第44話 次のステージへ その3
「私は平日仕事があるから……
昼間に来られるのは基本土日だけよ
それ以外の日は各自私の与えたメニューを確実にこなしておく事……
良いわね!!!!」
遂に始まった夏休み。
二度と戻らないかけがえの無い時間であると共に、部活動に勤しむ少年少女達にとっては技術、体力、精神、それぞれの面において成長がもっとも期待される期間でもあろう。
茹だるような暑さの中、耳障りな蝉達の鳴き声がカラカラに乾いたグラウンド一帯に響き渡っている。
「今日は特に暑いから水分補給をちゃんとして……
熱中症にはホントに気を付けてな……
にしても酷い暑さだな……次は時間帯も考えなきゃな……」
小林はそう言い残すと、滝のような汗を拭いながら校舎の中へと逃げるように消えていった。
午後一から始まるサッカー部の練習メニューは、各個人宛に細かく百合が設定したものと1,2年の混合チームによる紅白戦の2部構成からなっていた。
「ゲッ!!!!……リフティング100回、しかも明日まで……
ってか絶対無理だろこれ……」
颯太が港から渡された百合直筆のメモを見てついつい弱音を吐いた。
「あの人それ絶対本気で書いてるぜ……頑張れよ小川」
「明日までにもし……出来てなかったらどうなるか……ムフフ、楽しみだな……」
港が同情混じりに優しく声を掛けると、勇人がすかさず脅すように茶々を入れてきた。
「……やるだけやってみるッス……ハァ……紘は?」
「俺?俺のは、えーっと……」
颯太に促され、紘は自分宛のメモを広げて覗き込んだ。
『死ぬほど牛乳飲みなさい』
「俺は……えっと……とにかく体幹鍛えなさい!!か……
凄いザックリだな……あの人っぽいって言えばそうだけど……姫野は?」
藤波が自分のメモを読み上げると、隣でメモを覗いたまま固まったように動かない姫野にその中身を尋ねた。
「……見たいか?ほらよ……」
姫野はそう言って、メモ用紙を藤波に向かって広げて見せた。
『邯鄲之歩 (かんたんのほ)
敵を知り、己を知れば百戦危うからず』
太筆で書かれたものであった。
字体からは怨念めいた気迫が伝わってくる。
「……何て言うか……その……達筆だな……」
「メニューじゃねえし……
どうしろっつーんだよ、これ……ったく……」
そう言って姫野は用紙をクシャクシャに丸めると、それを後ろにポイっと放り投げた。
風に吹かれ、寂しげにグラウンドをコロコロと転がる丸められたメモ用紙。
もう少し先の話だが、後に姫野はこのメモに書かれた言葉の意味を痛い程思い知る事になる。
「……あっ!!!!悪い、稲葉……それはコーチがお前だけに書いた食事のアドバイスメモだったよ……
お前宛の練習メモはこっちだ……ってあれ?アイツどこ行った?
オーイ!!いなばー!!!!」
「今牛乳買いに行っちゃいました!!!!」
~同時刻、田代百合の職場内
「うぅ……さむッ……外回りが大変なのは分かるけど……にしてもちょっと冷房効かせすぎなんじゃないの?」
ガンガンに冷房の効いたオフィスのパソコン前。
百合は罪のないディスプレイに向かってブツブツ愚痴りながら、そのえげつない室温に身震いしていた。
『田代さんのデスクはエアコンの前の所ね』
入社時に決められた席だった。
極度の冷え性である百合にとっては地獄のようなポジションだった。
「田代さん、この資料のチェックお願いします……」
「貸して」
気弱そうな後輩女子社員が背後からそう声を掛けると、百合はそちらを振り向きもせず、手の平だけ彼女に見せて資料を受け取った。
眉間にシワを寄せながら食い入るように資料を見つめる。
後輩女子社員は、緊張感漂う百合のその様子に生きた心地がしなかった。
まさに蛇に睨まれた蛙状態、飢えた野獣の檻に閉じ込められた小動物のような心境だった。
まずいわね……
寒すぎて……
全然内容が頭に入らない……
何とか表面上は必死にチェックしている風を装っていたが、あまりの寒さのためにサッパリ内容が入ってこない。
自然と顔が強張るのも無理はなかった。
チラッと横目で周りの様子を伺う。
「……」
外回りから帰った男性社員達が液体のようにデスクに項垂れ、狂った皮膚感覚の下、止めどない大量の汗を滴らせている。
うっ……壮絶……
流石に温度上げてなんて言えないわね……
……
「あの……コレ……今じゃなきゃ駄目かしら?」
