俺と彼女の、未来をかけた戦い

第56話 変わりやすいもの

 あれから二週間たった。


 吉良坂さんは一度も学校に来ておらず、転校するらしいという噂まで流れ始めた。


 梨本さんも一度も見かけていない。


 梨本さんのクラスの人に話を聞くと、彼女も学校を休み続けているという。


 吉良坂さんと、梨本さん。


 二人とかかわらない日が続くと、あの忙しなかった日々が全部夢だったんじゃないかという気さえしてくる。理科準備室に向かわない放課後にも慣れつつある現状も、それに拍車をかけている。


 本当に、慣れというものは便利で、本当に悲しい。


 こうやって時間だけが流れて、いつの日か、吉良坂さんとのエッチでどきどきなかけがえのない日々のことを思い出さなくなるのだろうか。


 子供を産まなくても関係ないよっていう人と出会って、吉良坂さんのことを忘れて結婚するのだろうか。


 こうやって感傷に浸ることすら面倒になって、社会人になって仕事に精を出すようになるのだろうか。


 あ、精子がない俺が精を出せるわけないか。


 なんにも面白くない学校の授業を終え、下駄箱に向かう。開けてみても、その中には俺が通学に使っている靴があるだけ。


「……これが俺の本来の青春だよ」


 独り言ちながら靴を履き替える。昇降口を出て見上げた空は、どんよりとした灰色。いまにも雨が降りそうだ。傘持ってきてないし、早く帰ろう。


 そんなことを思いながらとぼとぼ校門へ向かっていたときだった。


「あ、れは」


 校門に立つ女性を、俺と同じように帰宅しようとしている学生たちが奇異の目で見ている。


 そりゃそうだ。


 だってメイドが立っているのだから。


「草飼、さん?」

「お待ちしておりました。宮田下様」


 草飼さんは、丁寧にお辞儀をする。


「俺を? いまさら?」

「はい。今日は帆乃様からのご伝言を預かってまいりました」

「預かっ……吉良坂さんから?」


 思わず声が上ずる。いったいなんの用だろう。恨み節でも届けに来たか。


「はい。これは命令で、宮田下様に断る権利はないと、おっしゃっておりました」


 命令。断る権利はない。


 その言葉に懐かしさを感じてしまうなんて、喜んでしまうなんて、俺はいよいよやばい人間になってしまったのかもしれない。


「で、その命令は?」

「今週の日曜日。午前十時。駅前に来てください、とのことです」

「え?」

「要するに待ち合わせです。詳しくうかがっていないので、真意はわかりかねますが」

「そう、ですか」


 吉良坂さんの考えがわからない。本当にいまさらだ。しかも駅前で待ち合わせって……。


「でもそれは、吉良坂さんの命令なんですよね?」

「はい。帆乃様の命令です。もし背いたら、あなたの身体を私がいないと生きられない身体に変えます。……あ、それだとご褒美になってしまいますか?」


 草飼さんはピクリとも表情を動かさず、そんな冗談を口にした。笑えなかったけどね。


「わかりました。……必ず行きます」


 命令とあれば、俺は向かうしかない。


「そうですか。せっかく若い男の身体を愉しめるチャンスだと思ったのですが、残念です」


 どうして残念ですって口にしたのに、口元がほんのわずかだけど緩んだのかな?


「では私はこれで」


 一礼した吉良坂さんは、近くに止めていた車に向かって歩き出す。


「あの! 草飼さんは、吉良坂さんから聞きましたか?」


 俺が呼び止めると草飼さんは振り返り、眉間に少しだけしわを寄せた。


「それを聞いて、宮田下様はどうしたいのですか?」

「いや、それは……」


 たしかにそうだ。


 俺はこんなことを聞いて、草飼さんになにを求めているのだろう。


「私に励ましてもらいたいのですが? でしたら、特別にメイドとしてご奉仕してあげてもいいですよ? 帆乃様が技術不足でできないことも私ならできますからね――宮田下様がそもそもできないんでしたね。これは失礼いたしました。エッチができない男の身体に私は興味などありませんのでご遠慮させていただきます」


 ははは。そう、ですよねぇ。


 はっきり言うなぁこの人は。


 まあ、それでこそ草飼さんということなのだろうけど。


「ですが、一言余分に申し上げるとするならば」


 草飼さんは俺の目をまっすぐ見た。


「あくまでこれは私の意見でしかありません、ということです」


 よく意味がわからなかったので、目でどういうことですかと尋ねる。


 すると、草飼さんは灰色の空を見上げた。


「過去はいくらでも変えられる、ということですよ」

「だから、どういうことですか?」

「落ち込んでいるときに過去の日々に名前をつけようとすると、いいことなんてないということです」


 草飼さんは昔を懐かしむようにゆっくりと目を細める。


 彼女がなにを思い出しているのか、俺にわかるはずもない。


「自分が幸せになるまで待って、それから名前をつければいいんです。下積みだとか、準備期間だとか、あのときの出会いは、あのときの喧嘩は、あのときのすれ違いは、あのときの何気ない会話は、二人の運命だったんだ、とか」


 そんなことを言われても、俺たちはそもそも相容れないから幸せになれない。


「私から言わせれば、過去ほど変わりやすいものはないと思うのです」

「一言余分に申し上げるとするならば、その二人、っていったい誰と誰のことを言ってるんですかね?」

「私は帆乃様に仕えるメイドです」


 では、日曜日は期待していますよ。


 そう言い残して、草飼さんは車に乗り込んだ。


 すぐに車は進み始める。


 交差点で右折したその車が見えなくなっても、俺はずっと動けなかった。


 日曜日。


 吉良坂さんと会う。


 そのとき、俺はどうするのか。


「過去は変わるのかもしれないけど……」


 産まれながらに与えられた境遇は絶対に変わらない。

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