第13章「東へ、地へ、天へ」

1.時は満ちて


 籠雲の葬儀が、創雲郷の僧らしくひっそりと行われてから、ひとつだけ季節が過ぎ、この国全土が雨期を迎えようとしていた。


 霊峰の頂付近で降った雨は、狂ったように大河を流れ、郷の麓の村を一つ、跡形もなく押し流してしまった。



「恐ろしい勢いで水かさが増しているな」


 宮殿最奥、祭壇の間のテラスから竜翔が下を見おろしている。

 ぱっくり口を開けた断崖のその下。

 遥か下方の大河であるにもかかわらず、人の目にこれと言ってわかるほどの増水だ。 


「この雨はやがてこちらへ降りてくる」


 竜翔の隣で、ポツンと鈴瑠が言った。


「鈴瑠?」

「…竜翔、今のが天意。僕の意識の外から、語りかけられてくる…」

「そう、か。…では…」


 竜翔は不安を殺すように、鈴瑠をしっかりと抱きしめた。


「うん。翔凛に話をするときが来たみたい…」


 鈴瑠もまた、不安を殺そうと、竜翔の広い胸に顔を埋めた。





「霊峰の向こうは真っ暗だね」


 書物から顔を上げ、翔凛はテラスの外を見てポツッとそう言った。

 ここは『若宮』の居室から続き間になった小部屋。

 そこで翔凛は鈴瑠からこの国の地理を学んでいた。


 竜翔は麓の村へ、増水による被害の視察に出掛けている。 


「翔凛様。私が以前申し上げたことを覚えてらっしゃいますか?」


 鈴瑠もまた手を止めて、テラスの外を見る。


「災いの星を見たときのことだね」

「そうです」


 翔凛は、何かを感じ取り、手にしていた筆を置いた。


「鈴瑠の言うことなら、僕は何でも信じられる」


 そう言った翔凛の、力のこもった瞳を見て、鈴瑠は重い口を開いた。 


「霊峰の向こう、あの黒い雲はやがてこちらへまいります。そして、雨を降らせ、すべてを流します」


「…りんりゅ…」


 何でも信じられると言ったものの、その口から淡々と紡がれる言葉に、翔凛は声を失う。

 しかし、そんな様子の翔凛に気付きながらも、鈴瑠はかまわずに同じ口調で続けた。


「この災いは、やがてこの国全土に及びます。そして、その始まりの地は、ここ、なのです」


 鈴瑠は翔凛の開かれた双眸を真っ直ぐに見つめた。


「人は、すべてを失うでしょう。この国とその周辺は…」


 開かれた書物の頁には、この国を中心とした世界観が描かれている。


「この地から消えてなくなります」


「う…そ」


 翔凛が漸く言葉を発した。


「翔凛様、最初のお言葉をお忘れですか?」



『鈴瑠の言うことなら、僕は何でも信じられる』


 自分の言葉を反芻し、翔凛は慌てて首を振った。


「忘れてなんかいない! ただ…」

「ただ?」


 翔凛は諦めたように肩を落とした。


「びっくりしただけ…」


 その様子に、鈴瑠が翔凛をギュッと抱きしめる。


「そうですね、誰でもこんな事をいきなり聞かされたのでは驚きます」

「でも、でもっ…どうして鈴瑠にその事がわかるの?」


 見上げてきた翔凛に、鈴瑠は優しく微笑んだ。


「それは、私が天から遣わされた者だからです」

「え?」


 そう言って疑問符を浮かべたときには、すでに翔凛の身体は鈴瑠に抱かれたまま浮き上がっていた。


「わっ! 鈴瑠!」

「大丈夫、これ以上は飛びませんから、落ち着いて」


 ほんの少し、宙を漂ってから、鈴瑠はまた静かに床に降りた。


「鈴瑠は…天空様のお使い…なんだ…」

「そうです」


 降ろされた翔凛は鈴瑠の袖口を掴み、真摯な瞳で尋ねてきた。


「では、天空様が、この地を滅ぼされるの?」


 鈴瑠は静かに首を振った。


「そうではありません。この地がやがて形を変えてしまうのは、この空と大地のことわり。それは誰の意志でもなく、人が輪廻をするように、空と大地も生まれ変わっていくのです。そして、たまたまその時期に、私たちは生きた。それだけなのです」


