2 囚われの歌姫
気が付いた時、シェリンは手足を縛られ、口には
身体を動かそうとすると、頭がズキズキと痛む。
ウルクストリア国立ラダムナ劇場で、憲兵隊に捕らえられたことだけは、辛うじて思い出すことができた。
売国奴トルキルに加担して国民を先導しようとした罪だと言われたが、シェリンには全く覚えがない。アケリナ・アディティという捨てたはずの名前も調べられていた。
「良かった。まだ薬は使われていないようだね」
それは、シェリンの知らない女の声だった。
声の方をうかがうと、鉄格子の向こう側に、少し太目な体形らしい女が立っていた。薄暗くて、顔はあまりはっきりとは見えない。
「あたしの名はファアティ。あんたの敵じゃないから安心して。ちょっと裏の手を使って、あんたに会いに来たんだ。残念ながら、あんたを逃がしてはあげられないけれど、話を聞いてくれるかい?」
女は、低い声で囁くように言った。
シェリンは
ファアティと名乗った女は、それを了解の合図と受け取ったのか、ゆっくりと話し始めた。
「あたしは、本当は、あんたに母親の形見の指輪を渡してあげたかったんだよ。けれど、それを探しにテムルル・テイグの部屋に忍び込んだけれど、見つからなくてね。逆にあたしが息子のテムルル・エイグに見つかっちまった。それでテムルル・エイグに訊いたのさ。あたしが昔テムルル・テイグに渡した歌姫アリダの指輪をどうしたのかと。テムルル・エイグは言った。あの指輪なら、ここには無い。あれは、ある男を罠に掛けるのに使ったと。だから、あんたに、その指輪を渡してあげることはできないけれど、あんたに母親のことを話してあげたいと思ってね」
シェリンは疑った。母は指輪など持っていなかったし、今シェリンが居る場所が何処なのかは分からないけれど、わざわざこんな牢獄に、そんな話をしにくるなんて変だ。
シェリンは後ろ手に縛られ、口も
「疑っている目だね? なぜ危険を冒してまでそんな話をしに来るかって。当然の疑問だね。あたしにも良くは分からないけれど、たぶん、あんたの境遇が、昔のあたしに似ているからかもしれないね。嘘じゃないよ。あたしは、少女の頃、親に捨てられたも同然でね。酷い生活をしていた。金品を持ち帰らないと、年上の仲間達に容赦ない扱いをされてね、まだ西インシュバルの行商人だったテムルル・テイグの財布を
ファアティは、そこで一旦言葉を切った。
シェリンは、まだ相手を信用してはいなかった。鉄格子の外に立つファアティと名乗る女は、殺害されたという丞相テムルル・テイグの間諜として働いていて、息子のテムルル・エイグとも知り合いだという。それが本当なら、なおさらのこと、シェリンの味方であるはずがない。
ファアティも、まだ信用されていないことは察していたかもしれないが、話を続けた。
「少し長い話になるよ。この場所はヌール・ヴェーグ城という古い城にある牢獄でね。迷路のような通路に沢山の牢がある。たぶん、あんたの他の仲間も、どこか別の牢にいるんだろう。看守も沢山いるけど、しばらくは、ここには来ないはずだから、聞いてくれるかい?」
シェリンは、小さく頷いた。ファアティと名乗る女が何を語るのか、聞くだけ聞いてみようと思ったのだった。
ファアティは、歌姫アリダの話を語り始めた。
アスタリアにアリダという歌姫がいたという。歌姫といっても、内気な為に人前では歌えず、別の看板女優に陰で歌声を当てていたのだが、あるきっかけで、陰で歌っていたアリダの姿が人目に晒され、その姿と歌声の美しさ清らかさが評判となり、ウルクストリアの先代宗主の耳にも届いた。
先代宗主は金と人を使ってアリダを手に入れようとしたが、想い合う相手の居たアリダは、ソルディナへと逃れた。
それでも諦めようとしなかった先代宗主は、当時大臣となっていたテムルル・テイグに命じて、アリダを探させた。アリダは、ソルディナの辺境警備隊によって捕らえられ、ウルクストリアへと護送された。その時にアリダに付き添ったのがファアティなのだという。
