第190話 一歩、前へ (2)

「お昼、まだでしょう?」と勧められるまま、カウンターに座った。目の前で、フライパンが軽快な音をたてる。広がる香ばしい匂いに、鼻が動いた。


「春海さん、ご飯の量は普通でいい?」

「ええ」


 勇太が、既によそった茶碗を見せて「今更だけどね」と笑う。小鉢を用意しながら、火を消したコンロに気付くと、花江の側に平皿を置いた。

 三年前、幾度となく見た光景が、今は花江と勇太という組み合わせになっている。そのことに新鮮さを覚えながら、二人の動きを見守った。


「はい、お待たせしました。

 日替わりランチです。どうぞ」

「ありがと」


 受け取ったトレイには、豚肉をメインにパプリカ、人参、キャベツを加えた炒め物と、きゅうりとアスパラのごま和え、すまし汁が添えられている。緊張で忘れていた食欲が、一気に呼び起こされた。


「ゆっくり食べてよ。

 今日はこのまま店閉めるって」

「え?

 何だか申し訳ないわね」

「いーの、いーの。

 ボスの命令だから」


 一段声を低くした勇太の後ろで「誰がボスよ」と、花江が笑う。


「うわ、聞こえてた?」

「わざとらしいわよ。気づいてたくせに」


「看板、片付けてきまーす」とカウンターから逃げ出した勇太を苦笑いで見送りながら、花江が別の小皿を差し出してきた。


「早じまいは気にしないで。

 せっかく来てくれたんだもの。私たちも、ゆっくり話したいし」

「ありがとう。

 それじゃ、お言葉に甘えて、いただきます」


 わざわざ作ってくれた卵焼きを、お礼と共に受けとる。懐かしい気遣いに感謝して、早速箸を取った。


 卵焼きをかじると、熱々のふわりとした食感と、甘い風味が口の中に広がる。


「やっぱり春海だもの、気づくわよね」

「何のこと?」


 とぼけてみたものの、一瞬、止まった箸は気づかれていたらしい。花江がフライパンを拭きながら、寂しげに笑う。


「常連さんによく言われたのよ。卵焼きの味が、変わったって。こればかりは仕方ないわね」


 僅かに諦観の混じった声に、言葉を失った。自分ばかりではない卵焼きの感想は、花江にとって、失った歩の存在を責めるように聞こえるのかもしれない。


「花江さん、片付けは俺がするからいいよ」


 勇太が戻ってきたことで、卵焼きの話題はそれっきりになった。


 ◇


「そうだったの」


 婚約破棄の顛末を聞いた花江が、重々しく呟いた。その一方、春海自身は、思った以上にすんなりと話せたことに、改めて安堵していた。


 コーヒーで喉を潤していると、片付けを済ませた勇太が、一つ離れた椅子にどかりと腰を下ろした。白いシャツに黒のエプロンというスタイルは、どこから見ても飲食店の店員といった風貌だ。ちょうど、話が一区切りしたこともあり、かつての同僚の姿に視線が向く。


「何?」

「なんだか、凄い違和感があるっていうか」

「え、マジ!? どの辺?」

「違うわよ。服装の話じゃなくて、本当に『HANA』で働いてるんだなって」

「ああ、そういうことね」


 座り直した勇太に「似合ってるわよ」と一言添える。勇太が『HANA』で働くことになったとは聞いていた。ただ、この町にいた頃は、歩への罪悪感と、花江へ向ける顔がなくて、一度も足を運んだことはなかった。そんなわだかまりを感じさせない勇太の態度を、心底ありがたく思う。


「俺だって、まさかここで働くことになるなんて思わなかったですよ。

 まあ、春海さんも俺も、人生何が起こるか分からないもんですよね」


 勇太が、グラスを片手に、からからと笑った。人づてに、『HANA』で働くことを提案したのは花江だと聞いていた。三年前、姪をかばってくれた感謝の気持ちだったのだろうか。二人の間にどんなやり取りがあったのかは知らない。


「勇太、ごめんなさい」

「なに、急に?」


 勇太が、深々と頭を下げた春海を、不思議そうに見下ろす。


「あたし、勇太が大変だったのに、知らないふりしてた。勇太だけじゃない、花江さんからも逃げ出して、それなのに」

「やめてくださいよ」


 勇太が、手を広げて話をさえぎった。乱暴に頭を掻きながら、言葉を見つけるように視線を動かす。


「俺は、春海さんが会いに来てくれて、嬉しかったです。それで十分ですから」

「そうよ。

 私たち、友人でしょう。水くさいじゃないの」


 あっけらかんと笑う勇太の横で、花江も頷く。


「今だから言いますけど、花江さん、ずっと心配してたんですよ。地域起こしのメンバーに、さりげなく近況聞いたりとかしてて」

「ちょっと、勇太くん!」

「心配かけたんだから、それくらい教えてあげればいいんですよ」

「それは、勇太くんも同じでしょう」


 カウンター越しに言い合う、どちらの声も明るい。失ったと思っていた友人が、ずっと自分を想ってくれていたことに、自然と胸が熱くなる。

 

 俯く春海に気づいた二人が、目だけで笑った。

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