくん、と涙目になりながら必死に自分の意思を伝える。

 喜びを分かち合い、自分の通知票を見るとB-(ビーマイナス)が一番低かった。

 一つでもC-(シーマイナス)があったら冷や汗ものだけど、これで来年からも優愛ちゃんと同じ学年でいられる。

 ホッと緊張が抜けて、肩の位置が僅かに下がった。

 よかった…。本当によかった…。


 春休みはあっという間に過ぎていった。

 新しい制服、新しい指定カバン、諸々の準備に追われて。


「明梨、おはよ」

 こくん、と無言で返事をする。

「クラス分け発表が貼り出されるから、早めに行っておこうね」

 再びこくん、と意思表示。

 住み慣れた街のアーケードを抜けて学校に着く。

 思わずクセで中等部の正門へ行ってしまったけど、すぐ隣の高等部正門へ足を向ける。校舎前に着くとすでに10人ほどがクラス分けの掲示板に群がっていた。

「えっと…吹上…吹上…」

 優愛ちゃんが名前を探す。

 Aクラス、Bクラスと目線を移しているけど、あたしは逆にGクラスから探す。

 くいっ、くいっ。

「見つかった?」

 あたしは指差したのはFクラス。

「…あった!しかも同じクラスじゃないっ!やったね!また一緒だよっ!!」

 嬉しそうにガバっと抱きついてくる優愛ちゃん。あたしも嬉しくて抱きつき返す。

「席も近いといいね」

 キュッ…と抱きしめる力を少し強める。

 言葉が無くても通じあえる関係。

 とても…とても大切な絆を噛み締めた。


 教室に着くとすでに何人かが座っていた。

 席はホワイトボードに五十音順で配置が描かれている。

 男女交互の列になっていて、優愛ちゃんは後ろ。右隣は白須賀。

 …えっと、どこかで聞いたような名前だけど…。

「明梨、席も近かったね。幸先よくて楽しい高校生活になりそうだね」

 その言葉に、微笑みを返す。


 ガタン


 右隣に誰かが座った。

 確か名前は白須賀…けど関わることのない人。目線を動かさなかった。

「や、また会ったね」

 あたしは男の声がした方へ向く。

「覚えてる?先月は商店街でぶつかって悪かったな」

 ニカッと笑うその顔を見て、思わず顔が強ばる。

 優愛ちゃんの顔はわずかな不機嫌な色を出した。

「………」

 白須賀…そういえば進学試験の前日に商店街でぶつかった人だ…。

 思い出したあたしは顔を反らして視界から消した。

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