アリダは、その華奢な指に、青い金砂瑠璃の付いた指輪を大事そうにはめていた。恋人から贈られた、裏側に彼女の名前が刻まれた指輪だった。
アリダがウルクストリアに連れて来られた後も、ファアティは、世話係兼見張り役としてアリダに付き添った。
その頃には、移り気な先代宗主のアリダへの関心は既に薄れており、アリダは先代宗主の元に送られることはなかったが、ファアティが少し目を離した隙に、ストーレの闇に紛れ、
アリダの死体は見つからず、テムルル・テイグは、行方を捜すようにファアティに命じた。アリダが水原に身を投げたのは、わずかな時間とはいえ目を離してしまったファアティの失態でもあり、アリダについての新たな情報を得るまで帰還してはならないというのが、テムルル・テイグの命令だったという。
「テムルル・テイグがアリダに固執したのは、アリダの清らかな美しさや歌声が評判になったとはいえ、アリダが原石のままだったからかもしれないね。テムルル・テイグは、儲け話には抜け目が無かったけれど、磨き抜かれた光晶石のような人工的な輝きには、本当は興味が無かったんじゃないかと思うよ。まだ輝きを発していない原石を、自らの手で輝かせることに興味があったのかもしれない。テムルル・テイグの妻は、最初の妻も後妻も貴族の娘で、磨き抜かれた美女だったけれど、テムルル・テイグにとっては、宗主の皇太子に嫁がせる娘を産ませるための道具でしかなかったようだしね」
ファアティは淡々と語った。
シェリンも黙って聞いた。
ファアティの話は続く。
水原に身を投げたアリダが流れ着きそうな場所を、ファアティは探し続けた。有り得ないと思いながらも、ウルクストリアのみならず、エラスタリアにも足を延ばした。
そこで、偶然にも、アリダのものと思われる指輪を男が質屋に売ろうとしているのを目撃する。いや、偶然ではなかったのかもしれない。声を聞いたような気がするとファアティは言った。そこへ行けば探し物が見つかるという声を。
指輪を売ろうとする男を詰問すると、男は水夫で、水原で溺死体を引き上げ、死人には無用な物だと思ってその女の指から指輪を盗んだと白状した。
ファアティは、その指輪を水夫から取り上げ、ウルクストリアへと帰還して、アリダが死んだ証拠としてテムルル・テイグに指輪を渡した。アリダが生きていれば、絶対に手放すはずのない指輪だった。
ところが、後になって、ファアティは、アリダが死んではいなかったことを知る。身元を示す持ち物が無かったことから、無縁共同墓地に葬られようとしていたアリダは、葬られる寸前で息を吹き返した。髪は真っ白となり、記憶も失っていたが、見目が良かったことから、アスタリアの花街の
「それが、あんただよ。あんたも母親も、アケリナ・アディティと呼ばれていたね。古い言葉で、アケリナとは『
ふと気付くと、薄闇の中で、ファアティの頬に光るものがあった。
ファアティは泣いているのだろうか。間諜ならば、相手を
「ちょっとだけ、こっちにおいで。その両手の戒めと猿轡を外してあげるよ」
指先で頬を拭い、ファアティが言った。
シェリンは迷う。まだ信じられない。
「あんたは一人じゃないよ。たぶん、あんたには二人の……」
ファアティが、そう言いかけてやめた。続けて何を言おうとしたのか。
薄闇の中で、妹の死を悼む姉のような、再会した娘を愛おしむ母親のような、そんなファアティの眼差しが注がれているのを、シェリンは感じた。
信じても良いのだろうか。
シェリンが鉄格子の前ににじり寄ると、ファアティはシェリンに横を向かせ、鉄格子の隙間から手を入れて、シェリンの手足の戒めを解き、それから猿轡を外した。
「あんたに渡す物がある。あんたは、この後きっと、強い薬を使われる。廃人にもなりかねない。
