あやかしカフェの常連客

久佐馬野景

プロローグ① おかえり

 不思議なだと、誰かに言われたのをずっと覚えている。

 誰に言われたのかは覚えていない。所詮はとても幼いころの記憶。だけど柔らかい声音と、自分を見下ろしながら優しく笑う美しい女の顔だけははっきりと覚えている。

 親戚を見回しても、該当する人物はいない。加えて、わたしの性分を知っている者ならば、決してそんな言葉は口にしないだろう。

 わたしはつまらない人間だ。

 ずっと変わっていない。取るに足らないと言うのが正確で、でも失礼にあたるので遠慮して誰も直接は教えてくれない。

 不思議という言葉はわたしから最も縁遠いもののひとつだ。

 だから初めて聞かされた意外なひとことを、今日に至るまで後生大事に覚えているのだろうか。それでわたしの現状が変わるわけでもあるまいに。

 仕事を辞めて半年が過ぎた。

 大学時代の後半をほとんど就活に費やし、内定をいくつか手にして、その中から選んだ一流と呼ばれる企業だった。

 仕事を始めて一年で、残業時間は800時間を超えた――ということを、仕事を辞めてから知った。当のわたしは慣れない職場と仕事をすることに手一杯で、残業が発生していることすらほとんど気に留めなかった。周囲と同様に、わたしの残業時間はほぼ計上されていなかった。わたし自身、仕事に慣れること、仕事を熟すことしか考えずに毎日終電近くまで職場に残り続けた。

 周囲の人間もみな同じ状態だったので、こういうものなのだと勝手に納得して働き詰めた。

 ある朝目覚めると、何も見えなくなっていた。

 わたしはパニックになりながら職場からかかってきた電話に出た。どうやら時刻は出勤時刻を大きく過ぎていたらしい。目が見えないんですと淡々と報告するわたしに、電話の向こうの上司は気合いで治せ、すぐに会社に来いと怒鳴った。

 地方から大学進学とともに上京したわたしに、すぐに頼れる相手はどこにもいないことに気付いた。何も見えないまま、記憶を頼りにスマートフォンで119番をして、わたしは救急車で運ばれた。

 近くの病院で、わたしは自分が失明していること、原因は不明だがおそらくストレスによるものであること、直接治療する方法は存在しないことを告げられた。

 そのまま入院しようとしたわたしの前に、母が駆けつけた。母は医師から詳しく説明を受け、相談を重ねた結果、わたしを実家へと連れ帰ることに決めたようだった。

 母の運転する車で何時間もかけて実家へ戻ると、わたしは歓迎されていないことをひしひしと感じた。東京から逃げ帰ってきた恥さらしであると父はわたしのいないところで痛罵していたし、家業を継ぐ準備をしていた弟には婚約の話も出ていた。障害者を住まわせている家に嫁には行きたくないと相手が言い出さないかと父は気を揉んでいた。

 視力を失ったわたしは文字通り何もできなかった。ただ家の一室で寝て起きてを繰り返し、部屋から出ることもほとんどしない。

 中途失明者に対するリハビリを受けることは許されなかった。わたしの失明の原因はストレス性によるものと母によって断定され、実家で療養さえすれば快復するという方向で話が進められていた。だから身体障害者手帳の申請も行われなかったし、わたしの失明は一時的なものであると強制的に決定づけられていた。

 無論、リハビリによる失明者に対する教育を受けることができないわたしは白杖の使い方さえ知らないし、白杖を持たされることもなかった。おかげでひとりで外に出ることは不可能であったし、ただひたすらに「実家で療養」に尽くすこととなった。

 会社は最初は休職願を出すだけだったが、なにしろわたしは書類上は身体障害者として扱われていない。そのうちに最初に休職願に書いた日付を過ぎ、これ以上の休職は受けつけられないと言われたので、辞職した。

 それから半年。わたしはずっと白い靄の中にいる。

 実家の居心地は変わらない。父はわたしを彼の世界の中での障害者として扱い、母はわたしが快復するようにと実家に閉じ込め続ける。

 好きだった絵画――といってもわたしの場合は妖怪画ばかりだが――を眺めることもできず、自分で探し出したスマートフォンの読み上げ機能を使って辛うじて情報を得ることができているような状態。

 調べ、実践し、相応の対価を払えば、今の時代は失明者にとってもかなり過ごしやすくなっていることを、わたしはスマートフォンで調べていた。だがわたしが失明者であるということは認められていない。わたしの視力は一向に回復しないが、母はそれが仕事のストレスによるものだと信じたままずっと変わらない。

 気付くともう随分と言葉を発してすらいない。わたしはただここで療養という名の監禁生活を続けていくのだろうか。

「ごめんください」

 玄関から女性の声が響いた。なぜか今日は玄関から遠く離れたこの部屋まで、声が透き通るように届く。

「西田さんはご在宅でしょうか」

 家の中に人の気配はない。今日は全員出払っているらしい。

 わたしは布団から起き上がろうとして、途中でやめた。わたしが出ていってどうなるわけでもない。客の顔すら見えないし、そもそも玄関まで歩いていけるかすら怪しい。

「ごめんください」

 客の声に焦りはない。ただ淡々と言い聞かすように、再度声を上げる。

「西田さんはご在宅でしょうか」

 声を鬱陶しく思うことはなかったが、逆に申し訳ない気持ちになってきた。居留守を使っているのと同じで、来客に対してあまりにも不躾ではないかと。

 わたしは仕方なく起き上がり、ふらつきながらも部屋を出た。自分で部屋を出たのはいつ以来だろうか。廊下の壁に手をつきながら、玄関へと向かう。サングラスも買い与えられなかったので、何も映していない両眼は剥き出しだ。

「はい」

 掠れた声が出た。わたしは意識して、両目をぎゅっとつぶる。指摘されれば見えないことを伝えればいい。相手を向かない眼を晒すよりは失礼にあたらないだろう。

「西田さん。お迎えに上がりました」

「えっ?」

 何かが羽ばたく音がした。風を切る音。肌に当たる冷たい空気と雨粒。

 ああ、あれは。

 昼の空に輝く星々。

 わたしが忽然と姿を消したのは、これが二度目になる。

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