Telebetrayer

 カーテンの向こうで人影は揺れた。遮光というほど分厚くもなく、しかしながらレースというほど透けて見通せるものではないその向こうで、時間通りに現れたからこそ信頼するにあたう相手は、むしろこちらを吟味して行ったり来たりを繰り返している。

「時間がない」

 ひっ迫した状況に挨拶など滑稽だろう。藪から棒に投げつける。そのときカーテンの向こうで歩みは止まり、明らかに女と分かるシルエットから声は聞えていた。

「だから失敗はできないの」

 低いが通る落ち着いた声だ。

「いったい何を疑っている」

 解消できるなら協力は惜しまない。そう言ったつもりで口を開く。だが返す女の言い分は、こちらの想像を超えるものだった。

「わたし。自分自身よ」

「もうここまで来たろう」

 思わずケッ、と小さく吐き捨てる。決断したくせに直前で迷うなど、一生やっていろと思うほかない。

「けれどバレてしまえばもう無事ではいられないのよ。そんなことを始めようとしていることを分かって」

「なら聞いているはずだ。預かったものは丁重に扱う。大丈夫だ。流した人物が誰だかバレるようなマネはしない」

 こうしてムダな時間を食っている方がむしろ危険で、互いが接触しているところを見られてしまう方が何よりマズかった。それでも女は思案し息を詰める。

「わかった」

 ようやく吐き出したなら、縦に長かったシルエットをカーテンの向こうで折りたたんだ。伸ばした手で、床に余るほど垂らされた裾をほんのわずかたくし上げる。

「受け取って」

 隙間からこちらへ小さな金属製の箱を押し出した。

 否や、かっさらう。外気に晒すのを嫌うような素早さで、こちとら懐の奥深くへしまい込んだ。

「開錠のナンバーはは56110」

 再び伸び上がってゆく影が教える。

「始まったわ。もう戻れない」

 向こうからもこちらの影は見えているだろうか。うがったところで確かめる術はなく、振り返す手で女の放つ言葉をあしらう。無駄にした時間を取り戻す方が先決だと、返すきびすで急ぎその場を立ち去った。

 だが女が言ったとおりだ。始めてしまったことはもう取り返しがつかず、終わりはコチラが決めることでもない。尽きぬ世界で互いは幾度となくこのやり取りを繰り返した。ある時は月に一度。ある時は週に一度だったこともあったろうか。今、思えば尋常でない時期など数時間を挟んで日に二度、三度、往復することさえあった。

 数を重ねるごとに女は手際をよくしている。やがて何を確認する必要もなくなった互いから会話は失せ、互いは気配を読んで視線を察し、身に着けた動きだけを寸分たがわず繰り返すようになった。滞ることのない流れにやがていつしか、奴らの目を盗んで成し遂げているという優越感を、我々がそう容易く分断されるはずもないという勝利への確信を抱き始める。分け合う互いはカーテンの向こうに存在するただの「影」をこえて、緻密で大胆不敵が代えがたい相棒へと様変わりさせていった。なしには目的を達成することなど不可能なのだ。存在は今や己が体の一部のようにさえ感じられ始めていた。

 だがその日、期せずして乱れは生じる。

 女は指定されていた時間にカーテンの前へ現れなかったのだ。以前ならイラつき怒りを覚えていただろうが、今や捻った腕で何度も時刻を確かめる。何か起きたのか。覚える不安に、それまで無心でこなしていた脳をフル回転させた。

 ままに五分は待ったろうか。

 やがてカーテンの向こうで気配は動く。

 それだけでもう女の足取りだと知れてならない。

 そしていつもと様子が違うこともまた、だった。

「どうした」

 だとしてカーテンの前に屈み込みんだ女はもう、たくし上げた布切れの隙間からいつも通りと箱を差し出している。

「これが最後よ」

 告げた。

「どういうことだ」

 受け取ろうと体を屈めて動きを止める。

「彼らに知られた。もう会えない」

 向かいで立ち上がってゆく女が短く教えていた。そうして背けた横顔の、まつげだけだけがやけに長く布切れへ影を落とし、ままに詰めた息で決断を予感させる。その通りと次に息を吸い込んだ体は風を起こしてきびすを返し、カーテンをふわり、宙に泳がせた。

「待て」

 そんなカーテンごと女の腕を掴む。

「逃げよう」

 押し止めて引き寄せた。なら振り返った女はもうシルエットではなくなり、かぶった布越しにまだ見たこともない額を曲線と浮き上がらせる。

「離して」

 声がカーテンを揺らしていた。

「戻ればあなたの事を話してしまうとでも」

「そんなことを心配しているんじゃない」

「わたしと一緒ならあなたが目立つ。捕まってしまえばわたしたちが今までやってきたことは一体なんだったの」

 掴む腕を振り払おうと身をよじった。

「だから見捨てろというのか」

 言い聞かせて押さえ込む。邪魔だとカーテンへ手をかけた。

 開けないで。

 遮る声に動きを止める。

「あなたはこのまま行くの」

 布切れを挟んでも、浴びせられる視線の強さを感じ取る。だがそれがどんな形の、どんな色をした瞳なのかは分からない。

「なぜだ」

 ただ問いかける。

「わたしは訓練されていない。拷問を受けても、あなたの事は何も話せないままがいい」

 直後、口元を押さえると吹き出すように女は嗚咽を漏らした。それきり屈み込んでゆく。

 向かい手を伸ばしていた。

 今度こそだ。カーテンを引き開ける。

 音に弾き上げられて女の顔はこちらを捉え、ままに絶望的と歪めてみせた。その瞳は想像していたよりはるかに美しく、だが怒りにも満ちて体ごとよじってひと思いと掴む手を振り払う。巻き込まれてカーテンは舞い上がり、天井に突っ張り渡されていたレールが抜けて床へと落ちた。

「何てことを。もう本当に何もかも終わるっ」

 甲高い音は鳴り、真っ赤な顔が張り裂けんばかりの声を上げる。吐き切り力の抜けた足取りで後じさっていった

「最初、ためらったことは間違いじゃなかった」

 壁に背が触れたなら、もたれかかったまま頭を抱えうずくまってゆく。だが時間がないことは全てを始めた時からなんら変わっていない。

「落ち着け」

 歩み寄っていった。

「おれをよく見ろ」

 前へ屈み込み、ただ促す。だが抱えた頭ごと振って女は拒み、だとしてここまで彼女を信じてやってきたことに間違こそない。

「ついてくる気がないなら覚えて奴らへ全て話せ。これまでの全て、売ってきたぶん返せばいい。だとしておれは捕まらない」

 一度では足りないと繰り返してやる。

「捕まらない」

 そう、これまでのように見えぬ所で阿吽の呼吸と、互いは寸分たがわずこなすだけだ。全てはこの時のため積み重ねてきたようなもので、試されるほどもなく確かさは裏付けられている。

「あんたは聡明で美しい」

 投げれば不可解と、女は顔を上げていた。 

「できるさ」

 涙の痕に髪が張り付いている。その顔へ笑ってやった。

「本当に、わたしたちは、勝てるの?」

 のぞき込んで問いかける様は怯えた子供のようだ。

「ちりぢりにすれば何もできない。奴らがそう思っているだけだ。だがあんたまでが思う必要はない」

 虚を突かれた瞳は探っていっとき忙しく動く。 

「……あなた」

 そうして得たのは確信で間違いなさそうで、だから問うことを決めたのだろう。

「名前は?」

 それがいい。

「おれは、」

 言って教える。

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