ペットボトル

ヤクモ

ペットボトル

高崎真守

高田花香



 ホームルームが終わり一時間もすると、教室内の耳障りな騒音は消えた。ページを捲る音と時計の針の音だけが空気を揺らす。ちょうど物語の2章目が終わったため、ページ番号を覚えて鞄に仕舞った。普段は放課後には空になっている机に唯一入っていた深緑のカバーのノートを取り出す。表紙には油性ペンで『日誌』と書かれていた。

「ふぅ」

 細身のシャーペンを握り、私が書くべき場所を開く。左ページに書かれた、丸文字と何を表現しているのかいまいち解らない落書きを一瞥する。書かれていることは他のページと大差ない。ありきたりの、型にはまった中身だ。私も例に習ってありきたりなことを書く。

(どうせ見ないのに)

 見慣れた日常を一々書き記したものに、多忙な教師が真剣に目を通すだろうか。せいぜい、やる気に満ちた新任教師か教務実習生くらいだろう。ごく稀に重大なこと(誰かが大怪我を負ったとか、誰と誰が血を流す喧嘩をしたとか、誰かが誰かをかつあげしているとか)が書かれているが、それが教師の目に留まることはほとんどない。細かい部分まで気にしていたら気を病んでしまう。しかし、気に病むほど神経質に教室という小さな社会を監視しない限り、教室に平和なんて訪れはしない。


 このクラスも一見、教師の手を焼かない優秀な生徒ばかりだと思われているようだが、その中に属している私に言わせると優秀なんかじゃない。いや、生徒としては優秀だろう。授業中の姿勢は積極的な者が多く、例え手は挙げなくともノートはとっている。寝ている者や私語をする者はいない。教師にとっては理想的だろう。しかし、このクラスもまたカーストがある。

 教室内のカーストなんてドラマだろう。そう思う人もいるかもしれないが、誰しも経験があるはずだ。行事の時積極的に声を上げる者、最終的に何か役割を振り当てられるのにいつまでも挙手しない者、いつも教室の隅に固まっている集団、教室内に響く声で語らう集団。

 このクラスにも目には見えない順位がある。内心カーストを嘲笑っている私も、学級という集団に属する以上自然とピラミッドを構成する欠片となっていた。


(終わった)

 右ページを淡々と埋め、黒板の上に設置された時計を見上げる。

(五時半か)

 帰宅部にとって放課後は中途半端な時間だ。遊ぶほど余裕はないが、かと言って勉強に精を出す気力も無い。部活にも委員会にも属していない者は塾やバイトで時間を潰す。私もバイトで小遣いを稼いでいるのだが、毎週火金のため今日は時間に空きができる。このまま直帰してもいいが、梅雨時の貴重な晴天だと何となく勿体ない気もする。

「……帰るか」

「帰るの?」

「っ!」

 室内に人がいないのをいいことに口に出すと、頭上から声が降ってきた。ガタンッと机を跳ねさせる。

「あ、ごめん。おどろかすつもりは無かったんだけど」

 苦情の意を込めて眉を寄せながら見上げると、艶やかな唇をニヤリと曲げた高田がいた。

「スタバ行こ」

「……いい」

「冷たー」

 床に置いていた鞄が催促するように日誌の上に置かれた。日誌は既に閉じていたが、鞄を開いたノートの上に置くことで変な型が付くことなんて気にしていないだろう。私は、このがさつな女が苦手だ。

「飲んでるだろ」

「ん~?」

 凶器になり得そうな派手な色の爪で、器用に五〇〇mlのペットボトルを手にしている。蓋を外された口には、底までつく長いストローが差し込まれていた。

 私のイメージする高田はいつもペットボトルを持っている。登校中に会っても、授業を受けている時も、昼休みでも、放課後でも、スラリと伸びた指がペットボトルを包んでいる。何故常に飲料を口にするのか。何故必ずストローを差し込んでいるのか。気にはなるが一度も聞いたことは無い。

「これは別腹。甘い物飲みに行こうよ」

「……行かな」

「天気いいし、公園とかいいんじゃない」

「…いいよ」

 貴重な晴天の下にいる動機としては最適だ。

 高田はがさつで人の都合なんて気にしないが、時たま気が合う。もっともはっきりと同意を示したことは無いため、高田は気づいていないだろうが。

 立って並ぶと十センチ以上の身長差を感じる。私自身が小柄なのもあるが、そもそも高田のスタイルはモデル並みだ。文化祭のミスコンでは声をかけられたらしいが、出場していなかった。出ていたら間違いなく優勝していたのに。

