5 翡翠鳥の館
エイグが目を覚ますと、既に月が高く上り、ラダムナの都を明るく照らしていた。
窓を開けて空を見上げると、天蓋の反射光の中に、テムルル家の
翡翠鳥とは、東西インシュバルの人里離れた
「これ見よがしに紋章付き飛行船など飛ばさずとも、テムルル家の権勢は知れ渡っていように」
エイグは冷笑して呟いた。
部屋の外の通路から騒がしい声が聞こえてきた。どうやら、父テムルル・テイグが召使に怒鳴っているらしい。
エイグは扉を開けた。
「父上、何か御用ですか?」
「御用ですかではない。宮廷に顔も出さんと、何を考えておるのだ。毎日毎夜ふらふらと遊び歩きよって。一応お前も大夫の一人なのだぞ」
「どうせ肩書だけの役職ではありませんか。自分など出なくとも誰も困りませんよ。それより、あまり大声を出されると、血圧に悪いのではありませんか? 父上の孫が天竜の紋章の元に君臨する日を目前にして、ぽっくり逝っては元も子もないでしょうに」
エイグの平然とした態度に、父テイグはますます激した。
「余計な世話だ。父親の心配より自分の将来の心配でもせい。栄進して身を立て名を上げようという志は、持ち合わせていないのか。わしがどれだけ苦労して今の地位を築いたと思うておるのだ」
「心得ておりますよ、父上」と、エイグは答えた。
「何が心得ておりますだ、この放蕩息子めが。お前の見合いの相手を決めた。中食前には迎えの竜車が来る。今宵はそれまで館を出るでない」
「見合い? 何の冗談です」
エイグは受け流すように笑って言った。
「冗談ではない。いい歳をして、何時までも独り身では世間からも信用されん。妻子を持てばお前も少しは性根が入るだろう。破談にしようと策を弄しても無駄だからな」
「その物好きな相手は一体何処の誰なんです?」
エイグはからからと笑いながら訊いた。
「ラムデン議定長の御息女だ。お前も顔は知っておろう」
宗主に対して多大な発言権を持ち、今や政財界を完全に牛耳っているとも言えるテムルル・テイグではあるが、栄達の為には手段を選ばず、かなりあくどい方法で邪魔者を陥れてきたらしい。それでも、まだ政敵が完全に消えたわけでは無い。議定を左右する議定長を味方にするには、姻戚関係を結んでしまうのが、確かに最も手っ取り早い方法ではあった。
「父上にしては大人しい遣り方ですね。世間では父上を何と呼んでいるか御存じですか。蛇大臣だそうですよ。今は蛇丞相ですかね」
「良いではないか。蛇は、海に千年、山に千年棲んで竜になると言う。わしが何れエラーラの竜になるという証であろうよ。良いか、エイグ、ラムデン議定長は、あのトルキル大公家にも対抗できるほどの旧家の出だ。この意味が分からん程お前も盆暗ではあるまい。せいぜい気に入られるよう、美しく身なりを整えておくがいい。お前の取り柄と言えば、母親譲りの緑色の目と顔だけだからな」
そう念を押して慌ただしく出ていく父の後ろ姿を見やりながら、エイグは片笑みを浮かべて呟いた。
「蛇大臣の牙も、往年の毒気が失せたものだ」
振り返ると、召使いがおどおどした様子で立っていた。
「……あの、エイグ様、リルデ様がお見えでございますが。お茶を御一緒したいとの事でございます」
「なに、妹がか?」
妹リルデとは、即ち、第一皇子を産んだ現宗主の次妃である。
エイグは、着替えを済ませて直ぐに行くと伝え、召使いを下がらせた。
エイグが居間に入っていくと、リルデは、ゆったりと長椅子に腰掛け、干菓子を摘みながら香茶を飲んでいた。髪を美しく結い上げ、次妃に相応しい優雅な衣装を身にまとっている。その斜向かいでは、母レリデが、波打つ明るい栗色の髪を下ろし、まだ部屋着のままで、肘掛け椅子に腰掛け、優雅に扇を揺らしていた。
レリデは貴族の出であり、成り上がりのテムルル・テイグとの婚姻は意に添わないものであったが、娘リルデが宗主の次妃となり、第一皇子の母となったことは、彼女の自尊心を大いに満足させていた。孫を持つ身となったレリデであったが、美貌の衰えは見えなかった。
