第4章 2015年 7月27日 ~ 8月1日
第13話 夏の途中と思い出の場所①
7月27日。月曜日
俺はまた、学校まで続く坂道を歩いていた。
先週までは自転車通学だったが、この時代の俺は歩いて学校に行くというのが身についているのか、自転車に乗ることすら忘れてしまって、戻って取りに行くのも面倒だったのでそのまま徒歩での通学を選んだ。
昨日はほとんど眠れなかったため、重い瞼を擦りながらの登校になってしまった。
それでも、夏の暑さが容赦なく俺を襲ってきて、身体から大量の汗が流れてきて気持ち悪い。
あれから、翠からは何も連絡がない。そのことに罪悪感を覚えると同時に、昨日翠から話されたことが頭の中で何度も繰り返されて、とても穏やかに眠れるような心情ではなかった。
俺の知らなかった、紗季先輩の一面。
そして、俺が知っている紗季先輩は、この夏、いなくなってしまう。
昨日の話と、俺が直面した現実が、少しずつリンクしていく。
先輩が、夜の街を徘徊しているという、そんな噂を信じるのならば……。
もしかして、紗季先輩は何か事件に巻き込まれてしまったのではないか?
だから、この町に帰ってこなかったのではないか?
――だとしたら、俺ができることは……。
「やあ、
後ろから、聞き覚えのある声が聞こえた。
反射的に振り返ると、そこにはいつものように含みのある笑みを浮かべた紗季先輩がいた。
学校から指定されたカッターシャツにスカート姿。長く伸びる足は黒のニーハイソックスに隠れているものの、そのすらりとしたフォルムは鮮明と浮き出していた。
何より、こんなに暑いというのに、先輩は汗一つかいてなくて、涼しい顔をしていた。
「よかった。今日は遅くなってしまったから、きみを待たせてしまうことになるかと思ったよ」
そう言った先輩は、本当にほっとしたような、そんな表情を見せる。
「……ん、どうしたんだい?」
「えっ? どうしたって、何がですか?」
すると、紗季先輩は少し困ったような顔をして、俺に言った。
「いや、少しいつもの慎太郎くんと違うような気がしてね。なんだか元気がないようにみえたんだけど、私の気のせいだろうか?」
そう言って、先輩は一歩だけ俺に距離をつめてくる。
手を伸ばせば、先輩の身体に触れることができるその距離に、自然と脈があがってしまう。
俺は、先輩が近づいてきた距離の半歩分だけ下がって、慌てて口を開く。
「いや……昨日、なかなか寝付けなくって……それで、寝不足というか……」
「ふむ、そうか。確かに、昨日も夜は暑かったからね」
俺の言い訳に納得したのか、紗季先輩はまた、柔らかい笑みをつくる。
「それでは慎太郎くん、今日はあまり無理せず私に甘えてくれたまえ。きみの先輩らしいところをみせようじゃないか」
先輩は、胸に手を当ててそう宣言した後、どこか上機嫌で俺の横に並ぶ。
「では、今日は一緒に行こうか、慎太郎くん」
少しだけ風が吹いて、先輩の黒髪が揺れると優しく心地よい香りが俺の鼻腔をくすぐった。
しかし、先輩はそんな俺を置いていき、先に歩き出す。
俺は、先輩から離れないように、同じ歩幅で歩きだした。
並んで歩く先輩の姿を、俺は横目で確認する。
俺より少し小さい先輩の姿に、どこか頼りなさを感じてしまう。
――もし、先輩が事件に巻き込まれてしまった場合、彼女に抵抗する力はあるだろうか?
――多分だけど、俺でも先輩のことを簡単に抑え込んでしまえる。
――そんな状況に、先輩が追い込まれてしまったのだとしたら……。
「慎太郎くん?」
だが、俺の視線に気づいたのか、先輩も横を向いて俺に問いかけてきた。
「なんだい? 今日の慎太郎くんはやけに私のことが気になるみたいだね?」
ふふっ、顎に手を乗せて、どこか挑発的な視線を俺に向ける先輩。
その言い方では、まるで俺がまじまじと先輩を見ているようで……いや、実際にそうだったのだが、とにかく、俺が破廉恥な行為をしているように思われるのは非常にまずいので、言い訳を取り繕うように早口で喋りだしてしまう。
「いや、先輩は昨日、どうだったのかな、って思って」
「昨日……。ああ、兄さんのことかい?」
別に、そういう意図で言った質問ではなかったのか、先輩はそう受け取ったようで、話を続けた。
「そうだね。兄さんは私たち家族と会えて嬉しそうだったよ。二人の両親にとっては、兄さんは自慢の子供だからね」
先輩がそう言ったので、俺はまた自然と「仲がいいんですね」と、口に出してしまいそうになって、慌てて止めた。
何故なら、一昨日、同じ言葉を言って、先輩が複雑な表情を浮かべたからだ。
「兄さんは、私とは違うからね……」
そう呟く先輩の声は、とても冷淡なものだった。
だから、というわけじゃないが、俺は自然と紗季先輩に向けて、こう告げていた。
「先輩は、先輩ですよ」
その言葉を聞いて、紗季先輩は俺のほうを向いて、首を傾げた。
「先輩は……俺の先輩です。だから、えっと……」
一体、自分が何を話したいのか分からなくなってしまい、困惑する。
ただ、伝えたい気持ちはあるはずなのに、それを言葉にできなかった。
「……そうか」
だが、先輩はそんな俺に対して、優しく、そして嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
そして、そのたった一言が、俺が先輩に伝えたい感情だと気づかされた。
今日もまた、何気ない一日が始まる。
それが、俺がずっと守りたかったものだった。
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