4 ヌール・ヴェーグ城

 ヌール・ヴェーグ城の通路は、薄暗く、なにやら甘い香りのする煙が立ちこめていた。通路の両側の、鉄格子の牢の中には囚人の姿も見えたが、誰一人として騒ぎ立てる者はいない。床に座り込み。放心状態であらぬ方向を見つめている者もいるようだった

 その通路を、複数の男達が歩いている。一番前を歩く男も、後ろに付いて歩く数人も、複眼の昆虫の顔のような、顔全体を覆う仮面を付けている。

「皆、大人しいものですね」

 後ろを歩く男の一人が言った。

「夢見草を焚いているからな。食い物が不味いとか量が足りないとか言って騒ぐことも無いし、誰も逃亡など考えないし、従順に労働もこなす。昔からの慣例らしいが、便利なものだ」

 先頭を行く男が答える。


 夢見草とは、エルディナとソルディナの境界に当たるソラリア高原原産の、常緑性小低木である。エラーラでは、かつて古い時代、年に二度ある彼岸祭の数日を、暖炉に乾燥させた夢見草を燃やし、故人を偲んで過ごす習慣があった。良質の夢見草には僅かながら幻覚作用があり、夢で故人に逢う儀式の一種であった。娯楽の少なかった時代の楽しみの一つでもあり、良い気持ちになって見たい夢が見られるというが、時代と共に研究が進み、囚人達を意のままに管理するのにも使われているのだった。


「だから、ここを通るには、この仮面が欠かせないというわけですね」

「そういうわけだ。仮面がずれないよう、十分気を付けることだ。まあ、短い時間なら大した影響はないらしいがな」

 先頭の男は、仮面の下で、くぐもった声で笑った。



 男達は奥へと進み、扉を開け、螺旋階段を上り始めた。その塔の最上部に、彼らの目的の場所がある。螺旋階段は狭く長く、上り切った先の扉は、かなり頑丈な作りのようだった。

 後ろに従っていた男の一人が、扉の覗き窓から、中の様子をうかがう。

「逃げてはいまいな?」

「はい、かなり参った様子に見えます」

「そうであろうよ。扉を開けよ」

 扉に取り付けられた錠前の鍵穴に鍵が刺し込まれ、鍵が回されて、重そうな扉は二人がかりで外開きに開いた。


 扉の中には、粗末な椅子に腰掛けたトルキルの老いた姿があった。トルキルは、入ってきた男達にしっかりとした眼差しを向ける。

「居心地は如何かな、トルキル殿」

 そう言いながら仮面を取ったのは、シルニン・イクルだった。

 トルキルは、シルニン・イクルの顔を見上げたまま、黙っている。

 シルニンは、後ろの部下達をちらと顧みて言った。

「お前達も、もう仮面を取って良いぞ。トルキル殿は、夢見草がお気に召されぬらしいからな」

 仮面を取った部下達は、ほっと息をつく。

「ジグドル・ダザルの申すところでは、折角の好意の夢見草を断ったとか。仮にも大公の御家柄ゆえ、終生この塔に幽閉される程度の刑で済みましょうが、今後は食事の差し入れ以外は人の出入りも一切無く、楽しみも慰めも無い幽閉生活が続くと言うのに、夢見草無しで、いつまで平静を保てますかな」

 シルニンは薄笑いを浮かべた。

「身に覚えのない罪に、どうして恐れ戦く必要が在ろうか」

 トルキルは、シルニン・イクルをまっすぐに見て答えた。

 シルニン・イクルは、少したじろぐように、開きかけた口をつぐんだ。

「シェリンという娘はどうなった」

 トルキルが、シルニン・イクルに鋭い目を向けて訊く。

「そんな強気でいて良いのですかな?」

 シルニン・イクルは、じろりとトルキルを見た。

「トルキル殿が口を割らない以上、あの娘に訊くことになりましょうな。ジグドル・ダザルは、このシルニン・イクルとは比べ物にならない執念深い男。あの娘、じきに口を割りましょうな」

