第137話 変化(26)
しばらくして長居に気づいた春海が「また来るから」と病室を出ていく。
静けさが戻った病室には朝のような孤独感は無く、心地良かった時間の余韻だけが残っていて、その余韻を噛みしめるようにベットに横たわると、そっと目を閉じる。
春海と向き合えた為か、思わぬ形とはいえ告白出来たせいか、あれほど重かった心は随分と荷を降ろした様に軽くなっていて、自分の気持ちを打ち明ける事の大切さを身をもって知る。春海が自己満足と表現するそれは相手に気を使わせないための方便なのだろう。そんな春海に好意はますます募るものの、今はその感情を心地よいものとして受け止める余裕すらあった。
「……」
枕元に置いたままのスマホに視線を向ける。前を向くと決めたからには自分の愚行で傷つけたもう一人の人物に謝らなければならない。
例えどんなに責められようともきちんと受け止めなければならない。
全ての非は自分にあるのだから。
春海の言葉に支えられている今ならきちんと現実と向き合える気がして、スマホを取るとメッセージを入力し始めた。
◇
「春海さん、歩の見舞いって行きました?」
収穫体験で撮ったおびただしい量の写真をテーブルに広げながら勇太が訊ねる。
「昨日は行けなかったけど、一昨日は行ったわよ。
花江さんの話じゃ昨日は食欲も出て大分調子も良いって聞いたから、今日仕事終わりにでも行ってみるつもり」
「そうですか。
んじゃ俺も行きます」
「えっ?」
「何ですか、その意外そうな顔は」
「いや……何だか、意外」
「それ否定の意味ないから。
邪魔なら遠慮しますけど」
「何で?
全然邪魔じゃないわよ。それじゃ一緒に乗って行こうか」
「俺が車出しますよ。
春海さんの車、片付けないと乗れないじゃないですか」
「失っ礼ね!
そんなに散らかってないわよ!」
勇太の背中を叩きながら、それでも昼休みに車内の片付けをする事を決めた。
◇
商店街の『歳末大売り出し』ののぼり旗に気づいたらしい勇太がため息混じりで口を開く。
「あーあ、もう年末ですね」
「本当。
ついこの間までクリスマスやってたのに。一年があっという間だったわ」
「それって年を取った人が言う台詞ですよね」
「勇太、いい度胸してるじゃない?」
「俺、運転中ですからね」
「……着いたら覚えときなさいよ」
「へーい」と返事をする勇太に「そこを左ね」と指示しながらガラス越しに流れる景色をぼんやりと眺めた。
「……一年、か」
間もなく訪れる年末に持ち越したままの問題はいまだ答えが出ていない。こんな状況では清々しい気持ちで新年を迎えるのは難しいだろうか。
「一年がどうしたんすか?」
「ん~? 一年後の私ってどうしてるのかなぁって考えてたの」
「一年後ねぇ」
赤信号でゆっくりとブレーキを踏んだ勇太が顎を擦りながら考える。
「一つ大人になってるとか」
「ぷっ! そうかもね」
勇太らしい答えに吹き出すと、間もなく見えてきた病院のシルエットに歩の病室の位置を探した。
面会時間も終わりに近い為か、閑散とした雰囲気の病棟はいつにも増して人の気配が感じられない。どちらともなく無言で廊下を歩いていた春海と勇太の靴音が不意に聞こえてきた声に止まる。
『別れるってどういう事ですか!』
「!? ……ねぇ、勇太。
今のって」
「佐伯さんっすね」
どうやら佐伯が歩の元へ訪れていたらしく、半分開いたままのドアのせいで中の会話が筒抜けになっている。聞こえてくる言葉も雰囲気も明るいものではなく、二人とも困ってその場に立ち尽くした。
「春海さん、出直します?」
「そ、そうね……」
『僕が無理矢理迫ったからですか?
それなら幾らでも謝ります! だけど、嫌だったのなら歩さんだってきちんと拒否してくれれば良かったじゃないですか』
立ち聞きするべき会話ではないと引き返そうとしたその時、聞こえてきた佐伯の言葉に耳を疑った。
──無理矢理?
歩は佐伯との交際の内容について話してなかったが、歩があれほど苦しんだ原因の一端が佐伯に依るものだとしたら話は別だ。
「……勇太、ちょっと待って」
「春海さん」
不穏な空気を察したのか勇太が春海の腕を掴む。
「何もしないわよ。
少し話を聞くだけ」
「その顔で言われても説得力ないんすけど」
苛立つ自分を落ち着かせようとドアから少し離れた壁に背中を預けるようにもたれる。ため息をついた勇太が春海に倣うようにしながらも掴んだままの手は離そうとしない。
『本当にごめんなさい』
『謝って欲しい訳じゃなくて、僕たちはもう一度話し合う必要があるって言いたいんです。
急に別れるだなんて言わずに考え直して下さい!』
佐伯の悲痛な声が辺りに響く。ここが病院であることに気が回らないほど追い詰められているのだろうか。日頃の態度とはかけ離れた必死さが歩への気持ちを表しているように思えた。
『ごめんなさい。
ずっと黙っていたんですけど……私、本当は好きな人がいるんです』
「!?」
聞こえてきた歩の声に思わず息が止まりそうになった。
『その人を忘れたくて、佐伯さんと付き合ったんです。佐伯さんの優しさに甘えれば、その人の事を忘れられるんじゃないかと思って……でも、それじゃいけないって。
それじゃ佐伯さんも私も幸せにはなれないって』
「……」
聞こえてくる声だけでは歩がどんな表情をしているのか分からない。ただ、か細いながら、どこか意思を感じられるその声にただ黙って耳を傾ける。
『自分が最低な行為をしたって自覚してます。だから、本当にごめんなさい。
佐伯さんは優しくて気遣いも出来る素敵な人です。私なんかより、もっと素敵な人を好きになって下さい』
「……」
ぐいっ、と腕を引かれて歩に駆け寄ろうとしていた自分に気がついた。呆れたような眼差しの勇太に目だけで謝ると、話が穏便に終わりそうな気配にほっと胸を撫で下ろす。
『どんな人なんですか?
歩さんの好きな人って』
『えっ?』
「えっ?」
佐伯の質問に思わず声が漏れ、慌てて口を押さえる。幸い歩の声と重なったようで向こうには届かなかったらしい。
『歩さんの好きな人ってどんな人なんですか?
僕もその人に近づけるように努力します!
そのっ、背格好は無理かもしれないけど……きっと歩さんの好きな人に追いついてみせますから!』
『そ、そんな……』
「わお」
思ってもみない切り返しに歩が戸惑い、隣で勇太が呆れたように声を上げる。勇太を軽く睨み付けながら、このまま会話の聞くべきか悩む。
この先は聞くべきではないと先程から頭の片隅で警鐘が鳴っているのに足は少しも動いてはくれない。沈黙がいつ途切れるか分からない中、自分がその場に立っている訳でもないのに何故か心臓がどくどくと音をたてる。
『佐伯さんは、その……全然違いますから』
『そんなことありません!
同じ男なら可能性はゼロじゃない。だから、』
『違います!!』
遮った歩の声が辺りに響く。その声に驚いたのか室内は静かになった。
『違うんです……
私の好きな人は……』
離れていてもはっきりと分かる震えた声がゆっくりと言葉を続ける。
『私の好きな人は、女の人なんです』
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今年の更新はここまでです。
今年一年、この作品にお付き合いいただき、また、たくさんの応援本当にありがとうございました。
来年の更新は1月6日を予定しています。
皆様良いお年をお迎えください。
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