ドドチカ

鈴女亜生《スズメアオ》

ドドチカ

 早朝から船を出し、僕は海に出る。荒波の中で僕が命を預けるのは、小型ボートだ。モーターがついており、昔は父が、その前は祖父がこれを使っていたらしい。代々受け継がれてきた小型ボートに乗って、僕が何をしているのかということだが、釣りをしているわけでもなければ、もちろん、漁をしているわけもない。漁ができるサイズの小型ボートではない。


 小型ボートに乗って、僕が向かうのは学校だ。通っている学校に通学するための移動手段の一つが、この小型ボートだ。この小型ボートで陸地に辿りつくと、そこから自転車に乗って、ようやく学校に向かう形だ。

 小型ボートで三十分、自転車で二十分。道中五十分の通学が僕の毎朝の日常だった。


 ただし、これが日常だからと言って、もう受け入れているわけではない。できれば、最初から向こう岸に住みたいと思わない日はない。せめて、漁船でもいいから、もう少し大きい船にしてほしい。

 そう思う理由が海に出てから、すぐに僕を襲ってきた。


 冒頭で述べた通り、この海は基本的に荒波だ。僕の乗っている小型ボートはその影響を受けやすく、海に出たら基本的に上下に揺れ続けている。それも時々信じられないくらいに高くなり、油断したら海に放り出されそうになるくらいだ。教科書の詰まった鞄も、いつ落ちるか分からない以上は、ずっと大切に抱いていないといけない。


 それに加えて、この小型ボートを運転しているのは僕だ。本来は免許がいるので、父が運転してくれる予定だったのだが、朝が早くて嫌だという理由で、一日目からすぐに断られ、そこから僕が運転することになっていた。

 幸いなことに僕の島に免許の概念がないので何とか問題ないが、他の場所だったら多分捕まっているし、辿りついた陸では慎重に隠れないと見つかったら捕まる。


 そのこともあり、僕はこの通学が嫌で嫌で堪らなかった。命の危険だけでなく、捕まる危険性もあるとなったら、嫌になるに決まっている。


 しかし、一番の問題はそこではなかった。僕の通学路には、あいつが潜んでいる。それが一番の問題だ。


 そのことを考えていると、僕の乗っている小型ボートを背後から突き上げるように、一際大きな波が襲ってきた。それがいつもの合図だと僕は知っている。

 小型ボートから振り落とされないように、ゆっくり背後に目を向けると、そこには一際大きな影が迫っている。十メートル以上の大きさの影は背ビレだけを覗かせ、ゆっくりと小型ボートの下に潜り込もうとしてくる。


 僕はすぐに小型ボートのスピードを上げた。あいつが姿を現したからには、荒波の影響を考えてゆっくり走ることもできない。小型ボートがさっきまであった場所で、その下に潜り込んだ影が大きな口を開けている。


 次の瞬間、鋭い牙を覗かせながら、小型ボートがあった場所をその口が飲み込んだ。その姿に目を向けながら、僕は間一髪助かったことに汗を掻く。


 そいつこそが僕の通学路最大の問題であるだ。


 場合によっては漁船すら沈ませると言われる牙や顎を持ち、僕の小型ボートを餌としてしか認識しない。どれだけ小型ボートの速度を上げても、振り返るとそこに影は迫っており、僕はその影を見る度に死んだ気持ちになる。


 このメガロドンがいる限り、僕の通学路はインディ・ジョーンズも真っ青な命懸けの航路に早変わりするのだが、そのことを問題にする人は僕の住む島にはいなかった。

 何故なら、このメガロドンの出現は今に始まったことではないからだ。僕の父どころか、祖父の代、何だったら、それ以前からメガロドンはこの海にいる。そのことを今更問題視する島民は一人もいなかった。


 しかし、当の通学を行う僕としたら、早々にこのメガロドンを討伐してほしい気持ちは強かった。特に小型ボートを飲み込もうと、メガロドンの大きな口が海面から現れた瞬間には、あまりの恐怖に発狂しそうになるくらいだ。


 振り返ってみると、メガロドンの背ビレが海上に見える。その下にはメガロドンの影が小型ボートの真下に再び潜り込もうとしている。

 その姿を確認するなり、僕は荒波のことも気にせず、小型ボートを左右に動かし始めた。こうしていないと、メガロドンの口は簡単に僕を飲み込むだろう。


 左、右、と小型ボートが揺れると、その動きに反応したメガロドンの尾ビレが大きく動き出す。海面から現れたかと思うと、小型ボートを転覆させようとしているのか、強く海面を叩き始めた。そこから生まれた大きな波が荒波と共に小型ボートを飲み込もうとしてくる。

