ようこそコーヒー喫茶Fauxへ
りんごす
なくした写真(上)
東京都渋谷区、言わずと知れた大都市。若者の街として有名なこの街は人がいなくなることを知らない。一方で、少し中心から離れてみると代官山や広尾など落ち着いた大人の街も広がっている。そんな渋谷区でまことしやかに噂されている話が一つ。なんでも、悩みを抱えた人しか辿り着けない喫茶店があるらしい。入り口にはイタチの置物が2つ飾ってあって、もう1度店のあった場所に行こうとすると、どこにも見つからないそうだ。
ただ、その店に行ったことがある者は口を揃えていつかもう一度行きたいというらしい。
夜8時、三鷹周は1人大学から広尾へと向かう住宅街を歩いていた。大学に入学して3年が経った。去年までは単位や資格を取りつつ友人や彼女と遊んでいればよかったが、いよいよ目の前に就活という大きな山が迫ってきているのを実感して自分はこれからなにをやっていきたいのかという悩みを抱いている。
その悩みを持ち始めてから友人たちと遊んでも素直に楽しめず、これまでなら授業終わりにそのまま歓楽街で飲んで帰ることが多かったのが、めっきり減ってしまった。自分の周りにいる人は将来明確な目標があったり、仕事とは別に続けていきたいことがある中で自分にはなにもない気がしてしまって、一緒にいると小さなプライドがつつかれているような気がしてしまうのだ。
その時期から外を出歩くことが増え、それと比例して友人といる時間が少なくなっていった。今日も授業が終わって一緒に授業を受けていた友人に用事があると言って別れてから、なんとなく駅とは反対方向に行こうと決めて歩いていたら広尾の方へと足が向いていた。
綺麗な家や大きな家、古くからあるような家が並ぶ中を1人ゆっくりと歩く。たまたま見かけたケーキ屋さんのメニューを見て冷やかしたり、おしゃれな洋食のレストランを外から眺めながらぶらぶらとしていると有名な女子大学の前まできたのでそのまま坂を下って広尾駅の方まで進んでいく。外苑通りを渡ってそのまま大きな公園がある方へと向かうと公園のベンチに座って一息。
「最近少しすずしくなってきたな」
時期は9月。まだまだ日中は夏の暑さが続いているが、夜になると少し涼しい風が吹くようになってきた。
「これからどうしようか」
ふと出てきた言葉はこの後の行き先を言っているのか、もしくは近々やってくるであろう未来のことを言っているのか。自分の周りが着々とやりたいことをやるために準備を進めていく中で、何もない自分がちっぽけなものに感じてしまいどうしようもない。小さい頃は何にでもなれる気がしたし、何にでもなりたいと思っていたが、成長するにつれて自分にはそれになる才能がないのだという現実を見させられてきた。今だって趣味といえるものはあるかもしれないが、それで食べていけるほど自分に才能が溢れているとも思えないし、それはきっとこれからもそうなのだろう。
そんなことを考えていると、どこからかコーヒーの匂いが漂ってきた。自分以外にも人がいるのだろうかと周囲を見回してみるも誰もいない。ということはどこかの家でコーヒを入れているのだろうか。広尾の家に住んで、食後のコーヒーを飲んでいるのだろうか。まったく優雅な生活である。
「あーあ、やになっちゃうぜ」
さっきまで感じていたセンチメンタルな気持ちもぶち壊された気分だ。こんなところで考えているのも嫌になってきた。このまま広尾駅の方に戻ろうか。少し歩いて六本木まで行くのもいいかもしれない。時刻はすでに9時を回っている。そこまで考えて、どうせ明日は全休なのだから六本木まで歩いてしまうことに決めた。家に帰ってもご飯を食べて寝るだけだ。何時に帰ったところで明日は好きな時間まで眠ることもできる。それならば少し遠くまで歩いて嫌な思考を追い出してしまおう。
歩き出すとすぐに美味しそうなコーヒーの匂いが徐々に強くなってきた。いったいどこで飲んでいるのだと歩きながらキョロキョロしていると、目の前に灯りのついた一軒家が見えてきた。どうやらここからコーヒーの匂いが漂ってきているみたいだ。気になって見てみると、一軒家だと思っていた建物はどうやら喫茶店らしい。美味しそうなサンドイッチとコーヒーの写真が貼られたボードが店の目の前に置いてある。その下には2匹のイタチの置物が向かい合って置かれている。
くーとお腹の鳴った音が聞こえた。どうやら気づかなかったが自分はかなり空腹だったようだ。考えてみれば昼に学食で食べてから何も口にしていなかった。体が空腹を訴えてきて当然だ。目の前のボードと店の入り口を何度も往復しながら財布を取り出して中身を確認。値段もリーズナブルなので、ここで食事をしていっても問題がないことは確認した。これはもう抗えない。夕食はここのたまごサンドとハムサンドにセットのコーヒーで決定だ。なんといっても公園からずっと漂っていたコーヒーの匂いがたまらない。これだけいい匂いがしているんだ。不味いわけがないだろう。胸に抱いたワクワク感をそのままに少し古めかしいドアに手をかけて、周は意気揚々と喫茶店の中へと入っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます