第47話 おおかみ小学校 (6)
「春海さんはまだ帰らないんですか?」
「もう少ししたら帰るわよ。
そっか、今日勇三さんは出張でいないんだったわね。戸締まりなら私がするから」
「それじゃお願いします。お疲れ様でした」
「お疲れ~」
普段と変わらないやり取りを終え、手を上げて見送る。キーボードを叩く音が広い室内にしばらく続いていたものの、次第に遅くなりやがて途切れた。
「はぁ……」
ため息と共に思い出すのはあの日の自分の失態。もう何日も経っているのに、むしろ、時間が経てば経つほど罪悪感がじわじわと染みのように広がっていく。山下やタケルの母親にしてみたら事情を知らない春海の言葉など不快に思ったものの、とっくに忘れてしまっているのかもしれない。
一度きりの関係でしかない赤の他人に、知られたくない事情を知ってもらう必要なんてないのだから。だけど、
「…………帰ろ」
一度きつく目を閉じ下唇を噛んで立ち上がると、帰り支度をする。真っ暗になった校舎を横切りながら顔を上げると、薄暗くなる空と赤黒い太陽が目の前に広がっていて、校庭の向こう側に太陽が沈むのをぼんやりと眺めていた。
誰かに弱音を打ち明けたい。
そう思うものの素直に助けを求められなくて、自分のこんな天の邪鬼な性格にうんざりする。
「春海さん……?」
夕日がもう少しで消えてしまいそうになった頃、恐る恐る呼ばれた声に振り向けば、歩の姿があった。ぼんやりしていた時間は体感的には2、3分程度のはずで、不審に思われてはいないはずだ。
咄嗟に笑顔を浮かべて、バックを抱え直しながら歩に近づいていく。
「どうしたの? こんな所で」
「えっと、少し前から、ジョギングを始めて……」
上下揃いのジャージに身を包んだ歩の姿に、最近中学校の周りで見かける後ろ姿の人物とが一致する。
「もしかして、体育祭前からずっと走ってた?」
「は、はい……」
「あぁ、あれ、歩だったんだ~。
事務所の窓から走ってるのを時々見かけて、凄く熱心に練習してる人がいるなぁって思ってたのよね」
返事に困った様な歩が少しだけ微笑んで、春海を見た。
「あの、悩み事とかですか?」
「……どうして?」
否定するつもりだったのに、思わず質問で返す。最早肯定しているのと同じなのに歩は気づかないらしく、言うまいか迷った視線がやがて真っ直ぐ春海を捉えた。
「凄く、辛そうにしていたから……」
自分を気遣う眼差しと痛みを感じている口調に、取り繕っていた笑顔が凍りつくのが分かった。今日は『HANA』に行ったものの、普段通りに振る舞っていたはずで勇太や花江も何も言わなかった。
ひた隠しにしていた内心を見抜かれた相手が歩であることに驚きを隠せないものの、ふと以前にも感じた歩の気遣いを思いだし、ゆっくりと身体の強ばりを解く。
この子の前では取り繕わなくても良いのかもしれない──
「歩。良かったら、話聞いてくれる?」
「……私で良いんですか?」
不安そうな歩の一言に思わず吹き出すと、困惑した歩が視線を泳がせながら口ごもる。隠し通していた痛みを見つけ出せるくせに、頼られる事にとことん自信のない少女は、どれ程自分の存在を低く思っているのだろう。
「だって、花ちゃんの方が適任だし……」
お菓子を作るのが上手で、運動神経が良くて、笑顔が可愛らしくて、他人の痛みに敏感で──
他人に好かれる要素しか持たない様な人間なのに、気づいてないのは本人だけ。
「歩じゃなきゃ駄目なのよ」
春海の言葉に目を丸くする少女のそのアンバランスさがいかにも歩らしくて。
「気づいてくれた本人が責任持って聞くべきじゃない?」
拗ねるようについ意地悪く言ってしまうのは、そんな彼女に少しでも仲良くなってほしいから。
「え!? あ、は、はい、」
言葉通りに受け止めてしまう生真面目さがまた可愛らしくて、ポケットに入れていた鍵を取り出して見せると、先程施錠したばかりの事務所を指差す。
確か、貰い物のチョコが冷蔵庫に残っていたはずだ。
「折角だから、事務所に来ない?
たまには私がコーヒー淹れるからさ」
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