第145話 変化(34)

「それじゃ、またね」


 ぺこりと頭を下げる歩に手を振って車を発進させる。バックミラーの映る姿が小さくなってもまだその場に留まっている事に気づいて思わず苦笑した。



 病み上がりの体調を考慮して早めに切り上げたものの明日も会う約束を交わした為か、別れの表情が明るかった事を安堵しながら日の落ち始めた道路を進む。



『一年間だけ傍にいる』


 明確な別れを提示したことでここに残るよう引き留められるかもしれない、いっそのことと告白されるかもしれない──そんな不安は杞憂となったものの、自分の感情を押し殺してまでこんな突飛もない話を受け入れてくれた歩の姿に、ハンドルを握る手が自然ときつく握られる。



『春海さん、ありがとうございます』


 話を締めくくった後で告げられた感謝の言葉に罪悪感がよみがえった。


 ──違う


 歩の想いを知っているからこそ決めた選択にお礼を告げられる必要なんて無かった。きちんと向き合うならば、まず最初に佐伯との話を聞いてしまった事を謝罪して、歩の想いには応えられないと告げるべきだったのに。


 結局、傷つけたくない、嫌われたくない故の逃げの選択は、片思いの相手に気持ちを打ち明けることなく傍に居続けるという苦行を押し付けただけに過ぎない。

 フェアじゃない関係と分かっていながら自分に都合の良い結論を言葉巧みに言いくるめた様なものだ。


 それなのに向けてくる好意に気づかない振りをして、友人としての立ち位置だけはしっかり確保している自分に嫌気がさす。



「……最っ低」


 もっと強引にねだってくれたら、もっと歩自身の事を考えてくれたら──何度そう思っただろう。佐伯さえも悪く言わない、周りの人を大切に思う歩の心はあまりにも純粋でいじらしい。




『歩の気持ちに応えるつもりなんてないから』


 花江に告げた言葉が頭を過る。半ば自分に言い聞かせる様に発した言葉が今になって心の中をぐるぐると回っている。


 友人なら二人で出かけるくらい何でもないはずだ。久しぶりに会った友人と近況報告を交わし合い、他愛のない会話を楽しむのは間違っていない。


 何も不自然じゃないはずなのに自分の行動に理由を付けなければ落ち着かないのは、向けてくる表情が好意であると知ってしまったから。



 ──あたしの19才ってどうだったかしら?


 自己嫌悪のループに陥りそうな気持ちを振り払うべく、自分の過去に思いを馳せながら自宅へと戻っていった。


 ◇


 桑畑からの電話が掛かってきたのは、歩を部屋に招いて映画を観ようとしていた時だった。


「はい、鳥居です」

『おう、姉ちゃん。

 ちょっと良いか?』


 年始の挨拶を交わさないまま用件を切り出した桑畑の硬い声に、自然と表情が引き締まる。テレビの前で待っていた歩に『ごめん』と口パクで謝ると、キッチンの前に移動した。


「はい、大丈夫です」

『さっき天気予報観たんだがなあ、明日から天気が崩れるのは知っとるか?』

「ええ。しばらく雨予報で、だけどイベント日前には晴れだったからそんなに心配してなかったんですけど。もしかして雨が続くと良くないの?」

『いや、雨は仕方ない。

 これからの時期はどうしても降るし、風が吹けば構わんからな。

 ただ、問題はその風でなぁ』

「風?」


 週間予報に風の予報があっただろうかと首を傾ける春海に『天気図までは見とらんやろう』と桑畑が続ける。


『発達した低気圧が近づいとるんじゃ』

「えーと、低気圧が近づくってことは……」

『天気が荒れる。

 ここら辺は元々風が強いで、余計に風が吹く』

「つまり?」

『つまり、強風でやぐらが倒れるかもしれん。

 あくまでも可能性じゃがの』

「え!?

 あんな大きな物が倒れるって、そんな事ってあるの?」


 事の重要性にようやく気づいた春海が驚きのあまり声を上げて聞き返す。


『滅多に有るもんじゃないが昔はあったんじゃ。

 大根をやぐら全体に掛けとるじゃろう。あれが風で一斉に揺れれば相当な重さになるで』

「じ、じゃあ、どうすれば良いの?

 あの数の大根を減らせってこと?」

『いいや。

 今、大根の数を減らすのは時間も手間も足りん。むしろ幾つか支柱を入れて風に備えた方が良かろう』

「分かりました。

 今から皆に集まってもらうよう連絡します」


 お礼を言って電話を切ると、リビングで待っていた歩の傍に戻る。


「歩、あのね……」

「何か緊急なんですよね。

 私は構いませんから、行ってください」


 端々の会話が聞こえていたらしく、笑顔を向けてくる歩に謝りながら事情を説明する。


「本っ当に、ごめん!」

「いえ。

 また機会は幾らでもありますから。それより、私も何かお手伝い出来ることがありますか?」

「あ~、折角だけど気持ちだけ貰っとく。

 これはあたしの仕事だし、何よりも歩の体調が心配だもの」


 力仕事を必要とするのなら、勇太の他に佐伯も呼ばなければならない。別れたばかりの二人が顔を合わせるのは気まずいだろうという配慮を隠しながら告げると、歩が申し訳無さそうに引き下がった。その諦めの良さに歩自身も自分が本調子でないことを分かっていたのだろう。思わず歩の細くなった肩を掴む。


「歩、退院したばかりだし、次のイベントは休んだら?」

「でも、行きたいです。

 私、一度も見てないから……」

「あ~、そうだったわね。

 だけど、ほら、また機会はあるじゃない。今は体調を整えるのが先だから」

「……はい」


 視線をさ迷わせている歩の耳が赤くなっているのを見て、自分の不用意さに気づくとさりげなく手を離す。



 結局そのまま解散することにして、歩を送る支度を整えてから外に出た。びゅうと吹き付ける風は普段と変わらない様に思えるも、空を流れゆく雲のスピードは心なしか早い。


「ほんとに雨が降るのかしらね……」

 

 目の前に広がる青空を眺めた後、急ぎ足で駐車場に向かった。

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