草食信仰森小説賞での講評を受けて

洞田太郎

ありがとうございました

草食信仰森小説賞において銀賞に選んで頂きました。誠にありがとうございます。

信仰をテーマとした小説を書くのは初めてですが、書くときは必ずどこかに信仰が現れていると思っています。

イトリ川短編小説賞に「木が見たい小僧」を書かせていただいた時も、一つの信仰告白のような気持ちで出しました。その時から変わらず、私なりの「言葉に騙されない信仰」は原始的な信仰をいまの生活の中で実践することにあります。では言葉に騙される信仰とは何かという問いですが、私の経験を話すことで、正確な語彙ではなく全体の記述としてぼんやりと理解していただければと思います。

サッカー少年だった私は十二歳でアルゼンチン人の元プロサッカー選手と出会います。彼はキリスト教徒で日本の子供の自殺を減らすためにアルゼンチンから来日し、私の家の近くでサッカースクールを運営していました。サッカーを通して自分の過ごしてきた様々な経験を日本の子供に伝え、プロサッカー選手になる前にプロの人間を育てる必要があると言って日夜指導に当たっていました。私は彼に出会ってそのエネルギーに衝撃を受け、そのチームへの入団を決めました。プロ選手にはなれませんでしたが、十四歳でのアルゼンチン遠征、十九歳でのイタリア留学及びプロテストなどを経て様々な経験を積むことができ、そのチームでの経験には本当に感謝しています。

彼が日々繰り返していた聖書の言葉に「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。慄いてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」という句がありました。試合前のミーティングではこの言葉を引き合いに出し、我々は絶対に勝てる、と皆を励ますのでした。なぜなら、私たちには神様がついているから。

私がいつも思っていたのは、相手にも神様がついていたらどうなるのか?ということです。私たちと同じように彼らが神を信じていたら、どちらが勝つのか?

アルゼンチンの彼の人生は闘いの記録でした。アルゼンチン国内の片田舎に生まれた彼は生活のために十六歳でプロサッカー選手になります。祖母から受け継いだ信仰を強く持ち、自分がアルゼンチン人であるということに大きな誇りを持っています。

我々を教える時、グラウンドでは日本人であるということがマイナスかのように指摘され、「日本人は様々な細かいところに気が利くが、サッカーにおいては気持ちの強さが足りない」という趣旨のことを言われ、試合に負けた次の練習では監督から、「お前は何人だ?」と聞かれ「アルゼンチン人です」と答えるという茶番までやることになりました。これはつまり「お前は弱い心を持つ日本人だからダメなのだ、アルゼンチン人のように強い心を持つ必要がある」というメッセージなのですが、よくよく考えなくても私は日本人です。そう、どこまで行っても私は日本人なのです。それが初めて私が日本人であることを意識した瞬間でした。

ある時日本人のクリスチャンの方に聞きました。神がいる世界でも争いも戦争もなくならないが、それはなぜなのか?彼の答えはこうでした。神は我々にとって都合のいい存在ではない。神は全ての創造物に対して神であるが、それは彼が絶対的だから神なのだ。私たちの都合、つまり争いのない世界であるとか悪い奴がのさばっている現実であるとか、そういうものを解決してほしい我々の願いとは別の次元に神はいるのだ、そういうことでした。

私は「そういうものかもしれない」と思いました。神は私たちとは別の次元の存在なので、私たちの世界とはまた別の気分で生きているのかもしれない。つまり神と私とは他者である。他者に特定の行動を強いるなんて権利は私にはない。何をしたいか聞くならまだしも、あれをしてこれをしてなんて言ったところでどうしようもない。

ある時本屋に入って、現世利益を得られると主張する、異端とされているキリスト教一派の小さな本を買い、それを読んで心の底から信じて実行し、予知のような経験をいくつかしました。その多数の人々から虐げられる宗派において体験した事柄から確信したことは、「神はどこにでもいる」ということで、その「どこ」が指す先はそれぞれの宗教という意味でした。つまりどの宗教にも本当の神が存在している。そしてそれは辿れば神の根源である。私なりに言えば、神は法則ではなく、人間の祈りの先に一滴の水を垂らす存在。あらゆる祈りの先に神はある。私は、我儘で身勝手ながら我々にはどうしようもない超自然的な「何か」が存在するのだと、心の底から思ってしまったのです。

それぞれの宗教、宗派というのは、それぞれの神の敬い方であると考えます。その敬い方は風土が違う場合には異なるのであり、お客に対するもてなしが砂漠の民と山林の民で違うように、神へのもてなし方もどうやっても自分を基準にすることから逃れられない以上、その土地の環境を基準にすることなしには得られないのだと思います。私は神を敬いつつ文章を書きますが、私が日本に生まれ、山に近い環境で育ったことを考えると、それはどうやっても日本の原始的な信仰に近い「昔話のような話」にならざるを得ないのだと思います。

異端であるとか、我々に神がついているとか、様々な言葉を持って宗教は神の存在を指し示します。長田弘さんの詩集でハッとした言葉に「けっしてことばにできない思いが、ここにあると指すのが、ことばだ。」という一文があります。宗教が果たす役割も大方それと違いない。我々には我々に知覚できない存在によって生かされている部分がある。その部分をある人は宗教儀式で表す。そしてまたある人は絵で表し、ある人は文章で表す。


