詩の音-うたのおと-

山崎 迷

第1話

 ヘッドホンから流れる曲。この歌に何度救われたことだろう。

音楽のことはあまり深く知らないけど、この歌は俺を救う曲だ。

目を瞑ってヘッドホンから流れる音に耳を傾けていた。


 「麻田! 早くテスト取りに来い!」

急にヘッドホンを取られ、音の世界から遮断される。

…そうだ、今はテスト返却中か。

「麻田ぁ〜、今回の物理のテストどうだった?」

「ギリ赤点回避。お前は?」

「俺も! なんだ、自慢できると思ったのに残念だなぁ。」

仲の良い友人はいる、将来のことは考えてないけど、そこそこな生活をして暮らしていた。毎日。何も変わらない。

「麻田晃、放課後ちょっと職員室来い」

テスト返しを終えた先生がクラス全員の前で俺の名前を呼ぶ。

はい、と小さく返事をして窓の外を見た。

夏の雲が本当に眩しかった。


 「…麻田、進路希望調査も白紙で出しただろ。テストの点も良くないし、将来のこと…っていうか卒業直後ぐらいのこと考えておけよ。先生たちはお前が努力しなきゃ何も助けてやれないんだから…」

何も言えなかったし、何も言うつもりは無かった。先生が言ってることは正論だし、俺が勉強も何もしていないことは事実だから。

今この瞬間も、将来も、何もかもが面倒で仕方がなかった。

「とにかく、この白紙の進路希望だけ土日休みのうちにどうにかしてこい。お前の家庭の事情は俺も思うところはあるがな………」

「……はい、すみませんでした。」

早く終わって欲しい。


 先生からの話はとても長く感じた。冷房のよく効いた職員室を出ると、廊下の開いていた窓からムシ暑い空気と運動部の掛け声と吹部のプアーという音が俺の耳を撫でる。騒音だ。

ヘッドホンを耳に当てて、歩き出した。

「………帰ろう。」

 部活には何も入っていない。父はアルコール中毒で三年前に死んで、母は鬱気味で入院している。そんな俺にお金はないし、時間も無い。

父親は小さい頃からあまり話をしたことがなかった。俺が家にいる時はいつも酒を煽り、何かあれば母に当たっていた。そんな親が死んだところで俺は何も思わなかった。でも、なぜか母は泣いていた。安堵の涙とは違った。あんなに酷い扱いを受けていたのに。


 何はともあれ、俺は今とにかくバイトをして金を貯めていた。こんな俺に昔から優しくしてくれる、近所のおばちゃん夫婦が経営してる居酒屋だ。

 うちの事情を大まかに知っているおばちゃんの家に、父の機嫌が悪い時は逃げ込んでいた。父親が死んで、母が入院して俺が金銭面で苦労していた時に、俺に働く場所を提供してくれた。

「ごめんおばちゃん、先生と話してて遅くなっちゃった。」

「全然遅れてないわよ。こーちゃん、今日はお見舞いでしょ? 早めに上がっていいからね。」

「あぁ、うん。」

毎週金曜は入院してる母の様子を見に行っている。いつも寝ているけど。


 一九時半。これぐらいから人が多くなってくる。

常連さんはもう顔を覚えている。あの人はビールと冷奴。あの人は枝豆。大体は皆、毎度同じものを頼む。

俺もいつものように接客をしていた。空いたジョッキと皿を片手に持って、もう片方でテーブルを拭いていた。

その時、端っこの角の席に座っていた人に気がついた。

「………いつ入ってきたんだ?」

人が入ってくる時には必ずお客さんの方を向いて、いらっしゃいませーって声をかける。その時に座った席はなんとなく見ておく。いつも俺はそうしているハズだ。

だから、気づかないなんてことはない、と思う。


 テーブルを見ると注文したものどころか水もなかった。

でもその人は俺を呼ぶそぶりも見せないで、ただ目を瞑って座っていた。

………どこか、俺と、音楽を聴いている時の俺と似ている気がした。

 遠目でも見てわかるぐらい華奢すぎる細さの腕で耳を覆っているその人を俺はずっと見ていた。何故かわからないけど、その姿が居酒屋に、というか俺の見てきた世界にとって異常と感じるものだった。周りの声がどんどん遠くなっていく気がした。