「何度も言うが、謀叛を企てた事など一度も無い。あの娘にも、今までに会ったことは一度も無い。私はこのままでも構わぬが、そのシェリンという娘と仲間は、今すぐ解放してほしい」

 トルキルは、あくまで静かな低い声で言った。

「まだ言われるか。自分の推薦で宗主陛下正后となられたアスタリア皇女に皇子が生まれず、実権が日々失われるのを恐れて、ロウギ・セトという異世界からの来訪者をでっち上げて世を騒がせ、ダムセル・ダオルと共にテムルル・テイグ殿を殺害し、旧知であるサウサルの末息子がやっている音楽に目を付けて、歌で民衆を扇動しようと画策した。言い逃れなどしても、外聞晒しにしかならぬのに。トルキル殿、貴方は既に権威を失墜した。覆水盆に返らず。誠に残念ながら、ダムセル・ダオルはいまだに行方知れずらしいが」

 ダムセル・ダオルはまだ捕まってはいない……それは、トルキルが捕らえられて以降、初めて聞いた朗報だった。

「そうか、無事でいると良いが」

 トルキルは、安堵の息をついた。

「安堵されるのは早計というもの。ゲスデン・ウムルは、罪を恥じて自害したとか。息子のゲスデン・エムルは律儀に黙秘しているらしいが、いずれ処分が決まりましょうね」

 トルキルは、驚愕に目を見開き、それから力無く視線を落とした。

「ゲスデンを殺したのか。何故そんな不正が罷り通るのだ」

「不正は許されぬ。ゆえに報いを受けた。まあ、トルキル殿はここで静かな余生を送られるがよい」

 冷ややかにそう言い、部下を連れて出ていこうとしたシルニンは、ふと立ち止まると、トルキルを振り返り、にやりと笑った。

「言い忘れていたが、このシルニン・イクル、近々丞相じょうしょうになりますぞ。宗主陛下と次妃リルデ様が、そうお望みなのでね」

 そして、重い扉は閉じられ、錠前が下ろされる音が響いた。



     **********



 どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。

「どうやら気が付いたようだな」

 再び目を覚ましたシェリンに聞こえてきたのは、残忍そうなたジグドル・ダザルの声だった。

 鉄格子の牢の中に横たわるシェリンのそばには、看守の男が立っていた。看守は、立ったまま手を伸ばし、床の上のシェリンの身体を掴んだ。

「さあ、来るんだ」

 シェリンは、乱暴に引き起こされる。

「ああっ」

 シェリンは、その乱暴な扱いと強い握力に、思わず悲鳴を上げ、身をよじった。

「離して! わたしはちゃんと自分で立てる!」

 看守は、薄笑いを浮かべる。

「ならさっさと立て!」

 看守はシェリンの顔に目隠しを被せ、腕をつかむと、鉄格子の牢から引き出した。

 腕を掴まれたまま、シェリンは通路を歩かされ、やがて重そうな扉が開く音がして、また歩かされ、ようやく目隠しを解かれた。医務室のような部屋で、中央には細長い戸板のような寝台があった。ジグドル・ダザルのほかに、女の看守も一人いる。

「この上に寝て」

 女の看守が、戸板のような寝台を目で示して言った。

 シェリンは、言われるがまま、寝台に上がるしかない。

 シェリンが寝台に上がると、手首と足首、そして胴を、頑丈そうな幅広の革紐で固定された。

「ここがどこか分かるか?」とジグドル・ダザルが言った。

 シェリンは黙っていた。

「ここは、ヌール・ヴェーグ城の牢獄の一番奥だ」

 ジグドル・ダザルは自分で答えた。

「これから楽しい遊戯をしよう。俺が勝つか、お前が勝つか、勿論、勝つのは俺の方だと決まっている」

 ジグドルが脇に控えた女看守に目配せすると、女看守はシェリンに歩み寄り、シェリンの顎をつかんで口を開かせ、手にした壺の注ぎ口を押しつけて、中味の液体を飲ませようとした。