私がふと思い出す小林秀雄の言葉、イトリ川さんでは引用しましたがここではオマージュさせてください。


「信仰する人がいる、人の信仰という様なものはない」



さて、以上を土台としまして講評への感想を述べさせていただきます。

まず草さん、流石と言うしかないのですが「根付いている信仰」というのがまさに「私に根付いている信仰」です。キリスト教から逃げ出して這いずり回って探した私の信仰がこれです。

続いて鳥と畑についてです。鳥は私の生活の近くにいつもいるもので、俳句で青鷺は夏の季語に置かれています。自宅近くの川と池にいつもいる青鷺が、羽がかなりボロボロなんですね。でも細い脚をちょこんちょこんと伸ばしながら池を歩いて魚を取っている。その脛に当たる水は本当に美しいのです。終わりつつあるこの一羽の命をいつまで私は見られるかわかりませんが、この鷺の横を飛んでいく翡翠の背中の青さを見て青鷺の青と翡翠の青の違いに愕然としつつも、でも私はなぜか青鷺を目で追ってしまう。青鷺の背中の濁った青は、涙が出るほど美しいのです。

畑です。コロナウイルスの拡大によって目に見えない世界への関心が高まりました。主に自らの命を守るためですが、自らの命とは一体なんなのかを考えるときに大事なのは「私たちはいつか死ぬにも関わらず、なぜ今生きているのか」ということだと思います。そのうち死ぬのになぜいま生きているのだろう。もし急に死が目の前にやってきた時に私は何ができるか、いや、何を思うか。

様々なことを考えますが、死んだら、目は無くなるのではないでしょうか。死んで目がなくなったら、見えない世界に放り出される気がするのです。目で見ることとはまた違う次元で見ることになるかもしれませんが、死人が目を持っていった話を聞いたことはないのでおそらくいまの目とはまた違うもので見ることになるのでしょう。

見えない世界は確実に存在する。それはコロナで私たちが、世界の人々が実感したことです。その実感の小さな一部を「霊」と呼ばれるものに向けてもらえたら、日本の信仰がみなさんの元に戻ってくるのではないかと思います。

ショートカットさんの感覚もとても鋭くて、肉の部位別の効能における「事象」は全く長吉が生まれ持っていた感覚です。私はその感じはなかったのですが長吉はそう言っていました。私も書きながら「ほんとか…?」と思っていました。

二人の心についてですが、長吉はなんとなくこれまでの生活の中でおトキを意識していたのだと思います。私たちも第一印象でなんとなく「この人は私をわかってくれそうな感じがする…」というぼんやりした空気を感じたことないですか?……ありませんか………?

とにかく、長吉はその感覚を持っておトキに全てを話したのだと思います。この先もいろいろ障害はあるだろうけど、畑と山が二人を繋いでくれる様な気がします。

綿棒さん、そんな風習があるとは知りませんでした。そういうことがあるかもしれないという予感はありましたが本当にあるとは…。

我々は他の動物を殺して食べることでやっと生きながらえる宿命を背負っている時点で、根本的に残酷な生き物であるように思います。つまり、何も劇的ではない素朴な生活の中にも間断なく「他者の死」があるというのが我々の生活で、現代においてもそれは変わらないと思っています。

そしてまたそれが奪うだけのことでもなく、私たちが奪う相手も誰かから奪って生きているのであり、「奪い合う」のではなく、「奪うことの連鎖」として命がある。その鎖の一つに私がいる。

「人間はなぜ歌うのか?」という本に、我々が仲間の死体を肉食獣から取り戻すために戦いを挑んだ時、我々は猿から人間になった、という仮説が出てきます。

肉食獣がヒトを殺して食べる経験を積めば、ヒトは彼らの食糧として認知される。それを防ぐために仲間の死体を取り戻す戦いを繰り返し、死体を土に埋めて食料ではなく死者として弔う。そしてそのことが直接、その土地に生きるものたちの利益にもなる。

死んだ仲間を埋めて食糧から死者へと変える儀式こそ信仰の根本ではないでしょうか。その信仰はいまこの瞬間を生きるものの利益であり、その利益(生)が大きなものであるからこそ死者への弔いも盛大なものになる。

こういうことは作品に込められれば一番なのでしょうが、我々の葬式があまり大きなものでなくなってきたのは生そのものの大きさも縮こまってきたからではないかと思います。それは立派かそうでないかというものでは勿論なく、つまり、自分の生と他者の生を喜ぶ感情の大きさによるのではないかと思うのです。

講評へのアンサーだったはずがどんどん話が逸れました。すみません。講評を読ませて頂いたあと、お酒を飲みながらドンドン書いた文章です。そう言ったからって何かの免罪符になることはないのですが、勢いで書いた文章ですので、勢いで読んで頂いて、不可解なところは勢いで質問などしてもらえたらと思います。

改めまして、講評の御三方、参加された皆さん、本当にお疲れ様でした。

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草食信仰森小説賞での講評を受けて 洞田太郎 @tomomasa77

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