その8
どうぞ、彼女はそう言って、俺に紅茶を勧めてくれた。
3日後、俺は中目黒にあるマンションを訪ねていた。
ここに住んでいるのは中村弘子、旧姓を相川という・・・・は、川本博のかつての恋人、いや、正確には婚約者だった女性。元中学の国語教師である。
雨は上がっていたが、空には相変わらず灰色の雲が垂れ込めていて、太陽の出口を塞いでいた。
隣の部屋のベビーベッドの中には、赤ん坊が寝息を立てている。
『上の子は今、幼稚園に行っているんです』
彼女は紅茶を一口啜ってから答えた。
『博さん・・・・いえ、川本さんと婚約していたのは本当です。結納も交わし、婚約指輪も貰いました・・・・』そこで彼女はため息をつき、俯き、押し黙った。
『私の方に非があると言われても仕方がありません。一方的に婚約を解消し、別の人と結婚したんですから』
『でも』、
彼女はそういい、そこでまた黙った。
『川本さんはいい人でしたけど、何事にも思いつめる性格だったんです。傍にいて、段々それが重くなってきて・・・・そんな時に今の主人に出会いました。』
そうして男女の関係になってしまったと、彼女はそう付け加えた。
無論勝手な理由で婚約を解消したのだから、慰謝料も払ったし、何度も謝罪をした。
川本は金を受取り、謝罪を受け入れ、一言だけ、
”分かった”
そう言ったという。
間もなく今の夫である中村氏と結婚し、子供も生まれた。
彼女は幸せだった。
そのうち、川本の事は頭から消えていった。
いや、消そうと努力したと言った方が正解かもしれない。
ある時、昔の親友から、川本に関する噂を聞いた。
彼は婚約を解消してしばらく後、仕事も辞めてしまい、それ以来ずっと家に引きこもったままだという。
『彼がそんな風になってしまったのも、私のせいかもしれません。でも、どうにもしようがなかったのです』
弘子はそう言って涙を流し、ガーゼのハンカチで目を拭った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日、俺は再び東中野の川本邸を見張っていた。
無論、ジョージに付き合って貰ってだ。
黒のトヨタのワンボックスのハンドルに顎を載せ、彼はさっきから都合一箱分のラッキー・ストライクを灰にしている。
俺は俺で、後部座席のウインドを開け、10本はシナモンスティックを齧り尽くしていた。
『来るかね?』
ジョージが欠伸交じりに煙を吐いた。
俺は何も答えず、11本目を咥える。
腕時計を見た。
LEDの灯りに照らされた数字は、正確に午後5時を浮き上がらせていた。
ふいに、玄関で人影が見え、ドアが開く。
内側で誰かが神経質な大声を上げ、背後に向かって怒鳴っていた。
出てきたのは奴だ。
川本博だ。
門灯に照らし出された顔は、ますます人相が悪くなっているように見えた。
俺はシナモンスティックを離し、シガレットケースに戻した。
奴は黒のロングコートに、夜だというのにサングラスを掛け、首のまわりには黒のマフラーを巻いている。
『まるであんたの猿真似をしてるみたいだな』
ジョージがからかうように言う。
『黙ってろ』
俺は気分が悪かった。
奴は階段を降り、玄関の門扉を開ける。
そのまま表通りに向かうかと思ったが、そのまま
中にはセダンが二台と、三菱のミニ4WDが一台鎮座ましましている。
彼は一番左端に停めてあった三菱に乗り込んだ。
『見失うなよ。日本一のプロ・ドライバー』
『東洋一だ。覚えとけ』
ライトをつけ、車を発進させる。
俺達の前を通り過ぎたのを確認してから、
ジョージはワンボックスを発進させた。
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