ファアティは、小さな包みをシェリンに握らせ、長い拘束のために力が入らないシェリンの手を押し包んで、優しく強く握った。
「信じるも信じないもあんた次第。飲むも飲まぬも任せるよ。この後にあんたに起こることを、あたしはどうにも出来ないけど、諦めずに生きるんだよ。あんたの母親は、気弱だったけれど、誰をも魅了する、そして、一人の男性に心から愛された清らかな
ファアティと名乗った女は、鉄格子の前から何処へともなく去り、シェリンの手には、解毒剤の包みが残された。
シェリンの母親が、アリダという歌姫だったというのは本当なのだろうか。自分の母親が歌姫アリダなら、父親は誰なのだろうか。アリダに指輪を贈ったという恋人なのだろうか。それとも……。
シェリンは、掌の包みを広げ、解毒剤だという中身を口に入れた。もしファアティの話が虚偽であったとしても、それはそれでいい。この先の運命は流れに任せてみよう。
わずかな唾液で飲み込むと、それは喉の奥で溶け、
シェリンは、床の上に
**********
テムルル・エイグは、久しぶりに宮廷に出仕していた。
ラムデン議定長の娘との縁談は、父テムルル・テイグの急逝により、晴れて白紙となったが、そのために、エイグと近付きになれる好機を狙う若い貴婦人達の目を避けるのに苦労することになった。貴婦人たちの姿を目にするや否や、気付かれる前に、その場を避けて別の道を行くか、暫し身を潜めてやり過ごすのだ。
貴婦人達が歩くはずもない隠し通路を通り、中庭に通ずる小道に出た途端、そこに、エイグの異母妹であり現宗主の次妃であり、第一皇子の母であるリルデがいた。エイグが通ることを知って待ち構えていたかのように。
「お珍しい事ね、お兄様」
リルデの言葉には、日頃とは違って刺が感じられた。
「これはこれは次妃リルデ様。この度は再度の御懐妊の由、
エイグはことさら丁寧に言いながら、深々と頭を下げた。
「見え透いたお芝居は止めて。例のアスタリアの歌姫、誰が資金援助をしていたか、私、知っているのよ。バルドルが暫く姿を見せないことがあったけれど、あれは、アスタリアに行っていたのね。そうなんでしょ?」
リルデは、声こそ抑えていたが、ひどく怒っているようだった。
「さて、おっしゃる意味が分かりませぬが」
エイグは、顔色も変えずに答えた。
「白を切るおつもりなのね」
リルデは、冷たい目でエイグを睨んだ。
「もしそうであったとしても、リルデ様には関係の無いこと」
エイグは顔を上げ、胡散臭そうに妹を見やると、いつも通りの皮肉そうな表情で言った。
リルデの目の色が、冷たい色から悲しみを湛えた色に変わる。
「どうしてそんな風に言うの? お兄様ほどの方が、本当に、あんな娘なんかに興味を持ったの? 私が
「妹に興味を持ってはいけないか?」
エイグは、リルデを見やり、当然の事のように言った。
「妹? お兄様の妹は私じゃないの」
リルデは、合点がいかずにエイグを見上げる。
「表向きはな。しかし、お前も承知の通り、俺とお前の間に血の繋がりは無い。ところが、あの娘は、おそらくは血の繋がった実の妹。父も母も無く苦労をしていると分かれば、黙って指をくわえている訳にもいくまい?」
エイグは
「そんな……。証拠でもあると?」
驚いたリルデが聞き返す。
「証拠など、そんなものは必要ない。俺自身が認めれば、それで良いこと。話がそれだけなら、もう行くぞ」
エイグは、妹に背を向けて歩み去ろうとした。
リルデはその袖を掴み、離そうとはしない。
「まだ話は終わっていないわ。あの娘が本当に妹だったとして、それでどうするおつもりなの? 助けたいとでも思っていらっしゃるの? お兄様にだって謀反の疑いが懸かるかも知れないのよ」
リルデは真剣な顔で言った。
「お前には関係のない事だ。宗主陛下の地位が安泰で、第一皇子が息災で、大臣のシルニンが後見である限り、お前の身もまた安全。俺に要らぬ世話を焼く必要はない」