「職員室寄って行く」

「分かった」

 当然のように隣を歩いて、時には待っている。小学中学とろくに人間関係を築こうとしてこなかった私にとって、その「当たり前」はひどく新鮮で、こそばゆい。

「お待たせ」

「うん」


 スタバは駅ビルに入っているため少し歩くが、道中も高田は楽しそうに話す。それは、誰かと誰かが付き合っているとか、誰々が他校の生徒に告白されたとか、数学教師はかつらだとか、他愛もないものばかりだ。それでも、こんなに長く人と話すことは私にとって貴重な時間でもある。作り笑い一つできないが、高田の笑顔は人に移るようで頬が緩むのを感じる。

「何にする?」

 店先で立ち止まってメニューを見るが、いまいちわからない。

「……コーヒー」

「甘いの好きでしょ。×××××××がいいよ」

 つらつらと横文字を言われるが、やはりわからない。

「任せる」

「りょーかい」

 自動ドアをくぐると店員の明るい声と笑顔に迎えられる。高田に引き連れられて何度か来たことがあるが、メニュー含め未だに慣れない。

 任せた結果、高田と同じものを手にした。表面にクリームがたっぷりと載っており、見るからに甘そうだ。

「ありがとう」

「どーいたしまして。駅公にしよ」

 駅公――駅前公園は中心に噴水と点々とベンチがあるだけの、ビル群の一部が切り取られたようなシンプルな空間だ。駅前にあるため、自然と待ち合わせの場所として利用されている。

「人いないねぇ」

 平日のせいか、チラホラと歩いている人がいるだけだ。ちょうど噴水の向かいに設置されているベンチに座る。今日は一日中晴れていたため、座席は乾いていた。

「ねぇ、真守はさ」

 ぼんやりと飲んでいると、心なしかいつもより低い声で言われる。

「友達いないの?」

「………いない」

 言葉を掻き消すように、ズゴゴッと高田は下品に吸った。

(早っ。もう飲み終わったのか)

 三分の一ほど減った自分のカップと、高田のそれを見比べる。高田が手にしているのは、わずかにクリームが残った空のカップだ。ベンチの隅に置くと入れ替わりにペットボトルを手にした。今の中身は緑茶になっている。学校で見た時は炭酸飲料だった。以前、高田が自販で買ったお茶に、さっきまで紅茶に差し込んでいたストローを洗いもせずに差し込んだのを見て以来、ストローを使いまわしていることに気づいた。明らかに変な味を生み出しているだろうに、高田は味なんて気にもせずに飲んでいた。

「真守さぁ」

 すぅっと一息飲んでから、どこか気だるげに言う。

「私がいなくなったらどうする?」

「………転校するの?」

「いや、しないけど」

 ちらりと隣に目をやるが、高田はストローを咥えたままボンヤリと噴水の方を眺めている。カールされた茶髪に覆われた小さな顔は、薄化粧によって大人びて見える。

「どうもしないんじゃない」

「……そっか」

 うんうんと何度か頷くと脚を大きく上げ、振り下ろした反動で立ち上がった。

「好きだよ」

「…………」

「真守のことが好きだよ」

 ニコリと笑っているのに、まるで泣かれているような複雑な気持ちになる。私の知っている高田は、ニパリと屈託なく笑って大人っぽい雰囲気を台無しにするはずなのに。はじめて見るその姿はひどく弱々しくて、息が苦しくなった。


 高田が自殺未遂をしたと聞いたのは、職員室だった。提出するのを忘れていたノートを担当教師に渡し、軽く窘められる私の背後で、「あの高田が自殺未遂とはな」「相当環境が悪いみたいですよ」「親戚が引き取ったんだろ」「退院後転校するらしいですね」「命があってよかったよな」と他愛もない口調の会話が聞こえた。動揺を隠して職員室を出ると、真っ直ぐトイレに駆け込んだ。

「嘘だ」

 ドッドッドッと心臓が嫌な音を立てる。

「嘘だ」

 今や薄い痣と化していた手首の傷が疼いた。


 悪夢のような会話から二週間後、見慣れた顔の高田が教壇に立った。

「高田は家庭の事情で転校することになった」

 ザワリと空気が動く。このクラスでの高田はカースト上位ながらもどこか一匹狼な位置にいた。高田が欠席中目に見えて落ち込むほど仲の良い友人はおらず、会話の間で「高田休み長いよね」と名前が出る程度だ。それでも、突然の変化に生徒は戸惑う。

