第14話 鳥居春海 (5)
食事をする間に洗い物を済ませていた花江がドアのプレートを『CLOZE』に変え、二人分のコーヒーを持って隣の椅子に座る。花江に気を使わせてしまったかと視線を向けると、表情で察したらしく笑いながら首を横に振った。
「今日はディナーもないし、これでおしまいなの。
たまには早く終わろうと思ってね」
「成る程、自営業の良いところね」
「自己管理も大切よ。自分の身体が資本ですから」
くすくすと笑いながら、リラックスした表情の花江が一度奥に視線を向けた。店じまいをするからにはこれから用事でもあるのだろうと早めに切り上げるつもりで湯気の立つカップに手を伸ばしながら、ふと気になっていたことを口にする。
「私、前からずっと気になっていたんだけどさぁ」
「何?」
「歩ちゃんってさぁ、普段何となく辛そうに笑ってない?」
「そうかしら」
「ええと、この間クッキーを貰った時を見て思ったんだけど、心からの笑顔っていうか、普段の笑顔と全然違っててね。だからこそ無理してるのが分かったっていうか……」
歩の笑顔を思い出しながら話していたせいで、花江の表情に気付くのが遅れた。驚きと、不安と、嬉しさ──それらがごちゃ混ぜになったような複雑な表情で花江が見つめている。
「……花江さん?」
「あ! いいえ、違うの。
ええと……何と言えば良いのかしら……
歩の事に気づいてくれた人が春海だとは思わなかったから、意外というか、納得したというか……」
「?
どういう意味?」
珍しく慌てて、困ったように考えていた花江が、やがて、立ち上がるとカウンターに戻り、先程春海が渡したパウンドケーキを持ってきた。
「このお土産、春海から直接歩に渡してくれない?
その方がきっと喜ぶから」
「え? それは構わないけど……
歩ちゃん、何か用事じゃないの?」
春海の疑問に、花江の口調がまるでここにはいない歩を気遣うよう小声になる。
「あの子、時々、生理痛が重くなるの。
今日は朝から辛そうだったから先に上がらせただけ。
多分落ち着いていると思うけど、様子を見るついでに」
◇
花江に教えられた通りに居住スペースの廊下を歩くと、やがて突き当たった先の左側にはドアがあった。身体が辛いなら眠っているかもしれないと控え目にノックすると、奥から小さく「はい」と声が聞こえる。ドアノブを回そうとするものの、一言声を掛けてからの方が驚かせずにすむだろうと思い止まった。
「えっと、歩ちゃん?
春海だけど」
「!?
───!」
声にならない声とドア越しの慌てたような物音から、思いがけない人物の襲来に歩が慌てふためく姿が想像出来て、申し訳なさを感じつつ、思わず笑ってしまう。
「あの、中に入るつもりないから、ここで……」
「いえ!!あのっ!
えっと………お待たせしてすいません……」
ドア越しに用件を伝えようとするタイミングで、歩がドアを開け部屋に招き入れた。
白い壁際のチェストと少しだけ雑に整えられたシングルベッドのみの部屋──シンプルと言えばシンプルだが、小物もぬいぐるみもない、殺風景という言葉が相応しい内装が歩のイメージと合わなくて、目を丸くする。向かい合うように立ったままの歩がこちらを不安そうに見ていることに気がつき、当初の目的を思い出した。
「えっと、この間送って貰ったお礼を持ってきたんだけど。
ごめんね、体調悪い時に押し掛けて」
「いえ。わざわざありがとうございます」
「生理痛って聞いたけど、お腹痛いの?」
「痛いっていうか、身体がだるくて。
時々なんですけど……」
「そう、大変ねぇ」
春海が事情を知っている事に恥ずかしそうな表情を浮かべる歩はどことなく気だるそうに見えた。春海は生理自体軽い方だし、生理痛もほとんどない。毎月定期的に訪れる現象に慣れてはいるものの、それでも億劫であることにはかわりなくて、同じ女性として同情する。
「さっきまで寝てたんじゃない?
本当、ごめん。
花江さんに渡したんだけど、直接渡した方が喜ばれるから持って行くよう言われてさぁ」
決して自分の意思で押し掛けた訳ではないことを強調しながら説明すると、次第に歩の顔色が変わった。まるで、秘密を見つかったかの様な怯えた表情に、思わず歩を見つめる。
「どうしたの?」
「いえ………」
先程の会話を思い出しても、特に思い当たる節もない、ごく普通の会話だった筈だ。何故歩が怯えているのか分からないまま、それでも、必死で取り繕った表情があまりにも弱々しく悲しそうで、気がつけば身体を乗り出して歩の頭に手を伸ばしていた。
「あ、あの……」
「ん?」
「その……手を……離して下さい」
「どうしようかなぁ~」
俯いた表情と震える声からおそらく恥ずかしがっているのだろうと思うが、先程の歩よりは全然マシだ。さらさらの髪を優しく撫でながら、身を強ばらせる歩にふとイタズラ心が沸く。
「歩ちゃんが私の名前を呼んでくれたら、止めるわ」
「えっ!?
な、名前ですか!?」
驚きすぎて顔を上げた歩と至近距離で目が合い、赤くなった歩の表情に笑い出すのを我慢して、笑みを取り繕った。
「私、一度も呼ばれた事がない気がするんだもん。
折角なら仲良くなりたいなぁ~」
目を泳がせながら、しばらくもごもごと口を動かしていた歩が、恥ずかしさを全開にした表情で小さく口を動かす。
「……………………は、春海、さん」
「!
はい、良くできました」
名前を呼ばれただけなのに、鼓動が小さく跳ねる。
一呼吸遅れた返事と共に手を離すと、何事もなかったかのように再び笑みを浮かべた。
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