「え?は?……15時からの会議で使うんで……あの、出来るだけ早目が……」
「そうよね……フフ、冗談よ、冗談……この売上高がブツブツ……前月比とブツブツ……販管費もブツブツ……」
「は、はぁ……よろしく……お願いします……」
戸惑う後輩女子社員をよそに、百合は自分にムチ打つ思いで鈍る思考回路をフル稼働させた。
あぁ……何て事、足先が……私の末端が凍りついていく……
頭から毛布被りたい……
……夏なんて早く終わってしまえば良いのに
声にならない叫びも空しい、人知れず過酷な環境下で働く百合であった。
~その日の夜
「もしもし……うん、今着いたところ……
うん……うん了解、じゃあね……ハァ……憂鬱」
品性の欠片もない騒ぎ声が漏れる居酒屋の店先、百合は電話を切ると溜め息を一つついてポツリとこぼした。
まったくお酒の飲めない百合にとって、この居酒屋と言うものの存在は無用の長物、どこまでも縁遠い場所でしかなかった。
『アンタ前に約束したでしょ!!!!』
数日前、友人からお叱りの電話を受け百合は今ここにいる。
友人曰く、百合の為にセッティングした合コン……というやつらしい。
「良い面子揃えたから……アンタほんと私に感謝してよね」
友人は恩義せがましく言ったが、異性にまるで興味の無い百合にとってはえらくありがた迷惑な話でしかなかった。
それでも百合は、古くからのこの友人にだけはどうしても頭が上がず、今現在に至るというわけだった。
「……仕方ない……行くか!!」
気合いを入れるようにそう言って、のれん越しの扉をガラガラと開けた。
「オーイ!!こっちこっちー!!!!」
奥の方で百合を見つけた友人が、彼女に向かって大きく手を振った。
「遅いよまったく……アンタウーロン茶で良いよね?」
「ごめんごめん、仕事が長引いて……あの……温かいお茶で」
「……嘘でしょ?……ほんとに?」
6人がけのテーブルに腰を下ろすと向かいには百合と同年代位の3人の男性、並べられたジョッキの数からすると、どうやらお酒も大分進んでいるようだった。
「ね、ね、言った通り凄いカワイイでしょ?」
「……いーや、かわいくない!!全然……」
「嘘でしょ?酔ってんの?こんなにカワイイじゃん!!」
「いや、違うね……かわいくはない!!彼女は美しいんだよ
そう、美しい!!!!カワイイは違う!!!!」
「アハハ……」
酔っぱらいの戯言、飲み会の洗礼を早速味わった彼女はただ笑うしかなかった。
うぅ……何か気持ち悪い事言ってる……
酔っぱらい……苦手だ……
「あれでしょ?さっき聞いたんだけど……田代さんは昔プロサッカー選手だったんでしょ?」
「……あ、ハイ、まぁその……」
「そうそう!!デバラ!!デバラ東口の元選手よ!!」
「ディオサよ!!ディオサ東京!!!!」
「……え!?ほんとに!?ディオサの!?」
友人の悪ノリに百合が激しく突っ込むと、百合の向かいに座る青年がグラスを傾けたまま目を丸くしていた。
「あ、そうか……お前が来る前に聞いたんだよ、田代さんはプロサッカー選手だったって」
「そうそう……だからこの子顔はとっても綺麗だけどジャガイモみたいな膝してんのよ」
「!!!!」
「冗談、冗談……足も綺麗だって!!」
品の無い冗談をゲラゲラ笑う周囲をよそに、向かいの青年は固まったように動かなくなった。
そして思い出したように百合の顔を見て言った。
「そうだ……数年前に膝の怪我で引退したディオサの田代……マジか……」
「アハハ……どうも、そんな有名でもないのに……」
少し恥ずかしそうに百合が軽く会釈する。
「え!?何!?お前彼女の事知ってんの?田代さんコイツも凄いサッカー好きなんだよ、お前サッカーのコーチもしてんだよな?自己紹介くらいしろよ」
「へえ……そうなんですね、どこでコーチされてるんですか?」
「いやいや、元プロの人相手に恥ずかしいですけど……
その……今は中学生相手に教えてます……ハハ」
「え!!!?……中学生!!!?」
青年の台詞に百合の胸が一瞬詰まった。
それから青年は実に爽やかな笑顔を見せて言った。
「ええ、一応静岡じゃ強豪で有名なんですけどね……
上州学園って所です……
上州学園でコーチしてる渡井って言います」
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