「酷い言い様だわ。本気でお兄様の心配をしているのに。お願いだから、優しかった昔のお兄様に戻って」
リルデは、エイグの腕にすがるようにして言った。
エイグはそれを笑殺し、依然として冷ややかな態度を改めようとはしなかった。
「今だって優しいではないか。お前の頼みはいつだって聞いてやっている。これ以上、俺に何を期待するというのだ」
エイグは、リルデの膨らみかけた腹部を見やった。
リルデは、腹部を守るように手を置き、不安げにエイグを見上げた。
「俺に構うな」
そう言い残して、エイグは立ち去った。
呆然と立ち尽くすリルデの背後で、侍女の声がした。
「こちらにおいででしたか、リルデ様。宗主陛下がお探しでございます」
「今戻ります」
リルデは、両眼に滲んでいた涙をそっと拭うと、顔を上げ、毅然として侍女を振り返った。
リルデが宗主の待つ居間に戻ると、大臣シルニン・イクルが訪れていた。
「何か進展はありましたの? 例えば、あのシェリンとか言うアスタリアの歌姫は口を割りまして?」
リルデは、宗主の隣の椅子に腰を下ろしながら訊いた。
「残念ながら、大した進展はありませぬ。シェリンという娘については、これからにございます」
シルニン・イクルは恭しく答えた。
「そんな娘をこのラダムナに置くなんて、
リルデは眉を顰め、身震いするように肩を縮めて言った。
「出来ないのか、シルニン?」と宗主が訊く。
「はい、私も、リルデ様のお考えに賛同致しますが、今度大監となったジグドル・ダザルが申しますには、その娘の信望者達が、ヌール・ヴェーグ城周辺を取り巻いておりまして、移送もできない状態との事でございます。シェリンに自由を、我々にシェリンの歌をと、それはもう酷い騒ぎで、逮捕者も出ておる様子にございます。民衆は不満を溜め込んでいるようで、無理に移送しようとすれば、危険な事態になるやも知れません。まったく、見事に民衆を見方に付けたものでござりまするよ」
途方に暮れた様子で、シルニンは答えた。
「ストーレの闇に乗じて、極秘に貨物用飛行船に乗せてしまえばいいわ。看守を殺して脱獄したことにして、ストーレが止んだら、すぐにソルディナに向けて出発するのよ。他の仲間達は裏切られたと思うでしょうし、信望者達は幻滅するでしょうし、扇動していた本人が姿を消せば、すぐに熱も冷めて、民衆の騒ぎも納まるわ」
リルデは冷ややかに言った。
「しかし、飛行船ではソルディナまで行けないのではないか? 乱気流で墜落してしまうと聞いたぞ?」
宗主は心配そうにシルニン・イクルを見やった。
「確かに」
シルニン・イクルが渋い顔で頷く。
「他に方法が無ければ仕方がないわ。宗主陛下とラダムナの安全こそが第一ですもの」
リルデは、宗主の顔を見ながら答え、そして、シルニンの方を向いて付け加えた。
「そうですわよね、
もちろん、シルニン・イクルはまだ丞相ではない。
宗主は、リルデの言葉に頷きながら、腰かけたまま、シルニンを見上げた。
シルニンは、不安そうな宗主と気丈なリルデを交互に眺め、やがて自信ありげに大きく頷いた。
「直ちにジグドルに申し付けましょう」
「急いでね。でないと、心配で眠ることも出来ないわ」
リルデは、念を押すようにシルニンに言った。
「夢見草をお届け致しますよ。ソラリア高原産の特上品が手に入りましたので。悪酔いすることなく不安を消し、良い夢の中で安らかにお休みになれるでしょう。もうしばらくご辛抱下されば、もうリルデ様を煩わせる種も消え失せましょう」
シルニンは、頷きながら、満面に笑みを浮かべた。
宗主も次妃もすっかり自分を頼っていると思うと、大きな自信が沸いてくるのだった。かつての丞相テムルル・テイグのような、いや、それ以上の権力を自分は握るのだと、シルニンは胸の内でほくそ笑んだ。
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