「では天空様はなぜ助けて下さらないの?」


「その天空様の助けの御手こそ、翔凛様、あなたなのです」


「僕?」


「永く続いたこの地の営み。人が生まれて死んでいく。その悲しみ、怒り、喜び、笑い…。たくさんの人の想いと受け継がれてきた浄い精神を、あなたに託されたのです」


 翔凛はまた、瞳を大きく開いて鈴瑠を見つめた。


「僕に…?」


「そうです。あなたは采雲たちと共にこの地を逃れ、もっとも災いから遠い、東へ向かうのです」


「僕たちだけ…?」


 鈴瑠は頷いた。


「どうして? どうして僕たちだけなの? 鈴瑠は?父上は?泊双は? 宮や郷のみんなはっ?」


 声を荒げる翔凛の肩を優しくさすり、鈴瑠は諭すように言葉を紡いだ。


「一度にたくさんの者が動いてはいけないのです。身に危険を感じた者たちが大勢で動くとどうなるか…。おわかりですね?」


 翔凛は素直に頷いた。


「まず、あなた達が先に、安全な地を目指し、ここを出ます。そして少しずつ、僧や麓の里人を逃しましょう」


「鈴瑠や父上も大丈夫?」


「大丈夫ですよ。ただ、本宮様にはこの郷、麓の里や村の統治という大変な責任があおりですから、先に逃れるわけにはいかないのです。それも、おわかりですね」


 翔凛はまた、頷いた。 


「翔凛様は、ここに残られる本宮様の代わりを立派に努めねばなりません」


「父上の代わり?」


「そうです。この郷や麓からはたくさんの人々が東方へ逃れます。あなたはその時、それらの人々の中心であらねばなりません」


「僕が…? 都の天子様はどうなるの?」


「天空さまがお選びになったのはこの創雲郷。都は大きすぎるのです。恐らく都の避難は叶いません。そして、天子様と第一の皇子様は、民と共に都に留まられるでしょう。けれど、第二の皇子様はもうすでに東方へ向かっておられます」


「第二の皇子様…? 漣基様のことだね」


 幼い頃、生誕祭にわざわざ足を運んでくれたという漣基。

 その時に贈られた翡翠の飾り玉は、今も翔凛の守り刀を飾っている。



「そうです。漣基様といつか巡り会う日まで、創雲郷とその麓の里から流れ出る民は、あなたが守らねばなりません」


 口にする厳しい現実とは裏腹に、鈴瑠の瞳は優しく微笑んでいる。


「僕に…そんなことが出来る?」


「私は、あなたをそのようにお育てしてまいりました」


 鈴瑠は翔凛の頬をそっと撫で、ぎゅっと抱きしめた。


「私を…信じて下さい」


 耳に優しく埋め込まれる鈴瑠の言葉に、翔凛は深く頷いた。


「僕…がんばるよ」


 その答えに、鈴瑠は微笑みで応えた。







『明日、翔凛を逃します』


 そう鈴瑠から告げられたのは今朝のこと。

 竜翔は祭壇の間で翔凛と向き合っていた。


「二度と会うことはかなわぬかも知れぬ」

「はい」

「民を守るのは容易ではない」

「はい」

「恐らく、辛いことのみの日々が続くであろう」

「はい」

「それでも、お前は創雲郷の若宮、翔凛である」

「はい」

「誇りを持って、生きて行きなさい」

「はい」


 そう言って、父は息子を抱きしめた。


「漣基に出会うことが叶ったら、伝えてくれないか」


 翔凛が顔を上げる。


「私たちは、幸せだった…と」

「私たち…?」

「そう言えば、わかる」


 そう言った父の顔は、本当に幸せそうに輝いている。


「父上…」

「なんだ?」

「お願いがあります」

「珍しいな」


 父は息子の頭を愛おしそうに撫でた。


「鈴瑠から…絶対に離れないで下さい」

「…翔凛…?」

「鈴瑠はきっと、最後の時に父上を逃そうとします。僕にはわかるんです」


 息子はギュッとしがみついてきた。


「だから、鈴瑠を絶対一人にしないで。逃れるときは、必ず鈴瑠を…っ」


「…わかった。約束しよう。絶対に鈴瑠を離さない」


「ありがとうございます…父上…」






「采雲。くれぐれも…」

「お任せ下さい、鈴瑠様」

「栄雲、光雲も気をつけて」

「はい。鈴瑠様もご無事で」

「必ずまた逢えると信じています」



 重厚な旅支度の僧たちが翔凛を囲むようにたつ。

 そして、翔凛が生まれたときから側仕えをしてきた信頼できる武官が三人。 


「芳英、翔凛様を頼みます」

「命に替えましても」


 早朝の創雲郷大門。

 滅多に開かぬ門を開け、若宮と六人の従者が旅立とうとしていた。


 見送るのは鈴瑠ただ一人。

 竜翔は『別れは昨日済ませた』と言って出てこなかった。

 おそらく今頃は、執務室のテラスからこちらの方向を見ているのだろう。



「鈴瑠、目を閉じて」

「こう…でございますか?」


 そう言いながら、鈴瑠は少し屈んだ。

 そして、その唇に触れる温かく柔らかい感触。

 やがて目を開けた鈴瑠に、翔凛は大人びた微笑みを見せて言った。


「鈴瑠。たくさんのこと、ありがとう」

「翔凛様」

「いっぱい教えてくれて、いっぱい叱ってくれて…」

「しょうり…ん…」

「いっぱい愛してくれて、ありがとう」 

「しょう…」



 絶対に泣くまいと誓ったのに……。

 鈴瑠は翔凛の身体をきつく抱きしめて耐えた。



「鈴瑠様、そろそろ朝霧が晴れます」


 采雲の言葉に、鈴瑠は漸く顔を上げた。 


「翔凛様…。あなたは天意を受けて、この地に永く息づいてきた尊い精神を後に伝えるために生きていくのです。どんな時にも頭を上げて、前を向いて、誇りを持って生きて行きなさい。天空様が、あなたを守られます」


「はい」


 握りあった手が離れ、翔凛は歩み出す。

 山道を下りはじめ、一度だけ、振り返った。



(さようなら、鈴瑠。僕の大好きだった人…)



 鈴瑠はその姿が見えなくなるまで、大門に立ち尽くしていた。


 天の子と魂を結んだ竜翔を父に持ち、天の子と心を通わせた芙蓉を母に持つ翔凛。


 その存在がすでに『天意』であった。




2.所有の刻印



 翔凛を東方へ向けて逃がして後、鈴瑠と竜翔は静かに行動した。

 まず、創雲郷の僧たちをいくつかに分け、少しずつ里へ下ろす。

 そして、里人の混乱を招かぬよう、里ぐるみで誘導し、東方への移動を開始した。


 二人にとって幸いだったのは、僧たちが何よりも冷静に立ち振る舞ってくれたことである。

 そして、今創雲郷に残るのは、創雲寺の大座主と、それに付き従い、離れることを拒んだ数人の僧。

 本宮では竜翔と鈴瑠、泊双と僅かの武官のみとなった。



 そして、その頃にはすでに、創雲郷を真っ黒な雨雲が包み込んでいた。

 人の話し声すら聞き取れぬほどの豪雨が何日も続き、山や崖は水を含んで肥大し、耐えられなくなったところから綻び始めた。



「竜翔、表宮殿に残った武官たちは…」

「最後まで本宮を守ると言ってきかない」


 彼らの言う『本宮』とは、宮殿のことではなく、竜翔本人であることに間違いはない。


「竜翔が残っているからだね…」


 ポツッと漏らした鈴瑠の呟きは、激しい雨音に紛れても、竜翔の耳に届いた。


「鈴瑠…それは…」

「竜翔。泊双と一緒に、郷を出て」


 そう言うであろうことは、容易に想像がついた。

 翔凛にさえ見破られているのだから。


「お前が共に行くというのならば」


 竜翔は落ち着き払った物言いで返してくる。

 鈴瑠もまた、竜翔がそう言うであろうことは容易に想像をしていた。

 竜翔は自分を残して去ることなどできはしないと。


 だが…。


「僕も…僕も行くっ! 必ず行くから大門の外で待っていて」


 鈴瑠はとにかく郷の外へ竜翔を逃すことを考えた。

 昨日から始まった霊峰の前崖の崩壊は、すでに大河をせき止め、断崖を埋めている。

 もしかすると、あと二、三度の崩落で本宮が押しつぶされることも考えられる。


 大門は本宮から見て創雲郷の反対側。

 大門まで逃れていれば、まだ間に合うかも知れない。


「まいりましょう、竜翔様」


 隣室に控えていた泊双が入ってきた。


「泊双っ!」

「鈴瑠は必ず来ると申しています。ならば、それを信じて先に参りましょう」


 竜翔は信じられないと言った面もちで泊双を見つめた。

 鈴瑠が自分を逃すために嘘をついていることなど、あまりにも明白ではないかと。


「鈴瑠、必ず来るね」


 そう言った泊双を、鈴瑠は縋るように見つめた。


「必ず! 必ず行きますから」


(お願い、竜翔をつれていって…)


