第136話 変化(25)
電気の消えた病室でもう何度目かの寝返りをうつ。眠れない、というよりは落ち着かない気分でいる自分自身へ苛立ちを感じながら、その原因を思い浮かべるように丸い椅子に視線を向けた。
──もう家に着いただろうか
別れ際の母親を思い出し、直ぐにその姿を打ち消すようにスマホに手を伸ばす。
ディナーの最中の花江から連絡があるはずもなく、歩のスマホは入院以来何のリアクションも起こさない。少し前まではそれが当たり前だったはずなのに、慣れない場所にいる為か、弱った身体の為か、一人きりで過ごす夜がただ辛い。
「!」
短い通知音がメッセージの受信を知らせる。
送り主の佐伯の名前に落ち着いていた痛みが疼くも、もしかしたら春海から事情を聞いたのかもしれないと、散々悩んだ後ようやく見る決心を固めた。
丁寧な謝罪で始まったメッセージは歩の体調を気遣うことに終始徹した内容となっていて、佐伯の誠実さがそのまま文面となって表れていた。
「…………何やってるんだろう、私」
花江に迷惑を掛けて、春海に八つ当たりして、佐伯の気持ちをないがしろにして。
空回りする行動は全て裏目に出るばかりか、周囲を巻き込むだけの悪影響でしかなく、自分という人間が情けなくて情けなくて仕方がない。
両手で覆った顔のその隙間から、ぽたぽたと水滴がシーツを濡らしていく。
後悔ばかりの夜は、ただひたすら長く、冷たく、ゆっくりと流れていった。
◇
コンコン
寝付けないまま問診を終え、明るい日差しの中で眠気にまどろんでいた歩の耳にドアを叩く音が入った。
「はい……」
「おはよ。
あ、もしかして眠ってた?」
「あ……」
「ごめんごめん」と謝る春海の笑顔に眠気が一気に吹き飛び、慌てて身体を起こす。
「歩、横になってて良いわよ」
「いえ……」
「顔見たかっただけなの。すぐに帰るから」とコートを片手に立ったままの春海の声が頭の上から聞こえてくる。花江と約束したものの、こうして二人きりになると嫌でも先日声を荒げてしまった事を思い出し、気まずさから顔が見れない。
──あの時も春海さんが手を差しのべてくれていたのに
「……ごめん、なさい」
「どうしたの? 急に」
「……いつも、いつも……春海さんに迷惑ばかりかけてて……本当に、ごめんなさい…………」
ゆっくり顔を上げて、声が震えない代わりにたどたどしくなってしまった言葉を何とか言い終える。その言葉に春海が眉間に皺を寄せ、歩の額を指で軽く弾いた。
「!?」
「本当よ。
あたし、歩が救急車で運ばれたって聞いて寿命が縮んだからね」
「……ごめんなさい」
「あたしがどれだけ心配したか知らないでしょう」
「……ごめんなさい」
「収穫体験、皆が歩が来るのを楽しみにしてたのよ」
「……ごめんなさい」
「どうして一人で苦しんでたのよ」
「……ごめんなさい」
「歩」
「……はい」
「あたしは謝って欲しい訳じゃない。
歩が体調を崩すくらい悩んで苦しんでいる理由を知りたいの。あなたの力になりたいの」
「……」
ため息をつき、不機嫌な表情のままベットの脇に腰を下ろした春海がそのまま歩の身体を引き寄せる。
「は、春海、さん?」
「歩……あたしはそんなに信用ないかなぁ?
どうしたらあたしの気持ちを分かってくれる?
