記憶
春嵐
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冷たい。
それが、目の覚めるきっかけだった。
ゆっくりと、起き上がる。
冷たいのは。この、アスファルト。水たまり。
雨が降っている。
傘を差さなくても歩ける程度。水たまりができているから、きっと、さんざん降ったあと。
水たまりに写る、自分の顔。
見覚えがなかった。
着ている服も。
なんか、自分のものではないような感覚がする。
服。濡れていなかった。雨。水たまり。
自分の記憶が、なかった。
何も。
思い出せない。
頭の横のほうが、少しだけじわじわする。どこかにぶつけたのかもしれない。
立ち上がって。
ゆっくりと、歩き出す。
どこへ行けばいいのかは、分からなかった。
上を見る。
ビル街。かなり高い。
地上にいるのに、空に落ちていきそうな錯覚を覚える。こんなにビルが高いのに。自分は、地面に倒れていた。
「蟻みたいだ」
這いつくばって。雨に降られていた。
横断歩道。交差点。車。信号待ち。
なんとなく、後ろのポケットを探ってみる。
財布が入っていた。
運転免許証。
郊外のショッピングモールのポイントカード。
クレジットカード。
10回行くと1000円引きになる床屋のスタンプカード。
運転免許証には、知らない男の顔が写っていた。無表情。
「誰だこいつ」
近くの電光掲示板。
この国が他の国からサイバー攻撃で盗んだ多額の電子決済が、さらに何者かに盗まれたというニュース。
いい気味だった。国がなんでもしていいわけではない。盗んだ犯人の行方を、国は血眼になって追っているらしい。
犯人の顔。電光掲示板に、大映しになる。
「あ」
見たことがある。
この顔は。
さっき財布から出した、運転免許証の男の顔。
***
倒れたところに、走って戻る。
やっぱり。
自分以外に、もうひとり。倒れていた。見知らぬ顔。彼ではない。
上を見上げる。ビル。
このどこかから、落ちてきて。
自分にぶつかったのか。
服を脱いだ。
男物の服だったので、胸がつかえてなかなか脱ぐのに苦労した。下着ぐらい、つけてくればよかった。
着ていた服を。
死んでいる見知らぬ誰かに着せて。
自分は、その死んでいる人間の服を着た。
彼のではない、匂い。
いやだったけど、がまんした。
雨に濡れている。
急いで、その場を去った。
記憶。
思い出している。
電光掲示板の、あの犯人は。
わたしの恋人。
彼は、この国のサイバー攻撃の不正を明るみに出すために、動いた。そして、追われている。
そう。
別れを切り出されて。
それで、わたしは。
彼の服を奪って、外に出た。
彼以外の誰かを、彼に擬装して死なせるために。
目の前に飛び降り自殺の人間が降ってきたのは、幸運だった。ぶつかって、記憶を失いかけたけど。なんとか思い出せた。
走った。
遠くから、救急車とパトカーのサイレンが聞こえる。
***
部屋に入った。
彼。
服を着ずに、ベッドでぼうっとしてる。
すぐに、服を脱いだ。見知らぬ誰かの匂いを落とすために、シャワーを浴びる。
浴室から出ても。彼は、同じところにいて、ぼうっとしていた。
「よお。気は済んだか?」
「なにが?」
「不思議なやつだよ。おまえは。別れる前に俺の服を着て街に出るなんて」
「いいじゃない。あなたの匂いが好きなの」
「そして、帰ってきたら別な男の服を着てる。まあ、別れるんだから当然か」
「別れないわ」
「冗談言うなよ。終わった恋に
「なんで、わたしを、捨てるの」
「飽きたからだよ。おまえに」
「うそね」
「そういうところに俺は飽きたんだ。強引で、後先を考えない」
「ええ。あなたは
「だから、別れるのさ。価値観の違いってやつだ」
「じゃあ、あなた殺すわ」
「勘弁してくれ」
「あの服。道端で死んでた人の服よ。あなたのと、着せかえてきた。たぶん飛び降り自殺」
「おい」
「これで、たぶん、あなたは飛び降り自殺したことになるわ。落としどころとしては十分でしょ」
「待て待て。おまえ。俺の服を着て外に出たのは」
「誰か殺すつもりだったんだけど。死体のほうから降ってきてくれたわ。ぶつかって記憶しばらく飛んでたけど」
「どこへ行く」
「外」
「雨降ってるぞ」
「降ってるわね」
また。
雨がわたしの記憶を、洗い流してくれるだろう。
「別れないで。あなたと一緒にいるわ。わたしは」
それだけを言い残して、部屋をまた出る。
「おい。待て」
「なにか?」
「服着ないで外に出るのか。俺のを着ていけ」
服が投げて寄越される。
着た。
彼の、匂い。
「ありがとう」
心地よく、死ねそうだった。
***
結局、彼は優しいから、服を貸してくれたけど。
外に出てすぐ、脱いだ。
この服で外を歩くことはできない。すでに死人になっている人間の服だから。調べられるとまずい。
彼の代わりに、見知らぬ誰かが死んだ。そして、わたしは、それを偽装した。
誰なのかは、知らない。ビルの高いところから、目の前に落ちてきた。それだけ。
わたしとその見知らぬ誰かがぶつかって、倒れた。とっさに、彼の服をその落ちてきた人間に着せかえて。見知らぬ人間の服を着て。それで、その場からなんとかして離れて。そして、倒れた。
目覚めたときは、記憶がなくて。
街をさまよい歩いた。
今は、もう。
記憶が戻っているから。
彼のために、死なないといけない。
彼が生きられるように。
まっすぐ、前を向けるように。
わたしは。
死なないと。
寒かったので、彼の服を、やっぱり着た。
暖かい。
彼の匂いがする。
「愛するひとのために死ぬ」
何の感慨も、幸福感もなかった。
ただ、当然のように。その事実だけがある。
愛するひとのためになら、簡単に死ねるんだと、なんとなく思うだけ。
「愛するひとのために」
死ぬ。
ビル。
屋上。
ありがとう。
あなたのおかげで、そこそこ楽しい人生だったわ。生きてね。
飛び降りる瞬間。
彼の姿が、見えたような気がした。
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