「泊双っ。お前はっ! 離せっ」


 竜翔の腕を掴み、泊双は引きずるように隣室へと消えた。



「竜翔…。さよなら…」


 人気のなくなった部屋には、雨音がさらに激しくのしかかってくる。



―――これが僕に託された天意。


一つの時代が滅びるとき、天の子は遣わされ、

その民を一人でも多く災いから遠ざける。


抗いようのない空の反乱、地の鳴動に、天の創造主が差し伸べる、

救いの手―――



「今度こそ、本当にさようなら、竜翔。 僕はここを離れてはいけないんだ。一つの時代が閉じるとき、その扉を閉めるために、僕は在るのだから…」



 鈴瑠は竜翔の去った扉をずっと見つめていた。 




 竜翔が去った夜が明けた頃。

 思ったよりも早く、霊峰の前崖は全壊の兆しを見せ始めた。

 昨日のうちに竜翔を逃しておいてよかったと、鈴瑠は安堵のため息をつく。


 間もなく自分の使命も終わる。

 この地に落ちて二十五年の歳月が流れた。

 途中数年を天空に還った以外、この郷で生きてきた。


 籠雲に育てられ、泊双に出会い、翔凛を育て、竜翔を…愛した。

 心だけ結び、身体は結ぶことのできぬままで、きっと竜翔には苦しい思いを強いたのだろう。

 それでも彼は黙って耐えてくれた。

 それでも毎日『愛している』と告げ、優しい抱擁と口づけをくれた。


「竜翔が、幸せでありますように…」


 そう呟いたとき、大音響と共に、宮殿が大きく揺れた。

 最後の時が、そこまで来ている。

 鈴瑠は心を静めた。すると身体は自然と浮き上がる。


(還るときが…近い…)


 そう思ったとき、扉が開いた。


「鈴瑠っ!」


 それは紛れもなく竜翔の声。


「りゅう…」


 鈴瑠は驚き、床に落下した。


「鈴瑠っ。大丈夫か?」


 駆け寄ってきつく抱きしめる。


「竜翔…! どうしてっ…、どうして戻ってきたのっ! お願いだから…、今なら……っ」


 鈴瑠は自分を抱く竜翔を引き離そうと激しくもがく。


「私は鈴瑠をおいてなど行かない」

「でも、泊双はっ」

「泊双も最初からここを出る気などない」

「な…」


 鈴瑠は絶句し、目を見開いて竜翔を見上げた。


「私たちはずっと表宮殿にいたよ。だが、ああでもしなければ、お前はきっと私たちのために何かをやらかすだろうと思ったからな」


「何バカなこと言って…」


 鈴瑠は激しく竜翔の胸を叩いた。


「離してっ! 逃げてっ」  

「絶対に嫌だ。私はもう、お前を離さない」


 ついに鈴瑠は涙を零した。


「お願いだから…逃げて…」

「どうしてだ? 鈴瑠、お前は使命を終えて天に還るのであろう? ならば、私がこの世に残って生きる意味はもう無い」



 恐ろしいほど冷静に語る竜翔に、鈴瑠は泣き濡れた瞳を呆然と向ける。



「お前は言った。天に命あるお前と、地に命ある私と…交わることの許されない私たちが契れば、私の輪廻の糸は切れ、永遠に闇を彷徨うと。しかし私は地の生き物。天に上がることは叶わない」


 竜翔はそっと鈴瑠の唇に、触れた。冷たい指先だった。


「ならば、鈴瑠…。お前が地上に生まれ変わって来るんだ」


「竜翔…」


「天に還ったならば、天を司る創造主に申し出るんだ。次の生を、地上に降ろして下さい、と」


 大きな体が、小さな身体をきつく抱きしめる。この温もりを忘れないようにと。



「お前が地に生まれたなら、私が必ず探してみせる」

「僕が…地に転生する…」


 それは考えもつかないことだった。


「それが、私とお前が結ばれるときだ…」

「竜翔…」


 ゆっくりと唇を合わせる。

 長く優しく、愛を伝える。


「だから私は、今、土に還る。 お前のいないこれからを生きるより、早く土に還り、次の生を待つ」 


 竜翔はこの愛を、来世に賭けるというのか。

 いや、来世で出会うことが出来るのか。


 もしかすると、幾たびも、幾たびも輪廻を繰り返さねばならないかもしれない。

 そして、鈴瑠はもちろん、愛する人の死など願わない。


「だめ…だめだ…竜翔、死んじゃ嫌だ」

「死ぬのではない。次に逢うために、今は別れるだけだ」

「竜翔っ、りゅうか…」


 溢れ出る涙を、竜翔の衣が吸い取っていく。 


「鈴瑠…お前は、ただ一つのことをするだけでいい。 天空さまに、次の生は地に降ろして下さい、と願うのみ。 たとえお前が何もかも忘れて地上に降りてきたとしても、私が必ず捕まえる。必ず捕まえて…私のものにする。……案ずるな。この次も……絶対に離さない」



 さらに激しく叩きつける雨音。

 もはや豪雨を通り越し、この地の生きとし生けるもののすべてを洗い流そうとしているかのようだ。

 残された時間は…もう、ないだろう。


 竜翔はその姿を焼き付けるかのように、鈴瑠を見つめた。



「僕を、探してくれる…の?」


 見つめ返す瞳は、悲しみと不安に満ちている。


「鈴瑠、お前は私のものだ」 


 そういいざま、竜翔は鈴瑠の緋色の衣に手を掛けた。


「竜翔…っ?」


 驚く鈴瑠の声に、布を裂く音が重なる。


 露わになる、鈴瑠の白い身体。

 抗う間もなく、竜翔の唇が、鈴瑠の鎖骨の下あたりに触れた。


「…っ」


 一瞬鋭く走った感覚に鈴瑠が肩を震わせた。


 痛みを…感じた…?

 痛まないはずの自分の身体が何故、痛みを感じたのか。


 鈴瑠は呆然と竜翔の行動を見つめる。

 しかし、竜翔はすぐに唇を離し、今しがた口づけていた場所にそっと指を這わせた。

 鈴瑠の視線もそこに落ちる。


 目に入ったのは鮮やかな朱色の印。


 所有の刻印。 


「血は流れなくとも、蹟はつくのだな」


 竜翔が嬉しそうに言った。


 紛れもない鬱血の蹟に、鈴瑠の頭は更に混乱する。


「な、ぜ…?」

「鈴瑠、願えば叶う。私たちの創造主は、慈悲深い」


 鮮やかに微笑んで、竜翔は自分の衣の襟を引いた。

 綺麗に筋肉のついた、逞しい胸が現れる。

 そして、引き寄せられる鈴瑠。


「どれほどの時が経とうとも、私はお前を捜し出す。そして、お前は私を思い出す」


 触れる素肌から漂う竜翔の甘い香りに、鈴瑠はたまらずに目を閉じた。


「鈴瑠、私にも、蹟を残せ」


 胸から直接耳に響く、竜翔の声。

 鈴瑠はうっとりと顔をあげ、誘われるように唇を寄せた。

 張りのある肌をきつく吸った瞬間、体中を優しい抱擁に包まれる。 


「鈴瑠、次の生も、共にあろう」

「はい…。竜翔」



 今、再びその魂をしっかりと結ぶ。

 そして、誓いの言葉を封じ込めるように唇が合わされようと…。 




 地が鳴動を始めた。

 霊峰が、唸りをあげる。 




 僅かに触れた唇が、その温もりを感じた瞬間。


 足元が大きく揺れ、地が押し流され始めたことが二人に伝わる。


 本宮の一番大きな柱、天に向かってそびえ立つ、創雲郷の信仰の象徴がついに轟音と共に崩壊をはじめた。




「鈴瑠!!!」

「竜翔!!!」




 互いを呼び合う声も、もう、耳をつんざく崩壊の調べにかき消されていく。



「かなら…ず…っ」



 僅かに灯っていた燭台の明かりもすべて絶え、一つ一つの感覚が奪われていく。

 降り注ぐ、宮殿のかけら。

 人々が築きあげた器が、すべて地に還る時…。

















 どれほどの時が流れたのだろうか…。

 もはや五感のきかない中、必死で竜翔の気配を追う鈴瑠…。


 僅かに触れていた竜翔の『気』が…やがて、消え、鈴瑠は竜翔が輪廻に戻ったことを、知った……。






 こうして愛する者たちは、次の生で巡り会うべく、永きに渡る別れの道を選んだ。


 一人は光の中を天に還り、もう一人は闇の中を土に還っていく。



「僕の命を…地に降ろして下さい…」



 鈴瑠はずっとそう唱える。

 もはや言葉の意味が分からなくなるほど意識が溶けても、なお、次の生を地に願う。




 天の子は、その後永きに渡り天の生を送り、やがて、『事実』が『伝説』となり、そして『神話』となった頃、再び、時は……満ちる。


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