押しても引いても涙は出ない
夜橋拳
第1話
1
ある日の事だった。
それはもう本当にどこにでもあるような日で、オリンピックでもなければ世界滅亡の予言が下された日でもなく、昨日と同じ朝食を食べて学校で授業をして異性の友人、
別に昨日も普通だったし、無作為に私の人生十七年から一日を抽出して他の全ての一日にイコールを付けれるくらい普通の日だった。
いつも通りだったし、別に特別幸せだとは思っていなかった。
そのある日、隆介が死んだ。
麻薬をやった母親がとち狂って彼を殺してしまったらしい。
死体と母親の状態から、彼が一切抵抗しなかったことが分かっている。
さらにそこから分かることは、彼がとてつもなく母を愛しており、そしてとてつもなく優しかったことだ。
彼の母に傷がなく、彼が母を愛しており、心から優しかったこと以外に分かったことと言えば――
私が心底、
彼に惚れていた。ということくらいだった。
2
隆介の母親は十六歳で隆介を生み、旦那に捨てられて女手一人で隆介を育てていたらしい。
高校すら卒業していなかった隆介の母親は働く当てがほとんどなく、最初は土木作業員として働いていたらしいが肩を駄目にしてしまったらしく、それからは風俗で働いていたんだと言う。
綺麗な人だったからそれなりに需要があったらしく、隆介を育てる分は稼げていたらしい。
しかしある日、梅毒にかかってしまい働いていた店を止めなければならなくなった。
途方に暮れた彼女はその日一日中ふらふらしていると路地裏である男に出会う。
男はかつて隆介と母親を置捨てた隆介の父親だったらしい。
男は母親の話を聞いて彼女に十万円と薬を渡す。そして優しい声でこう言ったそうだ。
「薬が効かなかったら、その十万円をもってまたおいで」
母親がその薬を飲むとみるみる股のしこりや背中の斑点が治っていったらしい。
否。治っていったのではなく治ったように見えていただけ。幻覚である。
その薬は案の定麻薬だったらしく、依存作用によりまた薬が欲しくなった彼女は男の下へ向かう。
すると男は笑いながら「値上がりだ。二十万持ってこい」と言った。
彼女は二十万円を男に払い、薬を貰った。
そして次に男を訪ねた時は三十万とこんなふうに男の金ずると薬物中毒にされた隆介の母親はそのうちまともな思考が出来なくなり、息子の内臓を売って薬を買おうという考えに至り、息子を殺した。
そして我に返った母親は後悔にまみれ首を吊った。
こんな母親だが息子を愛していたらしく、どんな日でも息子に朝ごはんと晩ごはんを作っていたらしい。
父親は警察に捕まり、過去の殺人が明るみになり死刑となった。
そして私は、今も彼のことが忘れられず独り身のまま二十七歳の誕生日を迎えた。
3
全く、夏の墓参りというものは全く涙が出ないらしい。
隆介の墓の前に来たらてっきり私は泣いてしまうものなのだと思っていたのだが、全くでないのだ。
理由は単純明快で簡単で分かり切っている。
涙を流す分、汗を流しているからだ。
何せその日はうざいくらいの晴天で、田舎の町を歩くには――観光なら最高だが――墓参りに行くとなれば最悪の天気だった。
何せ墓の前に来ても暑くて感傷に浸る間もないのだ。どっちかというと湯舟に浸りたい。
こんな汗だくになるような天気ではあいつに証明ができないではないか。
私がもう、泣かないっていう証明が。
「…………」
私は墓の前に立ち尽くし、瞳を閉じた。思い出すのは――もう十一年も前のことになる。私の初恋のことだった。
「ねえ、隆介」
自分でも驚くくらいに渇いた声だった。ああ、水が飲みたい。
「あんたは私のことどう思ってた? ただの幼馴染だとかそんな感じ?」
こんな渇いた声で彼に届くはずがない。
私は持ってきた水筒で水を飲んだ。
しまったと思った。
「私、あんたのことが忘れられなくてさ、今年も一人で誕生日過ごしそうだよ……。ねえ、なんでいなくなってから私はあんたのこと好きになったの? 当たり前にあったものがなくなってからその価値に気づくとかそういうこと?」
飲んだ水をそのまま吐き出す。目から。体中の塩分とともに。私の心の底からの気もちと共に。
「少しは質問に答えてよ! 物理を教えてあげたときは私はあんたの質問に何度も答えたよ! 何度も何度も。隆介ったら要領悪いから何度も教えてあげないとわかんなかったから!」
墓石は何も答えない。
当然だった。
「ハア……ハア……」
炎天下の中、こんなにギャーギャー騒げばさすがに疲れる。気づけばカラスが居るではないか。カーカーって、子供カラスが親カラスを待っている。
日が落ちていた。
遠くに見える山がもうすぐ夕日を食べつくす。
私は帰ることにした。
言いたいことも言った。まあ、今年も泣いてしまったが。
歩き出したその瞬間、私はあることを思い出した。いつも言い忘れてしまって後で後悔する羽目になるあの言葉。
いつもは帰ってからか帰り道にしか思い出さないのに、今回は思い出した。
言わなければ。
そんな思いが胸を占める。
少し慌てて、振り返る。
慌てたからか、転ぶ。
何かに頭をぶつけて気を失ってしまった。
その何かとは、幸運なのか不運なのかわからない。ただ、その何かは隆介の墓石だった。
4
月の光が差し込んで、私は目を覚ます。
「大丈夫?」
目を覚ますと、そんな声が飛んできた。
その声は世界で一番聞きたかった声だった。
「隆介!?」
声の主は
そう、さっきまで墓参りをしていた相手だ。間違いない、忘れるはずがない。
「どうしたの?