「晃ー! こっち生二つくれー!」

ハッと我に帰った。慌てて持っていた食器を洗い場へ置く。

「はーい!」

ビールの入ったジョッキを二つ、テーブルに置いてから水をコップに注いで、さっきの人のところへ持って行き、意を決して声をかけた。

「すみません、気づかなくて。何か注文ありますか?」

ほっそ。というか、薄い。近づいて横に立つと、体の薄さに驚いた。

「………あー、じゃあ、生ひとつ。」

「申し訳ありません、かしこまりましたー………」

すごくトーンが低かった。怒っているのだろうか。そりゃそうだ。気付けなかったとはいえ、飲食店に来て水すら置いてもらえなかったら、俺だって悲しくなる。

「こうちゃん、そろそろ時間じゃない? あがっていいわよ。」

「あー、もうそんな時間か。 ありがとう、お先に失礼します。」

急いでジョッキをテーブルへ持っていき、置いた。

「……騒音だ。」

「へ?」

その人は細い腕でジョッキを掴み、勢いよく飲んだ。ちょっとギョッとしたが、人の飲み方をじろじろ見るもんじゃない、と思ってすぐに戻った。


 二十一時。店を出て、病院へ向かった。

いつも通りすやすやと寝ている母。病室の花瓶の水を新しく入れ替えて。

「またね。」

そのまま自分の住んでいるアパートへ帰る。

病院を出て、ヘッドホンを頭にかけた。

あのお客さんのことが頭から離れなかった。

二十二時半。

もう店はピークを過ぎて落ち着いた頃合いのはず。ちょっと寄ってみようと思った。

外からちょっと覗く。

「………あの人まだいるじゃん。」

そんなことを思ってなんとなくテーブルを見てジョッキを数えた。

「一、二、三………七!? どんだけ飲んでんだあの人!」

ガラガラ、と店から入り、近づいた。

「あら、こーちゃん。 お見舞いは?」

「行ってきた帰り! それよりこの人飲み過ぎだよ。」

「私もそう思ったんだけど………」

するとその人は俺の腕を掴む。

「俺は全然大丈夫らから、早く次持ってこいよォ………」

呂律が回ってない。やっぱ飲み過ぎじゃないか。

「はぁ………このお客さんは俺が連れて帰るよ。しっかり休ませてお金も払わせる。」

背中におんぶして、半ば強引に店を出た。

アルコールに飲まれる奴を見てほっとくのは、無理だ。

「確実に親父のせいだな………」


 住んでいるアパートについた。床に布団を敷いて、その上に寝かせる。

自分の部屋についてから心が落ち着いたのか、起こった事を冷静に考えた。

「………なんで俺、この人連れて帰ったんだ?」

今考えると謎でしかない。ベロベロに酔った客なんて今まで何人も見てきた。

………最初にこの人が目に入ってから、俺は少し動揺してる。今も。

「すげー綺麗だなこの人。」

横になっている彼を見た。初めて見た時も、さっき連れ帰る時も、よく見えなかったけど。閉じている目はクマが酷いがとても大きい。髪は伸びっぱなしでだらしないが細くてさらさらしている。肌は日焼け知らずという感じで真っ白だった。

