262話 田植え 1
「にしても、かいと君か? 聞いた事のない名前だな」
「ぁ、えっと……」
「次郎さん、あまり子供を困らせる事を言ってはいけませんよ」
「ああ、すまんな。俺は次郎で、あっちは妻の沙代さよだ」
次郎さんは視線で沙代さんを示して紹介した。彼女へ目を向けるとにこりとした笑顔で挨拶されたので、こちらも挨拶を返す。
「それで、かいともここの手伝いしていい?」
会話の切れ目を伺っていたこたつちゃんが2人に尋ねる。
「ああ、勿論だよ」
「そうね、手は増えた方が良いに決まっているわ」
2人は快く了承を出してくれた。ほっと胸を撫で下ろす。
「そういえば、こちらのお返しはこたつちゃんと同じで良いんだろ?」
「かいと、それで良い?」
「え、あっはい」
気が抜けているところに突然質問され、勢いで返事をしてしまった。
お返し……ってなんだろう? こたつちゃんと同じもの?
いまいちよく分からないが、彼女と同じものならば問題はないだろう。
そして、次郎さんに手招きされ田んぼの手伝いが始まった。
「よし、それじゃあ今から2人には俺達と一緒に“田植え”をしてもらう。こたつちゃんは何日か前からやっているが……かいと君、経験は?」
「……ごめんなさい、やったことないです」
田んぼの手伝いとは“田植え”らしい。目の前には水が貼ってある田んぼがあった。その周辺には稲が植えてある田んぼと植えていない田んぼがいくつか見受けられる。
着ている服は変わりないが、細い帯で裾や袖を捲り上げるように結んでもらった。多分泥にその部分が付かないようにだろう。
それと、予備に置いておいた傘も貸してもらった。藁で編んだもので紐を顎にかけて頭の上に固定している。
日差しがそれで遮られて、それだけでもだいぶ涼しい。
「よし、分かった。それじゃあこたつちゃんは沙代と……いや、こたつちゃんがかいと君に教えてみるか?」
「良いの?」
「君は筋がいいからな。問題はないと思うぞ」
「分かった。やってみる」
彼女がそう返事をすると、次郎さんと沙代さんは先に田んぼへ入って行った。そして腰かがめて稲を植え始めている。
「かいと、稲の植え方教える」
「あ……う、うん。よろしくね」
彼女はそう言うと、次郎さん達が植えた稲の横に足を踏み入れた。そして腰にぶら下げた稲のの束を見せつける。
「これが稲の苗。まず、これから左手に少し取る」
そう言うと、彼女は腰の束から稲を持てる分だけちぎり取った。
「それで、この中から2、3本くらい取って植える」
左手の束からさらに苗を数本ちぎり取る。そして根元を持って泥の中へ手を突っ込んだ。
手を引き抜くと、泥の中に苗が綺麗に立っていた。
「こうやって植える。間隔とかは隣を見ればいい。後はまっすぐに植える事」
「う、うん。分かった」
先程腰に取り付けてもらった苗の束を一瞥して返事をする。
「それじゃあ、こっち来て」
「う、うん」
「泥は足を取られるから、注意がいる」
彼女の足は膝下まで泥に沈んでいる。森で暮らしていたときに湖の泥に足を入れた事はあるが、深さはせいぜいくるぶしくらいだった。
こたつちゃんと と俺はだいたい同じくらいの背丈だから、もしかしたらあれくらい沈んでしまうかも……。
「……」
唇を噛み締め意を決し、泥へ足を伸ばす。足の裏にひんやりと冷たいものが当たった。
そのまま伸ばした足へ体重を移す。
「……っ、ひゃぁあ!?」
泥がにゅるりと足の指の間を通る感覚がなんとも言えないくすぐったさで、思わず情けない声をあげてしまう。
「……」
「……面白い声」
こたつちゃんはこちらをじっと見たまま呟いた。それを聞いて恥ずかしくなってくる。
体重を乗せた足はそのままズブズブと泥の中へ沈んでいき、彼女と同じく膝下まで沈んだ。
「……」
「反対の足も」
「ぅ……うん……」
彼女はそれ以上反応を見せることもなく、早く田んぼへ入るよう催促してくる。言われるがままに反対の足も泥へ伸ばした。
「……っっ」
今度は声を抑えられた。しかし、やはりくすぐったい。
「はじめは変な感じがする。でも、慣れれば冷たくて気持ち良くなる」
「うん……わ、わかった」
彼女はその言葉の通り、泥の感触はものともしていない。すっかり慣れているのだろう。
「やり方はさっき言った通り」
「わ、わかった」
よし……まだ少しくすぐったいけど慣れてきた気がする。
今立っているのは田んぼの端っこだ。まずは彼女の隣まで移動しないといけない。
歩き出すために体重を前へ移動させ、足を泥から引き抜く……はずだったのだが。
「あ、あれ!?」
泥に埋まった足を引き抜くことができず、想像以上に引き抜くのに力が要る事に今気がついた。
「わっと……あ!」
しかし、時すでに遅く体は前のめりに泥へ向かう。
バシャンと音を立てて思いっきり転んでしまった。とっさに前へ突き出した両手が肘まで泥へ沈む。
そのせいで勢いを殺せず、胸あたりまで泥まみれだ。
「ぶ……ぶええ……」
激しく跳ねた泥が顔中に飛び散る。口の中にじんわりと土の味が広がった。
涙目で口の中の泥を吐き出す。そのときにこちらを見下ろすこたつちゃんが視界に入った。
「ぅ……うぅ……ご、ごめん……」
「ん、大丈夫。私も初めての時は転んだ」
「そ、そうなんだ……」
その声はなんだか少し嬉しそうに聞こえた。
なんとか起きあがろうと、泥の中でもがく。腕は足に比べれば割と簡単に引き抜くことができた。
その時に遠くの方から笑い声が聞こえてきた。
「はっはっは、派手に転んだみたいだな!」
目を向けると、次郎さんが腰に手を当ててこちらを見ている。すでに一列目を終え、稲を植えながらこっちへ向かっている最中だった。
「起き上がれないようなら、こたつちゃんに手を貸してもらいなさい」
「あと、先に近くの小川で服と体についた泥を落としてきた方がいいわよ」
遠くから大きな声でアドバイスを聞くと、こたつちゃんがこちらへ歩いてきて手を差し出してくれた。
その手を握り、やっと起き上がることができた。
体中泥だらけ。彼女によると顔の右半分くらいが泥で真っ黒らしい。
「そっち、小川がある。一緒に行こ」
「あ、ありがとう……」
「ん」
掴んだ彼女の手に頼り、バランスを保つ。泥の中で歩くコツを聞いたところ、引き抜くときに足首を伸ばせば良いと言われ実践してみたら割と簡単に抜けた。
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