 シェリンは抵抗した。液体はシェリンの口から零れて流れ出し、液体の妙に甘そうな強い匂いが漂う。

「勿体ないことをするな。夢見草の絞り汁は貴重なんだぞ」

 ジグドル・ダザルが怒鳴った。

「えーい、へたくそめが」

 ジグドル・ダザルは、いきなりシェリンの顔に平手打ちを食らわせると、女看守の手から液体の入った壺を取り上げた。

 ジグドル・ダザルは、シェリンを睨みつける。

「若い娘に手荒な真似はしたくないが、言うことを聞かないなら仕方がない。さあ、口を開け」

 ジグドル・ダザルは、シェリンの顔を肘で押さえつけ、手の平で鼻を塞いで、口の中に壺の中味を無理矢理流し込んだ。

 どろりとした多量の液体が、嫌でもシェリンののどを通り抜ける。僅かな苦みと妙な甘みのあるその液体は、ねっとりと絡みつき、甘美とも言えるような痺れをもたらしていく。

「どうだ、癖になる味だろう?」

 ジグドルは嘲笑し、シェリンの顔を掴んでいた手を漸く離した。

 シェリンは激しく咳き込む。液体の一部が、気管へと流れ込んだのだ。

「夢見草の幻覚作用は微弱なものだが、使い方と量によっては、永遠に覚めない夢の中に閉じ籠めることも可能だ。絞り汁は、慣れない者は悪酔いするし、多量あるいは継続的にに飲用すれば、中毒により禁断症状が出るようになる。それから用心しなければならないのは、気分が軽くなって、意味もなく愉快になって、口も軽くなり、訊かれたことに何でも答えてしまうということだ。さあ、白状するがいい。トルキルに何を頼まれた? お前はどこまで知っている?」

 しかし、シェリンは、咳が治まっても、しっかりとした目でジグドルを睨んだまま、口を開こうとはしなかった。

「気の強い娘ですね。夢見草が効いていないのかも……。瞳孔もしっかりしている。夢見草に慣れているのかも知れません」

 女看守が言った。

「では、次の手段だな。例の物を」

 ジグドルは、慌てた様子もなく、寧ろ状況を楽しんでいるかのようだった。

 女看守が差し出した箱に入っていたのは、透明な小瓶に入った無色透明な液体と、注射器だった。

「これは夢見草の成分を抽出して濃縮した自白剤だ」

「自分がやりましょうか?」と女看守が言った。「これでも一応医者なので、注射には慣れていますが」

 ジグドル・ダザルは、女看守をじろりと睨んだ。

「やりたいのか?」

「いえ、決してそういうわけでは」

 女看守が慌てて答える。

 ジグドルは、小瓶から液体の全量を注射器に吸い取った。

「多過ぎませんか?」と女看守が尋ねる。

「死ぬ程の量ではないし、廃人になったところで別に困りはしない。看守を殺して逃亡したことにして、ソルディナに捨てても良いとのことだからな。シルニン・イクル殿から話を聞いた時には、そういう手もあったかと、思わず手を打ったものだ。この娘の仲間も、外で騒ぎ立てるこの娘の信望者達も、すぐに大人しくなろうよ」

 ジグドルは、女看守にシェリンの身体を押さえさせると、手にした注射器の先端を見つめ、不気味に笑った。

 シェリンの白い首筋に注射針が突き立てたれ、一気に内筒が押される。

 その液体が静脈の中で沸騰したかのように、鋭く焼け付くような痛みがシェリンの全身を駆けめぐり、反射的に、シェリンは、身体を縛り付けている幅広の革紐を引き千切る勢いで身を捩った。


 意識を失ったシェリンは、今までのどんな眠りよりも深い彼岸の夢の中へと、どこまでも沈んでいった。

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