 今まで人をこんなにまじまじと見た事がないし、見ようとした事もなかった。

俺の世界に、こんな綺麗な人が出てくるなんて、思ってなかったんだ。


 親父があんなだったから、俺は小さい頃から自分の世界を客観的に捉えて、少しでも俺自身にくるダメージを軽減しようとしていた。達観していたのかもしれない。

 友人は友人という枠から出てこないし、母親は寝たきり。親父はいない。

そんな世界の将来を考えたって、意味なんてない。めんどくさいだけだと。


だから「俺の世界」を超えて魅了された俺はこの人のことが忘れられなかったんだ。


手の甲でそっと頬に触れた。

「綺麗だな………」

ただ見つめていたつもりが、いつの間にか俺は寝てしまった。


*******


 「そろそろ起きろよ、晃。」

「んあ………?」

寝ぼけ眼で声の方向を見る。

確か俺は家に帰ってきて………それからどうしたっけ。というか。

「お前…! ってか晃って!? なんで名前知ってる!?」

「カバンの中とか色々見させて貰った。あとお前って呼ぶな、五つ年上だ。俺の名前は………お前知ってるだろ、何が目的だ?」

「知らねぇし!目的は昨日飲みまくった酒の代金だよ!」

「知らないわけないだろ。そんだけCD買っといて………金か? 早く俺を解放しろ。」

CD………? 俺はCDは一人のアーティストのものしか買ったこと無い。え?

「神田…詩春………?」

「なんで疑問形なんだよ。顔隠して活動してんのになんでこうも早くバレるんだ…」

「………シハル……サン……?」

目が覚めてきて、昨日の記憶と今自分が置かれている状況が頭に入ってきた。


俺は昨日、大好きでやまない神田詩春、その接客をして、おぶって…

自分の部屋へ連れ込んで、頬撫でて、「綺麗」って言って………?

駄目だ、俺キモい。キモすぎる。

ってか、今勘違いされてるよな、まずい方向に。

「違います! 確かに俺は詩春さん大好きですけど、顔も知らなかったし! 詩春さん昨日めっちゃ飲んでて、ベロベロだったんで、俺の家で休ませてお金払ってもらおうと………!」

「ん………? あ、そうか。そういや俺、昨日居酒屋行ったな………」

「そこからですか………」


 色々と話して、なんとか誤解が解けた。話終えたあと、詩春さんは俺の部屋を見回し、そしてゆっくりと口を開いた。

「今日土曜だし、学校ないよな。」

「え、まぁ、はい。」

「よし、俺の家に来てくれ。悪かったのはこっちだし、礼をさせてくれ。」

俺は言葉が出なかった。あの神田詩春さんの家に行けるなんて。

経緯はどうであれ、嬉しすぎる。

「早く支度しろ、行くぞ。」

「ちょ、待ってください。俺まだ寝起きで……いてて」

床の上で変な体制で寝てたせいか、体の所々が痛い。

「………お前、優し…世話焼きおばさんみたいだな。」

「言い直す必要ありましたか?」

「ふふ」

あ、笑った。詩春さん、そうやって笑うんだ。

「早く行くぞ、晃」

晃、って呼ばれるのが凄く嬉しい。

 俺は今、生きてきた人生の中で一番ワクワクしてドキドキしている。

こんな感情は今まで感じたことがなかった。


*******


 驚いたのが二つ。俺の家から歩いて行ける距離に憧れの神田詩春の家があったということ、そしてもう一つは。

「でっか………」

軽くついてきたが、あの有名な作曲家、神田詩春の家。デカくないはずがなかった。ソファに座っているよう促されて、黙って座って部屋の中を見回していた。

………豪華だ。広いし余計なものは一切無い、シンプルな部屋だが、家具の一つ一つがしっかりした高いものであるというのが分かる。俺が座っているソファも、革製だ。

「まず昨日飲んだお金な。それとお前に迷惑かけた分。」

そういってお金と黄色い飴を差し出してきた。

「礼ってこの飴玉か………」

可愛いなぁ、と思っていた時、詩春さんが口を開いた。

「なぁ晃、実は話したいことがあってここに呼んだんだ。お前、ここで俺の家事手伝いとして働かないか?」

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