第186話 「好き」と「好き」 (17)

 日はすっかり落ちてしまって目の前の海は見えない。それでも規則的に繰り返す波の音に耳を傾けながら、ただ宵闇に目を凝らしていた。


『あたしは歩が好き』


 もう何度思い返したか分からない言葉が脳裏に浮かんだ。その度に胸は高鳴り、嬉しさが溢れて息が止まりそうになる。滲みそうになる涙をバルコニーの手すりに頭を押し当てる痛みに変えて昂ぶる感情を押さえつけた。


 今までも確かに両想いだった。二人きりで過ごしたし、手を繋いで、キスをして──望み望まれての関係だと疑うことはなかったのに、たった一言告げてくれた言葉がどうしてこれほど心に沁みるのだろう。自分の心の奥に隠していた不安を見透かしていたかのような言葉には謝罪と申し訳なさげな顔が添えられていたけど、そんなことは必要ないと思えるくらい嬉しくてきっと生涯忘れる事なんて出来ない。


 ほんのりと赤らめた頬とどこか気恥ずかしげな態度から、もしかすると春海は好意を表に出すのが苦手なのかもしれない。

 春海だって一人の人間だ、きっと苦手な事もあるだろう。ただ今はそんなところも可愛く思えてしまう。



 こんな情けない自分を認めてくれるところが好き。

 拙い思考を否定せずに向き合ってくれるところが好き。

 あの人の存在そのものが好き。



「……春海さん」


 名前を口にするだけで甘い痛みに胸が締め付けられる。好きという感情に溺れてこのまま世界から消えても良いとさえ思えるものの、


 ──もしそんな事をしたら、春海さんがすっごく怒るんだろうなぁ


 遠い日の記憶が蘇ってほろ苦く笑った。





 コンコン



 ガラスを叩く音に振り返るとドアが開き、首元にタオルを巻いた春海が顔を出した。


「歩、お風呂空いたわよ。

 待ち長かったでしょう?」

「いえ、全然。

 ゆっくり浸かれました?」

「ええ。

 バスタブの栓は抜いちゃったけど、直ぐ入るならお湯出しとこうか?」

「いつもシャワーだけなので大丈夫です」

「折角だからお湯に浸かれば良いのに。

 あ、そうだ。一緒に入れば良かったわね」

「春海さん!」


 困ったように口を歪める歩を見て、春海がくすくすと笑った。本気ではないと分かっているからこその言葉に春海への好意がまた上書きされる。





「あ~、さっぱりした」


 ベッドに置いたキャリーバッグを広げながら、春海が片手で濡れた髪を梳き始めた。Tシャツにズボンというラフな格好とやや乱雑な仕草に何気なく向けた視線が外せなくなる。


 濡れて光る緩い髪、しっとりとした素肌、シャツの袖から見える細い二の腕、ネイルが光るつま先と小さなくるぶし、メイクを落とした事で柔らかくなった表情──その無防備な姿を意識した途端、ぶるりと身体が震えた。


「ん?」

「あ。

 何だか普段と違う感じがして……」


 後ろめたさはないはずなのにしどろもどろに弁解すると、はっとしたように春海がタオルで顔を覆う。


「やだ、あたしすっぴんだった!

 歩、ちょっとあっち向いてて!」

「え、メイクしてなくても春海さんは全然綺麗ですよ?」

「うそ、絶対お世辞だもの」

「本当ですって。

 あの、色っぽくて見とれてただけなんです!」

「すっぴんにこの恰好じゃない。色気なんてないわよ」

「いえ、だって!」


 いかに魅力があるかを伝えようとした口が止まる。それはつまり春海へ自分の性癖を暴露するのと同じ事で流石に恥ずかしすぎる。


「………………それなら良いけど」


 歩の葛藤の理由に気づいたのか、目元だけ覗かせた春海が渋々と納得したように話を打ち切った。ベッドに座っているせいで、上目遣いで見つめる姿に突如渇きに似た感覚が全身に広がる。


 ──あれ?


 ざわざわと胸に広がる何かに危機感を覚えて視線を逸らすと、自分のバックを探して引っ掴んだ。


「お、お風呂行って来ます!」



 ドアを閉めて一人になったところでほっと息を吐くと脱力する。

 今まで感じたことの無い感情に戸惑いを覚えながら、とりあえず汗を流そうと浴室へと向かった。



 ◇



「早っ!」


 頭を冷やす意味を込めて普段より長めの入浴時間だったものの、浴室から現れた歩に春海が驚愕の表情を浮かべている。


「歩、いつもお風呂そんなに早いの?」

「え? 早いですかね」

「早いわよ」


 返す言葉に困って笑うと並んだベッドの下にバックを置いた。そっと腰掛けたベッドはふわふわした弾力があり、日頃使っている布団とは全然違う。

 ふと目を向けた先には、シャワーを浴びる前の位置から変わっていない春海が忙しげに手を動かしていて、周りには様々な小瓶や小物が並んでいる。


 ──やっぱりお洒落な人は違うんだなぁ


 尊敬の眼差しを向けながら、邪魔にならないよう歯磨きでもと立ち上がった歩を春海が呼び止めた。


「はい?」

「スキンケアとかしないの?」

「ちゃんとしましたよ」


 以前無頓着だった歩を見かねた花江から「これだけはしなさい」と勧められた化粧水と乳液の入ったボトルを出して見せる。


「え、まさかこれだけ?」

「はい」

「……歩って普段からメイクも殆どしないわよね?」

「そうですね」

「……」


 何故か悔しそうな顔の春海に「花ちゃんも同じですよ」と付け加えると、どんよりとした雰囲気が更に増す。


「春海さん、どうしました?」

「きい~!

 理不尽だー!」

「わわっ!?」


 八つ当たりのように身体をくすぐろうと手を伸ばしてきた春海に困惑しながらも、拗ねた春海から原因を聞き出すのはもう少し先の事になるのだった。

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