「急ですが、今日付けで転校することになりました。二年間、ありがとうございました」

 派手な外見に似合わない大人びた、他人行儀な口調で高田は別れを告げた。


 担任がホームルームを促しているが、生徒は口々に高田のことを言い合っている。話す相手のいない私は、高田が出ていった扉を眺めることしかできなかった。


「真守」

 ホームルームが終わり生徒がいなくなった教室で外を眺めていると、背後から声がかかった。

「………転校するじゃん」

「…そうだね」

 タハハ、と失敗を誤魔化すように笑う。化粧を台無しにするその笑顔に安心しつつも、職員室での会話を思い出す。

「自殺」

 吐息に混ざり小さな声になったが高田の耳には届いたようで、眉を寄せて笑った。

「誰から聞いたの?」

 そう言うと「天然水」と書かれたペットボトルに直に口をつける。ストローを挿さずに飲んでいるのは初めて見る気がする。

「職員室で。偶然聞いた」

「そっか」

 傍にある机に腰かけると、プラプラと足を揺らす。

「家さ、母親いないんだよね」

 足元に目を向ける姿は弱々しい。アイロンを使ったのか真っ直ぐな茶髪に指を絡ませながら、淡々と告白する。

「妹産んだ一年後に死んだんだ。そん時私小一でさ、それなりに分かるじゃん。もう会えないって。父親も最初は一生懸命でさ。あの人にとっては妻を亡くしてるんだよ。妹を保育園に預けて仕事するじゃん。帰ってきたらご飯作ってくれるし。私も自分のこととか洗濯畳んだりとかできることやってさ。それなりにやってたんだ。あの人が暴力を振るうようになったのは、小六の時。あの日のことは覚えてるよ。帰ってきたのが日付が変わる頃でさ、妹はもちろん寝てたし、私もさすがに待てなくてうたた寝してて。ふらふらに酔っぱらってたあの人は、私の顔を見ると何も言わずに殴った。横殴りだったから勢いよく吹っ飛んでさ。痛いっていうよりビックリして。黙って見下ろすあの人の眼が、怖かった。この生き物は何だろうって考えてさ。それ以来酔って帰って来た時は必ず私を殴った。ベッドで寝ていても、テレビを見ていても、勉強していても、何も言わずにただ殴った。なぜか妹には手を出さなくてさ。あの時は何で私ばかりって思ってたんだけど、やっと理由が分かったんだ」

 渇いた旅人のようにごくごくと水を飲む。ペットボトルから口を離しても、その視線は俯いたままだ。

「はじめて私を殴った日、叔母、母親の姉と話してたみたいでさ。その内容が、再婚しないのかって。祖父母に頼まれてそう言ったみたいなんだけど、あの人にはそれが「忘れてくれ」って言われたように感じたみたいで。私、叔母と顔が似てるんだ。それで、怒りが私に向いた。妹は母親に似ているから。あの人は、父は母を愛しているんだ。月命日には母が好きだったっていうラベンダーを持って行ってさ。私はその悲しみを受けていた。ただそれだけのことだったんだ。考えればわかることだったのにちっとも気づかないで、手首切って薬飲んでさ。馬鹿だよね」

「………馬鹿だ」

「でしょ」

「馬鹿だよ」

 声が震える。音量を調節できず、喉から絞り出すような、腹から出すような、変な声になる。

「何で、言わなかったの」

「………ごめん」

「馬鹿だよ」

「ごめん」

 高田に近づき、左の袖を捲る。包帯が巻かれたそこは細い。

「確実に死ねるように、手首お湯につけて、父親の睡眠薬くすねて飲んで。眠くなるかと思ったら気持ち悪くなるだけでさ。まさか妹が午前で帰ってくるとは思ってなくてさ。あの子父親譲りで冷静なんだよね。救急車呼んで、応急処置までしてさ。飛び降りた方が確実だったのにね」

「……死にたくなかったんだろ」

「…うん」

 久しぶりに、目が合った。髪と同じ茶色い瞳は潤んでいる。

「ごめん」

 ポロリと、滴が落ちる。

「ごめんなさい」

 小さな子供のように泣きじゃくる高田を、黙って抱きしめた。


 高田と父親の間にできた壁は、簡単に埋まるものではない。独り身だという叔母の元で、高田は残りの学生生活を送ることになった。妹も一緒に行くらしい。

「父自身一度一人になることを望んでいるから」

 今日の午後に高田はこの地を離れる。彼女が新しい生活を送る場所はここから電車で五、六時間かかる。見送りに行くつもりでいたが、ほとんど使っていないスマホで「会いたい」と呼び出された。場所は、駅前の噴水のある公園。

「距離を置くって言っても、会えないわけじゃないし」

 その手には小さな鞄だけが握られている。「ずったと喉乾いてたけど、もう、飲まなくても平気なんだ」と高田は笑っていた。

「遠くなるな」

「テレビ電話だってあるよ」

「直接会えない」

「………そうだね」

 ふふっと笑う姿は、飾られていない素の高田だ。あの大人びた化粧も今は無い。

「私、真守のこと好きだよ」

「……うん」

「真守は、私のこと好き?」

「………好きだよ」

「ね、電話してね」

 約束だよ、と立てた小指を差し出す。爪の先まで綺麗なその指に自分のそれを絡ませた。

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ペットボトル ヤクモ @yakumo0512

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