私が大声を出したから少し驚いている様子だった。
驚いたのはこっちだと言いたかった。
すると隆介はふふっと笑ってこう言う。
「小名木があんまりうるさいから寝れなくてさ、会いに来ちゃったよ」
おかしい。私は隆介のこういう顔が見たくて、どうしても見たかったのになぜか本当に見ると、見たくなくなる。
「別に泣かなくたっていいじゃないか」
「うるさい、バカ」
バカ、本当にバカ。
私のバカ。
こんなこと言ってる暇ないでしょーが。言うべき言葉があるでしょう。
「私と仲良くしてくれて、ありがとう……!」
相変わらず、空気の読める奴だ。こんな時、私が何をして欲しいかよくわかってる。
隆介は黙って私を抱きしめるのだ。初めて隆介に抱きしめてもらった感触は――何もなかった。
「ごめんね、俺今お化けだから、小名木を温めてあげることできない」
まるで今まで温めてきたことがあるとでも言いたげな言葉だ。
実際、何度こいつに温められてきたかわからない。助けられてきたかわからない。
いなくなってから何度冷えたかわからない。何度辛い思いをしてきたかわからない。
「彼氏面すんなよ」
わざと強めに言った。
「でも小名木俺のこと好きなんでしょ?」
「そうだけど言われるとなんかうざい」
「俺も小名木のこと好きなんだよ」
言葉が詰まった。
あまりにもさらりと言うものだから。
「少し歩こう」
そう言って隆介は私の手を引いた。透き通って空振った。
今気づいたけど、隆介の姿は高校生の時のままだった。
5
「うわっ」
思わずそんな声が出てしまった。
字面だけ見ると引いているように見えるけど、そんなことは全くなくて、私の単なる感嘆の声だった。
この声みたいに、文字に起こすと受け取り手によって意味合いが変わってくるような言葉なんていくつもあるだろう。
その中の一つであろう言葉。隆介が連れてきた場所で私の目に映ったのは世界最高の絶景だった。
「よく二人で見に来たよね」
「まだ、飛んでたんだね……」
「蛍くらい、こんな田舎だったら飛ぶよ」
それぞれが未来を開くように闇を切り裂きながら飛んでいた。
時代が進み、科学も並行して進み、弾かれた自然達が運命に抗うように昔と変わらず力強く飛ぶ様は、ただ一言、絶世の絶景だった。
「昔さ、ここで約束したの覚えてる?」
「なんだっけ」
「小四のころかな、大人になったら結婚しようってやつ」
「ああ」
思い出した。
小学四年生のころ、私はここで隆介からそんなことを言われたんだっけ。
「ごめんね、約束守れなくて」
「いいよ。一つくらい破ってくれても」
それ以外の約束は全部守ってくれたんだし。
遊びに行こうっていう約束も。
お見舞いに来てっていう約束も。
二十歳を超えても一度でいいからこの蛍を見に行こうっていう約束も今守ってくれた。
「優しいんだね、小名木は」
「今更惚れても遅いぞ」
「本当にね」
面白くもない冗談で笑い合った。
「私もうそろそろ帰んなきゃ、終電なくなっちゃう」
「うん、そろそろ帰ったほうがいい」
言いたくないことを言い合った。
「また会うことってできないかな」
「できないね、天国にもルールがあってさ、死んでからは誰かと会うのは一度きりって決められてるんだ」
「死んだあともルールに縛られるなんてやだなあ」
「仕方ないよ、ルールだもの」
仕方ないで終わらせたくないことを、終わらせる。
私が笑うと深刻そうな表情で隆介は言った。
「……もう一つルールがあってね、ここで俺と会ったことは忘れなきゃいけないんだ」
「そうなんだ」
悲しかった、だけど涙は出なかった。
「あれ、泣かないの?」
煽っているわけでもなく、ただ不思議そうな顔で隆介はこちらを見つめた。
そりゃそうだ。さっきまでギャン泣きしてた私が今だけ泣かないなんてちょっと都合がよすぎると思う。
「なんでだろ、泣けない」
そういって目の周りを押したり、引いたりしてみた。
涙は出なかった。
「私あんたの前だとあんたのこと好きって気持ちもわかんないし、悲しくても泣けないみたい」
「なんじゃそりゃ」
まあ、そのほうがいいかもね。隆介は言う。
「俺は小名木が泣いてるところより、笑ってるところのほうが好き」
本気で照れた。
こんなことをさわやかな顔でさらっと言うからこいつは生前私やほかの女の子にモテたんだなあと思った。
「忘れちゃうのかー、あんたのこと」
嫌だな。すごく嫌だ。
「じゃあさ、忘れないように手に書いておこうぜ」
「その映画も一緒に見に行ったよね、わざわざ東京まで行って」
「いいからいいから、なんか書くものない?」
「はいこれ」
たまたま持っていたペンを渡すと、隆介は私の手の平に文字を書き始めた。
「あはっ、くすぐったい」
「じっとしてて」
書き終わると、私の手を握らせてこう言った。
「帰り道で開けてね」
次の瞬間、隆介はいなくなっていた。
6
目を覚ますとバスの中だった。
私以外乗客がおらず、がらんがらんなバスの中で一人座って寝ていたようだ。
「?」
私は自分の体に違和感を感じた。
左手が閉じているのだ。それも固く。
普通リラックスしている状態なら少しは力が緩むはずなのだが、そんなことは一切なくまるで誰かに握られているかのように固く、手を握っていた。
恐る恐る開いてみると何か文字が書いてあった。
『こちらこそ、ありがとう』
まるで、あいつが近くで言っているかのような臨場感のある文字だった。
なぜかって?
それは私の親友、氷室隆介の筆跡だったからだ。
押しても引いても涙は出ない 夜橋拳 @yoruhasikobusi0824
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