第4話
数日後、ようやく心春から「体調が少し落ち着いた」と連絡を得ると、菜月は向かいのアパートへ駆け出した。
肩で息をしながら玄関に現れた友人に心春は驚いていたが、その真剣な目を見て、覚悟を決めたように部屋へ誘った。
「私は、心春に鏡を向けて呪ったの」
そう言うと、心春は知っていたと言いたげに、目を閉じて大きく頷いた。
「穂乃果が凜を呪って、凜は私に。そして私は心春を呪ってしまった」
ごめんなさい、と頭を下げる菜月の隣に座り、心春はそっと腕を掴む。
「謝る必要なんてない。もし私にうつしてなければ、菜月ちゃんが危なかったんだから。たとえ呪う前に聞いていたとしても、きっと私は自分を呪うように言ったと思う」
――なぜこんなにも献身的でいられるのだろう。
不思議なものを見るような目で、菜月は目前の少女を凝視する。心春は聖母のような微笑を湛えながら、柔らかい言葉で語り掛ける。
「今こうして、ありのままの罪を告白するのは怖かったと思う。でも言ってくれた。それだけで十分よ。それに、案外皆も同じことを考えていたりするのよね」
言いながらスマホを手に取り、菜月に画面を傾けて見せる。
「穂乃果ちゃんは、毎日体調の変化を心配してくれる。凜ちゃんは昨日、『私が菜月を呪ったせいで心春に呪いがうつったかもしれない。けれど菜月を責めないで』とメッセージを送ってくれた。……言葉を交わしていなくても、皆が後悔していることは痛いほど分かる。嫌いなところがあっても、少しくらい憎しみ合っていてもいい。私はこの四人が仲間でいられてとても嬉しい」
菜月の視界が涙でぼやけていく。
「……呪いはどうするの。誰かにうつさないと」
「このままでいようと思う」
「それじゃ、心春が危ない――」
「呪いなんてないって、言ってくれたでしょう? 私はね、こう考えてるの。まず私たちは穂乃果ちゃんの話を聞いて怖くなった。おそらく穂乃果ちゃんは、鏡の位置が合っているか確認するために凜ちゃんの家へ行ったとき、呪いの話を掘り返したんじゃないかな。例えば、『もし私が呪ったら』なんて恐怖心を煽るように。でもあり得ないとは言い切れない話でしょう? だから凜ちゃんはそれに怯えて体調を崩した」
「つまり、思い込みで? 不安くらいでそんなに……」
「なるときもある。実は私もたまにパニック発作を起こしちゃうの。バスや電車は辛うじて我慢できることもあるけれど、飛行機は駄目。それでね、一度不安になると恐ろしいくらい動悸が止まらなくなるの。汗が出て、過呼吸で身体が痺れ始めて、失神して救急車で運ばれたことも。動悸や震えだけじゃなく、発熱したこともある。――菜月ちゃんも、次は自分だって思ったんじゃない?」
「確かに……でもそれは熱が出た後のこと」
「案外、直感的に不安は感じているものよ。私も最初は気付かなかったけど、菜月ちゃんが窓の外を気にしてたのを後から思い出して、熱が上がっていったの」
――それなら、私たちは思い込みで体調を崩していたというのか。
「心春の考えてることは分かるよ。でも……呪いじゃないという確証はない」
「それは、そうだけれど……」
何か確かめる方法は、と菜月は唸る。二人はしばらく石のように固まって考えた。
「……呪われるなんて思ってない人に、鏡を向けてみる」
呟いた菜月に、心春は複雑な表情を浮かべた。
「確かに、それなら思い込みかどうかは証明できるかもしれない……」
でも、と言い淀む。
「もし本当に呪いだったらって? さっき心春も言ってくれたでしょ、これは呪いじゃない。……万が一でも誰かを傷つけたくない気持ちは分かるけど、このままじゃ、全員不安に圧し潰されておしまいだと思う。私たちのためにも確認させてほしい。お願い」
菜月の懇願に、心春は渋々了承した。
――唯の言うとおりね。
菜月は心の内で自嘲する。人に合わせて態度を変え、自らの安寧のために心春の純粋さを利用する。
――私は狡猾な人間なんだ。
そんな奴が辿る人生など、確かに見え透いているかもしれない。
「でも一体誰に鏡を向けるの?」
「大丈夫。一人当てがあるから」
小学校振りの訪問に、菜月は手厚くもてなされた。
「あの子はまだ帰ってないけど」
是非中で待っていてくれと言わんばかりの笑みで手振りされ、菜月は好意のまま部屋に上げてもらった。
アパートではかなり立派な方だった。団地に隣接していた森を切り拓き、更地となった丘に立てられた比較的新しい建物だ。
唯の部屋はベランダに面していた。六畳ほどの洋室には勉強机とベッド、諸々の生活家具の他には、無駄なものが一切目につかない。その不自然なまでの綺麗さに、菜月は息の詰まる思いでベランダの窓を開けた。
燃えるような西日が団地に降り注いでいる。
――見えない。
「心春? もう少し傾けて」
電話を繋ぎながらの作業は酷くもどかしかった。何しろ心春へうつすときは一発で成功したのだから。
「何度か揺らしてみて」
ああ、そこで止まって。
「もう少し左」
あと少しだけ。
「そこ!」
目が眩んだ。ようやく待ち望んだ光の残像を、菜月は目蓋の裏で噛みしめた。
「また明日にします」
菜月は大仕事を終えた達成感と疲労に苛まれながら、唯の家を辞去した。
――これで呪いは終わる。
唯に変化が無ければ、単なる自分たちの思い込みだったという笑い話になる。もし呪いが本当だったとしても――そう考えて、菜月は自分の汚さに笑いを吐き捨てた。
――結局自分さえ良ければ満足できてしまうのか。
他人を積極的に傷つけるつもりはなくとも、自分の苦しみは払いたい。その結果、他人に害が及んでしまうのを仕方なく思うのが自分で、許せないのが心春なのだ。――心春も最後には菜月との友情をとったが。
――万人の利になることなど存在しないのだ。
「この世は何ひとつ上手くいかないのね」
悟ったように呟く自分が可笑しくて、菜月は脱力しながら家へ帰った。
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