始まりの日:月
第1話
サラは大きく伸びをしてから薄暗い部屋の中を見渡した。
従業員用の部屋は三人部屋で、ここにはサラ以外にも二人一緒に寝ている。
起き抜けに言った一言で先輩たちまで起こしてしまったら申し訳がない。
サラはベッドの上で靴下を履き、寝間着のワンピースを脱いでから起き上がった。
ベッドの下には黒い靴がちょこんと置かれてあるので、そこに足を通してから壁に掛けておいた仕事着であるメイド服を取った。
ここのメイド服は至ってオーソドックスなものらしい。……らしいというのは、サラはここでしか働いたことはないし、宿屋に泊まったことがないので他の宿屋がどうなのかは知らなかった。
黒のワンピースは肩の辺りが少しだけふんわりとしていて、袖口は白できゅっと締まっている。スカートの丈は膝下。
胸の辺りや肩の袖口にフリルのあしらわれた白いエプロン。
この二つはセットでエプロンドレスという。
最後に白のフリルで装飾されたカチューシャをつけて完成。
着替えると、足音を立てないようにそろりそろりと部屋を出た。
廊下に出ても足取りは変わらない。
従業員用の部屋があるのは宿屋の三階で、三階にはオーナーの部屋と従業員用の部屋と高級な部屋しかない。
つまり、誰かをサラの足音で起こしても面倒なことにしかならない。
……まあ、ここには高級部屋を借りるようなお金持ちはあまり泊まりには来ないけど。
今日だって高級部屋は空き部屋だ。
でも、いつかここに誰かが泊まった時、油断してはいけないと先輩に教えられたからその言いつけを守っているに過ぎない。
階段まで辿り着くと少しは緊張感も少なくなってくる。
トントンと、小気味よく階段を降りる。
途中、二階の踊り場にある時計をチラリと見ると六時十分を指していた。
一階は酒場になっている。
昨日は休日だったからお客さんも多かった。
少しだけ一階に立ち込めた酒の香りに酔いそうになりながら、カウンターをすり抜けてキッチンの奥の扉を開ける。
そこは裏庭になっていて、井戸が掘ってあった。
サラは水を汲み、顔を洗うとようやく目が覚めてきた。
その足で裏庭の倉庫へ行き、ポケットから鍵を……。
「あんれ……」
ポケットをまさぐってみたが、それらしい感触がない。
まさかどこかに落としたかと思ったら、すぐに見つかった。
「そっか、昨日倉庫に鍵差し込んだまま寝ちまったんけ」
鍵はかけてはいたが、鍵自体が倉庫の鍵穴に刺さりっぱなしだった。
頭をかきながら鍵を開けて、倉庫から掃除道具を出す。
ほうきとちりとりを持って、裏口から酒場のホールに戻り、表の玄関へ出た。
朝日がサラを出迎えてくれる。
「今日も気持ちのええ朝だなやー」
ざっざっとほうきで玄関の周りを掃きながら空を見上げた。
雲一つない晴天に、気持ちも晴れやかになる。
「あ、あの……」
不意に声が聞こえてきたので視線を戻すと、目の前に男の人が立っていた。
ぼろい布を頭からかぶったような格好の、見るからに怪しげな青年だった。
年は二十歳くらいだろうか。
十六歳のサラよりは年上であることは間違いないと思う。
顔はそれほど印象に残るような顔ではない。
黒髪の真ん中分けに、どこにでもいるような目鼻立ち。おまけに中肉中背。
サラだってそれほど目立つような容姿ではないのだから言えたほどではないが。
少なくとも、人の往来が激しい日中の町中で出会っても気付くことはできないだろう。
旅人なんかは似たようなマントを羽織っていたりするし。
……ただ、目の前の青年は着ている物に対して顔は小綺麗にしていた。
旅人にはあまり見えない。
その不釣り合いな雰囲気だけが、目の前の青年の特徴を表していた。
マリリン亭は宿場町の外れにあるので、こういう何となく普通ではないお客さんも訪れる。
ここの女将さんはお金さえ払えばどんなお客さんでも泊めてあげるから、余計に訳ありのお客さんが来てしまう。
だから、見るからに怪しい人でも一応お客さんとして応対しなければならない。
――とはいえ、この時間から泊めることはできなかった。
「もしかして、お泊まりですたか? 申し訳ねーんだども、宿屋も酒場も見てのとーりまだ開いてねんだべ」
サラは教えられた通りに青年に言った。
「あ、いや……そうじゃなくて……」
青年は困ったようにモジモジしていた。
「……トイレだったら貸してやれねーこともねんだげね」
青年の様子と経験から察してそう言ったのだが、青年は顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
どうやら違ったみたいだ。
「……君、サラ=キャリーネだよね……?」
「あんれぇ、わだすおめに名前教えたっぺ?」
初めて見る青年にいきなり名前を当てられて、少しだけ不安になった。
もしかしたら、この青年は以前マリリン亭に泊まったことがあるのかも知れない。
だとしたら、このまま自分が相手をするのはまずいかも。
何しろ、まったく見覚えがないのだ。
営業前に女将さんを起こしたくはないのだが……。
「僕のこと、覚えていないかな?」
「悪いんだども、まったく覚えてねんだ」
はっきり聞かれてしまっては、はっきり答えるしかない。
サラはあっけらかんとしていた。
「そうか……。無理もないよね。サラちゃんと別れてからもう九年も経つんだもんな」
「――は? きゅうねん?」