エイグは、長椅子のリルデの隣に、どかりと腰を下ろした。
「リルデ、まさか宗主陛下に暇を出された訳じゃぁあるまいな。皇子はどうした」
「まあ、心配して下さるの? 珍しいこと」
リルデは、兄を見ると表情を輝かせたが、口では皮肉そうに言った。
「皇子なら乳母が見ているし、陛下も御一緒に皆で球打ちをするので、お兄様を迎えに来たのよ」
「球打ちだと? あんな子供騙しの戯れ事など好かんと言っているのに。それに、そんな用事なら誰か使いの者を寄越せ。次妃たる自覚が足りないぞ」
「ちゃんと侍女と護衛を連れて来たんだからいいじゃないの。使いを寄越したくらいでは、お兄様は来ては下さらないでしょ。お兄様ったら、皇子の顔も見に来て下さらないのだものね」
「暇潰しの相手なら他に幾らでもいるだろうが」
「お兄様だって暇なんでしょう?」
リルデは拗ねたように上目遣いに兄を見た。
「お前と同じ顔の皇子の顔など、今更見に行くほど暇なものか。特に今は宮廷内も色々賑やかでね」
「そういえば、異世界からの来訪者って本当かしら。会ってみたいわ」
「リルデ、お前もくだらん
エイグは、召使いの用意した香茶の碗を口に運びながら答えた。
「宗主陛下も父上もそう言っていたけれど、おもしろそうじゃないの」
「この国の退廃の一因は、暇人が多い事だな。それで球打ちなどという下らない遊びも流行るわけだ。出世の早い者ほど球打ちが巧いらしいからな」
「お兄様ったら、ほんとに口が悪い。久しぶりに会いに来たというのに、妹と一緒に球打ちするのも嫌だとおっしゃる。ほんと冷たいわ。ねえお母様」
リルデは、身体は兄の方に向けたまま、助け船を求めるように顔だけ母に向けて言った。
「エイグ、折角リルデが迎えに来たのですから行っておあげなさい。それに、宮殿での社交も少しは大事にしなくてはね」
ゆったりと扇を揺らし、レリデはエイグに微笑んだ。
「いくら母上のお言いつけでも、今宵ばかりは無理ですね。迎えの車が来るまで出掛けてはならぬと、父上にきつく申し付かっておりましてね。見合いだそうですよ」
「お見合いですって? お相手は一体どなた?」
リルデは驚きの声を上げた。
「ラムデン議定長の御息女だとか。父上は、もう式の日取りまで決めているかのような口振りで」
「ここだけの話だけど、議定長の御息女って、ちょっと苦手よ。いつも付き合いが悪いの。きっと家柄は自分の方が上だと思っているのよ。お兄様、本当にお見合いなさるの?」
「さあな」
妹リルデの問いに、エイグは他人事のように答えた。
「……あの、リルデ様。今、その……」
居間の戸口から遠慮がちな顔をのぞかせたのは、リルデ付の侍女だった。
「なんなの?」と、リルデが顔を上げる。
「その、今しがた、速駆けの竜にて宗主陛下の御用人が……陛下がリルデ様を待ちわびておられると……」
リルデは、うんざりしたように溜め息をついた。
「まだ香茶も飲み終えていないのに」
「リルデ、さっさと宮殿に戻れ。大事な皇子も乳母と一緒に待っていよう」
「そうなさい、リルデ。宗主陛下をお待たせするものではないわ」
微笑みを浮かべたまま、母レリデも言った。
「仕方ないわね。そうするわ。お兄様、たまには本当に宮殿にいらしてよ」
リルデは、後ろ髪を引かれるように、のろのろと長椅子から立ち上がった。
部屋を出て行くリルデを見送り、レリデはエイグを見て微笑んだ。常に微笑みを浮かべるレリデが何を考えているのかは推し量るのが難しい。
エイグも長椅子から立ち上がり、部屋から出ようとした。
「エイグ、お前、本当にお見合いに行くつもり?」
レリデが引き留める。
「父上に逆らってばかりもいかぬかと」
「そうね。ラムデン議定長の御息女のこと、貴方はどう思って?」
面白がるようにレリデが尋ねる。
