第140話 変化(29)

 混乱したままでもきちんとたどり着けた自宅に少しだけ可笑しさを感じながらドアを開く。室内の冷たい空気に身体を震わせながらリモコンを取ると、テレビの音を流した。


「……」


 エアコンが吹き付ける暖かい風を浴びながらテレビから聞こえてくるドラマに視線を移すも、日頃から観ていないせいで内容がさっぱり分からない。




 歩に恋愛対象として好かれている。



 未だに受け止めきれないその事実が、再び頭の中を占拠する。


 ──なぜ? どうして?


 思い返すとふつふつと沸いてくるのは怒りの感情。


 ──あたしはそんなつもりで向き合った訳じゃないのに



 確かに他人と関わる事を避けていた歩に声を掛けたのも、一緒に行動するよう誘ったのも全て自分からだ。その上、心を開かせようと励まし支えたのも自分で、歩からすれば好きになる要因は幾らでもあるだろう。



 歩に告げた言葉も気持ちも決して嘘ではない。

 ただ、それは全て友人としての立ち位置と好意から向けていたもので、そこに恋愛感情を挟む余地は無いのだ。


 歩が迷惑な訳ではなく、歩の向けてくる恋愛感情が迷惑なだけ。


 言葉にすれば容易いものの、それを切って離せるならこれ程悩む必要はないし、歩だって同じ思いだろう。


 知ってしまった後悔と理不尽な怒りが心を塗りつぶしそうになり、冷蔵庫からチューハイの缶を取り出すと一気に半分ほど流し込む。


「……どうしろっていうのよ」


 がしがしと髪の毛を乱しながら、胃の奥にじわりと広がるアルコールに救いを求めるように缶に口をつけた。



 ◇


「いらっしゃい」


 あらかじめ『話があるから』と告げておいた為か、既に用意されていたらしいコーヒーを差し出しながら、花江も隣に腰を下ろした。


「ごめんなさいね。

 休憩時間だったのに」

「気にしないで。

 現にこうやって休憩してるじゃない」

 

 話を急かす事なくカップを傾ける花江の隣で、自分を落ち着かせるためにコーヒーを口に含み、半分ほど飲んでからようやく顔を上げた。



「花江さん。

 歩が私を好きなこと、知ってたんでしょう」




「……ええ」


 確認の意味を込めたストレートな問いかけに短い肯定が返ってくる。自分の考えが間違ってなかったことにため息をつくと、花江の眉が困ったように下がった。


「ちなみに、その事はどうやって知ったか聞いても良いかしら?」

「それは偶々としか言えないの。

 ただ、歩は知らないわ」

「そう……」


 目の前のコーヒーカップを見つめた春海に花江が謝罪を口にする。


「黙っていたことは言い訳しないのね」

「私が春海を裏切ったと思われても仕方ないもの。絶交されても軽蔑しても恨むつもりなんてないから安心して」




「はぁ~あ、本当参るわ~」


 張りつめた空気を壊すよう大きく腕を伸ばした春海を花江がきょとんとした顔で見つめた。


「別にそんなことしないわよ。

 自分の鈍感さに呆れただけだから」

「そんなことないでしょう」

「いや、マジで。

 勇太も気づいてたし」

「勇太くんも?」


 その言葉に驚いたらしく、花江が目を丸くする。


「あ、勇太も私も言いふらしたりするつもりなんてないからそこは安心して。

 とりあえず、花江さんには伝えておかないと、と思っただけだから」


 花江に告げるのは思った以上に緊張していたらしく手の平に滲んだ汗をそっと拭いながら、カップを手に取る。


「春海は何も思わないの?」

「何を?」

「歩の事」


 花江の質問に困ったよう微笑んだ春海が、カップから視線を移した。


「正直に言うと、凄くむかついたわ。

 歩にも、花江さんにもね。私には彼氏がいるって知ってるのに恋愛感情を向けられるなんて思わなかったし、友人がそんな大切な事をずっと黙っていたのはショックだったから。

 だけど……」


「だけど?」


「私はきっと気づかないうちに二人をたくさん傷つけてる。花江さんも歩も私の知らないところで悩んで苦しんでいたのかもしれないって思ったら、他人の事言えた義理じゃないなって」

「……」


「特に歩には。

 あの子が『好きな人がいる』って打ち明けてくれたとき、私、全力で応援しちゃってさ。好きになったのなら仕方ないじゃないって。

 まさかその相手が自分だとは思わなかったけど」

「それは……春海は悪くないわよ」


 歩がそこまで打ち明けているとはおもわなかったのだろう、驚きを隠せないままそれでもフォローする花江に小さく笑う。


「ううん、他にもたくさんあるのよ。

 その度に歩を傷つけて、苦しめて……きっと泣かせてる」

「……」

「花江さん。

 私、歩の気持ちに応えるつもりなんてないから」


 言い聞かせるかのようにきっぱりと告げた後、少しだけ躊躇いながら言葉を続ける。


「だけど、あの子を大切に思ってるの。傷つけたくないし、幸せになって欲しいって願ってる。

 自分でも矛盾してるって分かってるんだけど、これが正直な気持ち」


 バックから取り出したのは歩に渡すつもりだったハンドクリームの袋。


「これ、歩に渡してくれる?

 本当はクリスマスプレゼントだったんだけど、渡しそびれちゃって。退院祝いってことにしてて」

「……歩と会わないの?」


 袋を受け取りながら、どこか寂しげに花江が訊ねる。


「今日で仕事納めだし、このまま彼氏の所に行くの。歩も退院したら実家に戻るんでしょう?

 ……それに、さすがに今はどんな顔して歩に会えば良いか分からないから」


「分かった、渡しておくわね。

 春海」

「何?」

「さっきの質問、わざと意味をすり替えたでしょう?」

「え?」


 不思議そうに首を傾げる春海を花江が見つめる。


「私は歩が同性愛者で何も思わないのかって聞いたつもりだったけど」

「あぁ、そういうことね」


 質問の意図を理解したらしい春海が真っ直ぐ花江を見つめ返した。


「一言で返すなら、それがどうしたって答えるわ。

 歩は歩じゃない」


 しばらく黙っていた花江がふっと微笑んだ。それを合図のように飲み終わったカップをカウンターに戻して立ち上がる。


「またね、春海」


 笑顔で送り出す花江に手を振ると、後ろを見る事なく外へ出ていった。

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