益々青年の言っていることがよくわからない。
「僕はパウロ=フェルミナント。昔、君と同じ集落で暮らしていたんだ」
「…………ふーん。ほんで?」
名前を教えてもらっても、残念ながらサラには思い出せなかった。
そんなような男の子がいたような気もするし、いなかったような気もする。
かといって、それをいちいち確認していたらなんだか話が長くなる気がしたので、取り敢えず話を進めることにした。
このままだと掃除の時間もなくなってしまう。
少しだけ焦っていた。
「僕は、あの集落で暮らしていた時からずっと、君のことが好きだったんだ。この九年間だって、君のことは一度も忘れたことはない。だから――」
「おめ、目ーだいじょぶか?」
思わず心配してしまった。
サラは典型的な田舎娘だった。自分でも自覚している。
少しくせっ毛の黒い髪に青い瞳。背は小さくスレンダー……というか、それほど豊かなくらしをしていなかったから自然と細く育ってしまったのだ。
おまけに化粧なんてものはマリリン亭に来るまで存在自体知らなかったから、使い方がわからないので、ルームメイドをやっているのに常にすっぴんだった。
この宿場町に住む女の子の中でも、女としての魅力でいったら底辺に属するだろう。
「――あ、そっか。要するに冗談っちゅうことだなや。あんな、わりーけどそっだらくだらね冗談に付き合ってる暇ねんだ。わだすが田舎もんだからって騙しやしーって思うのはわがるんだけんどね」
職業柄、お客さんからこの手の冗談を言われることはある。
マリリン亭にはサラよりももっとずっと魅力的なルームメイド兼ウェイトレスがいるから、サラが声をかけられることはほとんどないが。
「ちょっ、ちょっと待って。冗談なんかじゃない」
掃き掃除の続きをしようとしたら、パウロと名乗った青年が肩を摑んできた。
その表情は必死に何かを訴えているように見えるし、瞳には哀しみのような感情が表れていた。
……だけど、何度思い返してみても、サラはパウロのことを覚えてはいなかった。
パウロにもサラの表情から考えていることが伝わったのか、やがて肩を摑んでいた手の力が緩んだ。
「……本当に、僕のことを覚えていないんだね。僕たちは、将来結婚の約束までしたのに」
「ケ、結婚!? わだすとおめがか?」
たいていのことには驚かない性格だが、これにはさすがのサラも声が裏返った。
「ああ。九年前、僕が世の中のことを学びたいと思って集落を飛び出した時に約束したんだ。帰ってきたら君と結婚するって。でも……」
パウロはそこで言葉をつまらせた。
「どうしたん? なんか言い難いことでもあんか?」
サラがパウロの顔を覗き込もうとすると、彼は意を決したような表情で言った。
「二年前、僕が集落に帰った時には、集落そのものがなくなっていたんだ。この町で君を見つけるまで、僕は集落の人たちはみんな死んでしまったとばかり……」
そこでようやくパウロが同じ集落出身であるということがわかった気がする。
元々サラが生活していた集落は地図にも載らない小さな集落だったが、今やその形跡さえ存在しないのだ。
二年ほど前、魔物に襲われて集落はなくなってしまったから。
集落に住んでいた人たちはほとんど死んでしまった。
サラの両親も。
サラは命があっただけ儲けものだった。
「ほんなら、結婚すっか?」
約束のことは物覚えの悪いサラが忘れてしまったのだろう。
でも、約束は約束だ。
集落のことは住んでいた人にしかわからない。
騙すのだとしても、そこまで素性を調べるのは難しいだろう。
それに、そんなに悪い人には見えないし。
「ふえ?」
サラの答えに、パウロは素っ頓狂な声を上げた。
「わだすは覚えてねんだけんども、約束したんなら結婚すんべ」
「あ、いや……」
オロオロとうろたえるパウロを見て、サラはわけがわからなくなってきた。
「おめはわだすのことが好きだって言ったべ? ほんで、結婚の約束もしてんだべ? ほんなら、結婚すんじゃねーのか?」
「えーと、あの……サラちゃんは僕のことを覚えてもいないんでしょ? だったら、もうちょっとよく考えてから答えて欲しいんだ。君の将来に関わることだし。僕たちにも立場ってものがあるし」
「……なーんか、おめの言ってることがよぐわがんねーな」
それが率直な感想だった。
「と、とにかくよく考えて欲しい。一週間後に答えを聞くから、この場所に来て欲しい。ただ、僕の気持ちは変わらない。今日はそれだけ伝えておきたかったんだ。それじゃあ、仕事の邪魔をしてごめんね」
顔を赤くさせながら、パウロは捲し立てるようにそう言って、サラに何やら地図の書かれた小さなメモを渡した。
そして、まるで何かから逃げるように立ち去っていった。
「……なんだったんだべ」
「ちょっと、サラ! どこにいるの!?」
甲高い声が酒場のホールから外に漏れてきた。
「おんやぁ……」
冷や汗が額から頬へ落ちる。
掃除を始めた時よりも、もちろん日は高い。
時計を見なくてもわかってしまうのは、この二年間の経験のたまものでもある。
もう掃除は終わらせて、次の仕事に取りかからなければならない時間なのだ。
しかし、その掃除だってほとんど終わっていない。
バタンッと音を立ててマリリン亭の扉が開いた。
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