「どう、と訊かれましても。女にあまり興味を持ったことがありませんので」
エイグは、素っ気なく答えた。
「そうなの? じゃあ何に興味がおありなのかしら?」
レリデはくすくすと笑いながら立ち上がり、エイグに手を伸ばした。
レリデの噎せるような甘い匂いがエイグに忍び寄り、レリデの波打つ栗色の髪がエイグの頬を撫でた。エイグの肩にレリデの腕が絡む。
「お前は私のものよ。これまでも、これからも」
レリデはエイグの額に垂れた褐色の髪を掻き上げ、緑の瞳を見つめて言った。
「息子をからかうのはやめにして欲しいのですが?」
エイグは溜め息を吐いて言った。
「政略結婚の道具にされた可哀相な義母を慰めるのも、息子の立派な務めじゃなくて?」
エイグとリルデは、母の違う兄妹であった。エイグの生母はエイグがまだ幼い頃に亡くなり、テムルル・テイグは、傾きかけた貴族の家から若く美しい妻を娶ったが、その妻は既に身重であり、生まれたのがリルデなのだった。
「リルデの父親は、貴女の元婚約者だった男ですね?」
「そう、知っていたのね」
レリデはあっさりと肯定した。
「リルデは、父テイグには似たところが全くありませんからね」
「エイグ、貴方だって似ていないでしょう?」
「さあ、どうでしょうね。父も若い頃は好男子で大層な遊び人だったと聞いていますがね」
「テイグの話なんか聞きたくもないわ。テイグは野心の固まり。経済力に物を言わせて私と無理やり結婚して、生まれた娘の本当の父親が誰だろうと利用する男。世間ではテイグを蛇大臣と呼んでいたようだけれど、蛇の方が気を悪くするわ」
レリデは、おぞましい物を目にするように顔を顰め、吐き捨てるように言った。
エイグは、妹リルデの誕生した宵の事をよく覚えている。知らせを聞いたテイグの顔に浮かんだ笑みは、娘の誕生に対する純粋な喜びとは無縁のものだと、まだ幼かったエイグにも思えた。
そして、リルデは上流の乳母の手で掌中の珠の如くに育てられ、並み居る貴族や豪族の娘達の誰にも引けを取らない娘に育て上げられたが、それは宗主の妃に仕立てる為であった。
「リルデの本当の父親は死んだのですか?」
「そう、不幸な事故にあって」
「事故ではなかったのでしょう? 貴女は父テイグを憎んでいる。その息子は憎くはないのですか?」
「どうかしら。でも、それはどうでもいいことよ。貴方は私の手の中の美しい小鳥なのだから。鋭い
レリデは相変わらずの微笑みを浮かべ、歌うように楽しげに言った。
戸口から召使いが顔をのぞかせた。
「エイグ様、使いの竜車が参りました」
エイグは溜め息をついた。
「母上のせいで、哀れな獲物は見合いを逃げられなくなったようです」
「可哀そうにね」
レリデは、ふふと笑った。
エイグは迎えの竜車には乗らなかった。
館の裏門から抜け出すと、
「例の銀色の球体は?」と、騎竜に
「無事運び出しました」と、婆娑羅族の一人が答える。
「ドナレオ・ダビルと例の娘は?」と、再びエイグが訊いた。
「あの狂科学者も、娘も、
婆娑羅族の別の一人が答える。
「バルドル、お前にはもう一つ重要な仕事だ」
エイグは、懐から革袋を取り出して婆娑羅族の一人に投げ渡した。
「父テイグの部屋から拝借したが、まあ露見はすまい。指示は書きつけて中に入れてある。読んだら燃やせ」
「仰せのままに」
バルドルと呼ばれた婆娑羅族の男は、受け取った革袋を注意深く懐に仕舞った。
「役者は揃った。少しは俺を楽しませてくれるといいがな」
エイグは高らかに笑い、騎竜の腹を蹴った。
エイグは、正に、美しい翡翠鳥であった。
限りなく優雅でありながら、猛禽類のような鋭い嘴と鍵爪で無慈悲に獲物を狩る。仕留められた獲物が鉤爪から逃れようともがく、その感触を楽しむかのように、エイグは冷笑を浮かべ、婆娑羅族を引き連れて騎竜を走らせた。
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