第62話 観覧車はとまらない

 それから俺たちは、いろんな場所を二人で巡った。


 お化け屋敷では、吉良坂さんがまたむぎゅって腕にしがみついて離れてくれなかったし、昼食時に遊園地内のイタリアンのお店に入ったときは、また「あーん」を強要された。


 昼からはアトラクションを全制覇する勢いで回っていたが、それは叶うことなく日が沈み始める。


「すごい。……綺麗」


 眼下に広がる夕焼け色に染まった建物たちを見ながら、吉良坂さんがつぶやく。


 俺たちは、いま観覧車に乗っている。


 手を恋人つなぎにしたまま、隣同士で座って。


「ほんとだな」


 それ以上の言葉はいらなかった。


 燃えるような空と、濃い紫色に染まる雲、吉良坂さんと二人きりの空間。


 小さくなっていく建物や歩く人々、車なんかを見下ろしていると、まるで現実世界とは違う空想の世界に紛れ込んでいくような不思議な感覚に陥った。


 そのノスタルジックな旅行に一緒に行っているのが吉良坂さんだという幸せを存分に噛みしめる。


 夕日に照らされている彼女がすぐ近くにいて、一緒の空気を吸っている。


 なにもかもが少し緩くなる黄昏時という時間のせいか、彼女の姿が一瞬だけ透明になったように見えた。


 彼女が、決して手が届くことはない神秘的な寂しさを纏っているように見えて、これを逃すと彼女が光の粒子にでもなって消えていくような気がして、気がつけば、俺は吉良坂さんのことを後ろから抱きしめていた。


「み、宮田下くん?」


 突然のことでびっくりしたのか、吉良坂さんは身体を硬直させた。


「すまん、俺は」


 俺がさらにぎゅっとすると、「ありがとう」と胸の前にある俺の腕に愛おしそうに手を添えた。


「はじめて、だよね」


 なに対してはじめてと言ったのか、俺は聞かなかった。


 悲しすぎる響きだと思ってしまったから。


 抱きしめたいという衝動にかられたときにすぐ抱きしめてしまえる。


 その距離感でい続けたい。


 こうして彼女のことを抱きしめているからこそ、この抱擁を解いたとたんに、彼女が消えてしまうんじゃないかと、不安で不安でたまらなかった。


 観覧車が頂上へ向かっていく。


 俺たちは、この暖かくて尊く儚い時間を二人で分かち合い続けた。


「俺は、また一緒に来たい」


 頂上に達するほんの少し前に、俺はようやく伝えられた。


 吉良坂さんは俺の腕に添えていた手にぎゅっと力を入れてから、がばっと立ち上がり、俺の腕の中から出て行った。


「だけど、もう頂上だよ」


 振り返った吉良坂さんの笑った顔は一生忘れないと思う。


 俺は今後、これ以上の幸せを手に入れられるのだろうか。


 頂上に来てしまった観覧車は、その場所で止まってくれない。


「あとはもう、下りてくだけだね」


 対面に座りなおした吉良坂さんが、窓の外を眺め始める。


 その横顔は恐ろしいほどに綺麗だった。


 その横顔にいろんなものをはぐらかされた気がした。


 遅れたけど連絡先を交換しようとか、次はいつここにこようとか、吉良坂さんの手料理をまた食べたいとか、言いたいことは山ほどあったのに、やりたいことも山ほどあったのに、そういう将来の希望を全部はぐらかされてしまった。


 俺の腕を出て言った瞬間から、これまでの全てもこれからの全ても、いま二人きりでいるこの瞬間でさえも明確に否定された気がする。


「楽しかったなぁ。今日は、ほんとに」


 観覧車は容赦なく下っていく。


 建物や人や車が正規の大きさをどんどん取り戻していく。


 異世界への旅行が終わってしまえば、後はノスタルジーしか残らない。


 さっきまで抱きしめていた吉良坂さんの感触が、温度が、ゆっくり、ゆっくりと俺の中から消えていく。


「宮田下くん。話しかけてくれて、ありがとう」


 地上に戻った観覧車から、吉良坂さんの方が先に下りた。


「私、すっごく嬉しかった。今日を、これまでを、一生忘れないってこと、きちんと伝えておくね」


 俺がなにかを言う前に吉良坂さんは歩き始める。


 振り返らずに、一直線に遊園地の出口へ向かっている。


 外へ出ると遊園地という非現実の魔法からも溶けてしまうんだぞ!


 なにかを伝えたくて必死で彼女の背中を追いかけているのに、なにも言えない。追いつきかけたと思ったら、観覧車で対面に座られたときのあの横顔がちらついて、自分からまた距離を取ってしまう。


 観覧車が頂上に達したとき、吉良坂さんは俺なんかじゃ計り知れないほどの葛藤を重ねて決断を下したのだ。


 それがおじい様が決めた相手との結婚を受け入れることなのか、それとも別のことなのか、正確にはわからない。


 だけどその決断を、彼女の夢をかなえてあげられない俺は尊重しなければいけない気がした。


 軽く前後に揺れている彼女の手は、手を伸ばせば届く距離にあるのにものすごく遠い。


 まるで、叶えたい夢みたいだ。


 結局、俺はそうなんだ。


 彼女のことを幸せにできない俺なんかが、彼女の望みを叶えてあげられない俺なんかが彼女の決めた覚悟をぞんざいに扱っていいわけがない。


 遊園地の出口が見えてきた。


 本当に夢が、人生最後の幸せが終わってしまう。


 嫌だけど、俺はなにもできない。


 吉良坂さんが俺のもとから滑り落ちていくのを、黙って見守っているしかない。


 吉良坂さんの体温を失う覚悟を決めるしかない。


「宮田下、くん」


 出口まであと五メートルというところで吉良坂さんが立ち止まった。


 そのままぶつかって、押し倒してしまえばいいのに、俺も慌てて立ち止まる。


「やっぱり最後に、ひとつだけ、いいですか?」


 ゆっくりと振り返る吉良坂さん。


 俺たちは見つめ合いながら、これが最後になるとどこかでわかっていた。


 路面に落ちた二つの影は、名残惜しそうに遊園地の内部へ向けて伸びている。


「あなたのことをぎゅってしても、いいですか?」

「俺は吉良坂さんの言うことはなんでも受け入れる男だ。忘れたのか?」


 吉良坂さんの最大の望みを受け入れられなかったくせに、どの口が言ってんだか。


「俺は君のために死ぬことだってできるさ」


 だからせめて最大限の軽口を、最大限楽しそうに笑いながら口にした。


「映画みたいなセリフ、嬉しいです」


 でも死んでほしくはないですけどね、と吉良坂さんが恥ずかしそうに笑う。俺たちの隣を二人の子供を連れた家族ずれが通り過ぎて、遊園地から出て行った。その家族は、遊園地を出ても変わらずに笑っている。


「じ、じゃあその、しますね」

「いつまででも、していいよ」


 路面に落ちた二つの影が互いに一歩ずつ前に進み、ゆっくりと重なってひとつになった。

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