何をすれば歩が信頼してくれる?」
「………」
触れる身体が、背中に回された手が、春海の心の内を表す様に押し付けられる。何も話せなかった自分のせいで一番傷つけたくない人が傷ついている──その事が何よりも堪えた。
「…………信頼、してます……誰よりも。
春海さんが……こんな私を……大切に思ってくれてるのも………」
言葉を飲み込む気配と共に回された腕に力がこもる。その仕草に気づいた歩にもはや春海の気持ちを払いのける勇気はなかった。
「…………私………ずっと、好きな人がいるんです」
声に出さなくても伝わる驚きに薄く笑うと、諦めに身を委ねるように目を閉じた。
──こんな形で告白するつもりなんてなかったのに
「だけど……好きになっちゃいけない人なんです」
「どうして?」
「…………普通じゃない……好き……だから」
「……」
「……何度も何度も諦めようって、思ったんです。好きになったらいけないって。迷惑にしかならないって」
「だから、佐伯くんと付き合ったの?」
「最低ですよね……」
自分から身体を引き離すと複雑な顔で見つめる春海に小さく微笑む。
「今まで話せなくてごめんなさい。
春海さんにはどうしても話せなかったんです。
でも、もう良いんです。ようやく諦めがついたから……」
「駄目よ」
春海の真っ直ぐな視線と声が言葉を遮る。
「歩はもっと自分の気持ちを大切にしてあげて」
「でも……」
「歩が自分の気持ちを大切にしない限り、歩は幸せにはなれないのよ。それは歩が一番分かってるはずでしょう?」
「……」
春海の言いたいことは分かるものの、喉まで出かかった反論を飲み込む。その苦々しい表情の意味に気づいたのか、春海がむっとした顔になった。
「普通じゃないからどうなのよ。好きの感情なんて誰にも止められないし、それでも好きになったのなら仕方ないじゃない。告白出来なくても、想いが叶わなくても歩のその気持ちは潰して良いものじゃないから」
「でも……」
否定することしか出来ない歩を励ますように春海が肩に両手を置いた。
「辛かったらあたしがいる。
いくらでも話は聞くし、気分転換にも付き合うわよ。
歩、あたしはあなたを否定しない。
その考えも、その気持ちも。例え、どんなことがあっても歩の味方でいるから」
「……」
「だから、お願い。
あたしを頼って」
「…………どうして、春海さんはそこまでしてくれるんですか?」
ずっとずっと気になっていた疑問が口からぽろりとこぼれ落ち、思わず身体を震わせた歩に春海が微笑んだ。
「そうねぇ~、色々理由はあるけど……きっと後悔したくないからかなぁ」
「後悔?」
「そう。
あのね、あたし、昔は気が弱くてさ、目の前の辛い出来事やほんの些細な友達とのすれ違いから何度も逃げ出してたの。
それが大人になって色々体験していくと、あの時の出来事なんて決して大した事じゃなかったって思えてくるのよ。
あんな簡単な事からどうして逃げ出したんだろう、あの時友達を追いかけるべきだったのにって。それはずっとずっと心の中に残ってて、ふとした拍子に思い出したりする」
「……」
「そんな後悔ばかりしてたからさ、歩が今一人で悩んで苦しんでいるのを放っておけないの。
だから、あたしの今できる限りの助けをしたい。
例えそれが上手くいかなかったとしても、何もしないよりはきっと後悔しないと思うから。
……まぁ、自己満足って言われたらそれまでなんだけどね」
長々と語っていた事に気づいたように、春海が冗談めかして話を終えると、ぽろぽろと涙をこぼす歩に気づき、ぎょっとした。
「え!? 歩、どうしたの?」
「……私」
「ん?」
「……私、も……変わりたいんです……こんな自分は嫌なんです……ちゃんと、前を向きたい……誰にも迷惑を掛けたくない……春海さんみたいな大人になりたい……でも、全然上手くいかなくて……色々考えたけど……結局、傷つけてばかりで……」
「そっか」
よしよしと背中を撫でる手と春海の声が酷く優しくて、ごしごしと袖で拭う涙は次々と溢れ続ける。
「歩なら心配要らないわ。
今が辛くてもきっと前を向ける」
「……本当に?」
「本当よ。あたしが保証する。
ただ、一つだけ訂正していい?」
涙で濡れた瞳を上げると、どこか困ったように春海が笑った。
「あたしを目標にするのは駄目よ。
歩には歩の良さがあるんだから。あたしは歩のその真っ直ぐさが好きなの。だから、歩は歩らしく大人になって」
「私らしく……ですか?」
「そう。
とりあえず、歩の一番の目標は早く元気になること。あたし、歩とやりたいことがたくさんあるんだからね」
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