感情の水

武田修一

ひとりだけのはなし

 人類が涙を流さなくなって、感情の起伏がなくなって、どれくらいの月日が経ったのだろう。遠い昔だと人は口々に言う。今の人類は、涙を流さない。ただ一人を除いて。



 わたしは、今日も涙を流す。今の人類は、これを感情の水というけれど。わたしにとっては些細なことで、名称なんてどうでもいい。

 窓一つなく、ただただ白く広い空間に、ぽつんと白いベッドが置かれていて、シャワールームとトイレがあるだけの部屋。そこにわたしはひとり閉じ込められている。この部屋から出られるのは、数週間に一度だけ。

 日照りが続くようになって、今の人類は困り果てていた。何をやっても、雨は降らず、日が照り続ける。土地は痩せこけて、枯れ果てていく。コンクリートで埋めて、誤魔化しても、それでもやっぱり困るものだ。そうして、神に頼ることにしたのだろう。わたしという供物を捧げて、雨を降らせてくださいと。


「くだらない」


 実にくだらない。それっぽっちのことで、雨が降るはずがない。たかだかわたしひとりの命で。ああ、ほんとうに、涙が溢れて止まらない。



 □



 数週間に一度だけ、わたしは連れ出される。

 囚人のように、紐で手を縛られて。もううんざりだった。紐で縛られたまま、油断している職員の腹に頭突きをくらわせて、逃げ出した。

 とにかく走った。駆け抜けていった。その瞬間だけは、わたしはなんでもできるような気がしてきて、笑ってしまう。

 笑いながら、走る。息が切れても、呼吸が乱れても、走った。

 目の前のドアを両の手で開ける。


 どこまでもひどく澄んだ青い空が見えた。ああ、なんて青い。

 下を覗くと、枯れた土地がちらついた。風が頬を撫でる。埃っぽいような乾いたにおいが鼻につく。


「逃げられなかった」


 自然と口からこぼれ落ちる言葉。

 わたしが走って、駆け抜けてきた先は、屋上だったのだ。

 もしも、ここから飛んで、着地ができたとしたなら、そんな強靱な体だったとしたのなら、逃げられたのかもしれない。

 でも、残念ながらそんな体ではないので。

 ああ、ひどく焦った足音が遠くで聞こえている。またあの部屋へ連れ戻そうとする足音だ。


 それならいっそ―――。


 青い空を眺めて、震えた足を一歩進める。もう一歩と足を進めて、立ち止まる。涙があふれて、とまらない。視界がにじんでく。

 ぽつぽつと、雨が降り出して、わたしを濡らしていく。空が、世界が、涙を泣いている。わたしと一緒に。


 わたしは、飛んだ―――。


 雨は降り続けている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

感情の水 武田修一 @syu00123

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