夜々に乱れる女たち

鳳つなし

花香真夜の場合 出会い

 つい先日まで、俺は居酒屋でアルバイトをしていた。けれど酔っ払いに笑顔を向けて接客して、安い給料をもらうことがバカバカしくなってやめてしまった。

 自分の忍耐のなさにはため息が出る。けれど今更、治せるものでもないだろう。

 次はなんのバイトをしようか。そろそろちゃんと働こうか。そもそも俺にちゃんと働く、なんてことができるのか。みんなはこんなことで悩んだりしないんだろうが、俺にとっては人生における永遠の難問なのだ。

 だからといって、借金を抱えて返済地獄とか、病気の体に鞭打って労働したりだとか、そんな特別じゃない。世の中全般で考えれば普通の悩みなんだ。

 普通。普通でいられることは素晴らしい。そんなことを言う人もいるけど、そんなのないものねだりで、自分が特別だから言えるんだ。

 例え自分が苦しくても、それが特別なら、俺は羨ましいとさえ感じる。

 生まれながらの病気とか、酷い家庭環境とか、他人に騙されたりだとか。そんな特別、異常を、俺は羨んでいる。

 いっそのこと借金でもしてみるか。なんて何度も考えたが、それが実行に移されることはなかった。

 夜のネオン街を歩けば、みんな一生懸命仕事をしている。そんな人たちの横を、俺は申し訳なくなりながら、背中を丸めて過ぎていった。

 何人目かのキャッチをやり過ごした後、随分と不愛想なキャッチに行く手を阻まれた。

 歳は自分と大して変わらないだろうか。寝ぐせなのかそういう流行のカットなのかわからないボサボサの頭に、今にも閉じそうな半開きの目。化粧は薄いが多少はしてあるようだった。

 目の前に立ち塞がったはいいが、それからなにも言ってこない。アジア系の立ちんぼか? それでも誘い文句くらい日本語で言えなきゃ客も捉まらないだろう。

 俺には女の子と相手できるような金は持ち合わせていない。明日の飯代にも困っているくらいだ。ここは無視して横切ろうと、俺は彼女を避けて歩き出した。

「お兄さん、サキュバスって知ってる?」

「え? そんなお店ここら辺にあったっけ?」

 サキュバス。まあお店の名前になっててもおかしくないだろう。男なら誰だって、その悪魔を召喚したいと思っているに違いない。それくらい知名度は高い。

「お店の名前じゃないよ。実は私、サキュバスなんだ」

 新手の客引きか? 悪魔の代償が金銭だなんて聞いたことがない。

「今ね、俺、金持ってないの。ホテル代も財布に入ってないの」

「別にお金なんていらないよ」

 金持ってない。これほど客引きという悪魔の嫌う言葉はない。しかしこの悪魔ときたら金はいらないなんて言う。ますます怪しいが、この娘、よく見れば相当可愛い。

 本当に金がいらないというなら……。

「金がいらないって、じゃあなにが欲しいんだよ」

「ちょっとしたお願いを聞いてくれればいいの」

 お願い。このワードは信じてはいけない。ネットの掲示板で俺は学んだ。「私のお願い聞いてくれたら会ってあげる」なんていう詐欺がこのネット社会には蔓延しているのだ。それがついに現実世界にも侵食してきたというのか。

 だがしかし、これも社会経験の一環と考えよう。話を聞いてみるだけならタダだ。どんな詐欺なのか、この身で調査してやろうじゃないか。

「アプリを登録してほしいとか、そういうのなら断るけど?」

「違う。ただ、私の傍で寝てくれたらいいの」

 女と寝る。なんて良い響き。と、勘違いしてはならない。きっとこれは先に寝かしつけたところで身包み剥がされるやつだ。

 でもさっき言った通り、剥がせるようなものを持ち合わせていない。財布には一食分くらいの金と、空っぽのキャッシュカード、それとポイントカードとゴムくらいだ。

 時計も千円しない安物だし、売れるようなものもなにもない。

 それならいっそ、この女に騙されたふりをするのも悪くない。

「寝るだけでいいのか? 場所は?」

「どこでもいいけど、落ち着ける場所がいいならうちに来る?」

 ちょっと待て。家に招待しているのか? これは少しリスクが生ずる。家に到着したところでごつい男が登場。うちの連れになにしてくれてんだ、と脅され事務所に連れて行かれてよくわからない契約書にサインをさせられる、なんてことになれば無一文どころではない。

「いきなり身分も知れない男を家に上げるのは怖いでしょ? 金さえ出してくれるならそこら辺のホテルかカラオケボックスとかで……」

「いいよ」

 考える間もないくらい、すんなりと返事が聞けて、俺は拍子抜けした。若いのに相当場慣れしているのか、それともそれだけ信頼のおけるバックがあるのか。なんにしても、只者ではない。それをだんだんと理解してきた体はゾクゾクと震えた。

「俺、津羽見幸つわみこう。名前、なんて呼んだらいい?」

 自分でも本名を教えたのは愚行だったと思う。それに、そうしたからといって彼女が本名を教えてくれるなんて思っていなかった。いなかったのだが。

「一応、花香真夜はなかまよって名前なんだけど。身分証見る?」

 まさか本名を教え、保険証まで提示してくるなんて思っていなかった。そこまでして、俺を寝かせることになんの意味があるのか。

 怖い、んだろう。胸の音がやけにうるさい。こんな特別、今まで体験したことがない。もしかしたら、俺は今、興奮しているのかもしれない。

 いろんな期待が、俺の心臓をむやみやたらに叩いていた。

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