 その中で僕は小型ボートが転覆しないようにバランスを取りながら、小型ボートから落とされないように必死になった。


 尾ビレを大きく動かしたことで、メガロドンは速度を失っていた。逃げるなら今の内だと思い、僕は小型ボートの速度を上げる。蛇行する必要がなくなると、小型ボートでもそれなりの速度は出る。遅くなったメガロドンがすぐに追いつけるものではない。


 僕は大きくメガロドンを引き離し、その間に目的地である陸を見つけていた。もう少しでメガロドンから逃げ切れる。


 そう思った直後、海中にいたはずのメガロドンが海面から飛び出していた。その巨体が宙を舞い、僕が唖然としている間に、強く海面に叩きつけられる。


 その瞬間、小型ボートを簡単に飲み込むほどの波が生まれていた。さっきの尾ビレが起こした波とは比べ物にならない波に、僕の小型ボートは転覆しそうになる。

 ここで転覆してしまったら、確実に食われる。僕は必死に小型ボートを掴みながら、転覆しないようにバランスを取ろうとする。


 しかし、僕一人の体重では止めることができず、僕は苦肉の策として、教科書の詰まった鞄を小型ボートの上に投げていた。その重さもあり、小型ボートは何とか転覆を免れる。

 そのことにホッとしたのも束の間、投げた鞄が開き、その中に入っていた教科書が小型ボートの上にばら撒かれる。


 そこまではまだ良かったのだが、問題は僕の昼飯となる弁当が転がったことだった。これがなくなると、僕は空腹のまま、放課後を迎えないといけなくなる。咄嗟に弁当を拾おうと僕は手を伸ばした。


 だが、弁当に手が届くことはなかった。それよりも先に小型ボートの上を滑った弁当が、その勢いのまま海に放り出される。


 そのことに絶叫した瞬間、その弁当に誘い込まれるようにメガロドンが顔を出した。このままだと小型ボートごと飲み込まれると思い、僕は咄嗟に教科書をメガロドンの鼻先目がけて投げつける。メガロドンはその衝撃に驚いたようで、大きく怯んでいる。


 この瞬間を逃せば、逃げられる瞬間はもう来ないように思え、僕は咄嗟に小型ボートの速度を上げていた。弁当のことを思うと涙が零れそうになるが、今は振り返ってもいられない。メガロドンがいつそこに迫っているか分からない以上、もう速度を落とすことはできない。


 そう思っていたのだが、そこからしばらく、あまりにメガロドンの気配がないため、僕はつい振り返っていた。すると遠くの方で僕が落とした弁当の付近に蠢く影を見つける。

 どうやら、弁当を犠牲にすることで、何とか僕の命は助かったらしい。その事実に僕はホッとしながら、目の前に見えていた陸を目指した。


 次は小型ボートが見つからないように隠してから、自転車で学校に向かわないといけない。弁当だけでなく、教科書の一部も失ったが、命がなくなるかもしれなかったことを考えると、些細な犠牲だ。


 今日も何とか無事に逃げ切れた。そう思いながら、僕は辿りついた陸地で小型ボートを隠した。その同じ場所に隠していた自転車に跨り、今度は陸地を走り出す。

 ここまで来たらメガロドンの脅威はなくなり、危険しかなかった僕の通学路も安全に変わる。


 そうなると良かったのだが、そうならないのが問題だった。自転車を漕ぎ始めた直後、僕の耳が足音を拾う。小型ボートや自転車を隠している場所の近くの山から聞こえており、その音が聞こえてくると、僕はすぐに漕ぐ速度を上げていた。


 その時、山の木々が揺れる音がして、僕の走っている道路に何かが着地した音がする。必死に自転車を漕ぎながら振り返ると、そこにはメガロドンに匹敵する脅威がいた。


 だ。鎌のように生えた牙は、メガロドンの牙とは違った恐怖を与えてくる。


 スミロドンは僕の姿を確認するなり、独特の鳴き声を上げてから、僕を追いかけ始めていた。その姿を最後まで確認することなく、僕は自転車をただひたすらに漕いでいく。


 通学路の第二ラウンドが始まった。

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ドドチカ 鈴女亜生《スズメアオ》 @Suzume_to_Ao

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