第3話 泉の王国
王国の東には天を突くような峰々が連なる。それらは堅牢な要塞のごとくそびえたつ、もの言わぬ境界線だ。国境などと呼んではならないもの、そう、存在するけれど存在しないもの。長く南北へと伸びるその山脈の向こうに、何かがあることを誰もが知っていた。けれど、それを口にする者はいない。それは、この世界の地図には記されないものなのだ。
遠い昔、そこからもたらされた災いによって王国が大きな傷を負ったことが、今も神話の悲劇として語り継がれている。それゆえに王国の人々はこの山を越えない。山の向こうの風を決して呼んではいけないのだ。彼らは代々、その思いを真摯に受けとめ守り伝えてきた。
「おじいちゃま、女神様のお山の向こうには違う国があるの?」
「ああ。そうさ。けれどわしらとは関係ない。この空をいつもまでも輝かせていたいなら、それは必要のないものなんだよ。闇の力なぞ、信用してはいけないんだ。想像してごらん、この青が黒く塗りつぶされたらどうだい」
「やだ。怖いよ」
「そうだろ。ここにはいつも青があるべきなんじゃ。美しい青がな。この女神の壁は、わしらを守るためにある。越えるためではないんだよ」
山は畏怖の念を込めて見つめられる対象ではあったけれど、まとう色の美しさは格別で、厳しくも麗しい女神を感じさせる。それは山が類い稀な青の輝きを放っているためだ。
遥か彼方にある、溶けることのない雪を抱いた頂から続く岩肌は、中程から柔らかな青緑色の苔に覆われていて、その滑らかな曲線を描く斜面のそこかしこからは常に清らかな水が湧きだしていた。その雫が無数の光となって辺り一面に降り注ぐ。それが苔に一層の瑞々しさを与え、岩肌をより青く輝かせているのだ。
裾野には田園地帯が広がる。峰から続く清らかな流れは、そこでは細い水路となって張り巡らされていた。そしてそれらは行く先々で、国中に涌き出す美しい大小の泉と結びついている。流れ込む水と湧き出す水。二種類の豊かな水力によって、この土地は潤い続けているのだ。
珍しくて見目のよい様々な野菜が作られ、それらは毎年大いなる恵みをもたらした。枯れることを知らない青々とした牧草地では、手入れの行き届いた健やかな馬や羊がゆったりと草を食む。のどかで牧歌的な風景は、まるで一枚の絵のようだ。
そんな麗しい田園地帯の中に、天空草の花畑は点在した。青い花弁のその花は、夏の間中咲いて国をさらに青く彩る。誰もがため息をこぼさずにはいられない青だ。特に北西部には、古くから歌にも詠まれてきた野生種の群生地が広がっている。一際鮮やかなその花たちは、青を愛するこの国の誇りでもあった。
そして国の最北に長々と横たわるのは、落葉樹の大森林地帯。徒歩で渡るにはあまりに深く広大な森。それは遥か先の北側国境へと続いている。
さらに、この国が世界に名を知られているのは、そんな神話然とした田園風景だけではない。多くの逸話を持つ「癒しの泉」もまた、宗教の枠を超えて、世界中の人たちの憧れであり、希望を託された場所だった。
「癒しの泉」、それは古代からの聖域だ。枯れることなく湧き続ける水はどこよりも深い淵にこの世のものとは思えない青をたたえている。それは、王国の人々が信仰する泉の女神の住まう場所だ。
すべてが青く輝く水と結びついている土地には伝説が幾つも残されている。小さな子どもたちが口にする手鞠歌にさえ、はるかな歴史が刻まれていた。風の乗って流れる旋律は、過去であり現在であり未来なのだと人々は言う。
『愛し子には青の紋章を。苦難を超えていく強さを。愛を囁く温もりを。遥か遠くへ続く道に、いつまでも湧き出す水があなたを導くだろう。なくしたものもいつかまた、あなたを慕って帰るだろう。時が満ちるその日まで、青を紡いで私は歌おう。あなたに届くと信じて、この声の限り。求め合う二つが、手繰り寄せあって、結びついて、微笑む喜びの日。それは、離れて砕けちった最愛の青が、再び青に戻る約束の時』
人々の厚き信仰は、泉の女神シャルレイアに捧げられる。その麗しき女神の髪は長く、白銀の光のように流れ落ちている。目と爪は天空草の花のように青く澄んでいて、指先からは青い花が咲きこぼれ、その歩みの周りには美しい水が湧き出しているのだ。
女神の美しさは清涼な水にも、空に輝く冷たくも麗しい月にも似ているため、月もまた、人々にとっては女神を意味するものであり、愛してやまない象徴となっていた。欠けることなく、常に白く輝く球体であり続ける月は永遠を意味する。シャルレイアは生を司る神でもあった。
その昔、女神は人々の見上げる空の中にあり、微笑みを投げかけ続ける存在だった。けれど、ある日起こった災いによって傷つき、未だその姿を見せることはない。女神は聖域の泉の奥深くで、今も傷を癒すために眠りについていると言われている。
それでも、その力は変わらず自分たちの上に満ちていると人々は感じていた。すべての泉が尽きることなく湧き続け、花はあふれるように咲き誇り、人々はみな大いなる幸せを享受していたからだ。青い喜びを王国に与え続ける女神シャルレイア。人々は女神が再び力を取り戻し、美しい姿をこの空に現す日を、心から願って祈り続ける。
そんな国民もまた、美しい姿をしていた。女神のような月の色ではなく太陽の色ではあったけれど、髪は流れる光のような金色で、温暖で湿潤な気候のせいか肌は白くきめ細かく、瞳は空を映し出す泉のような青だった。その青の濃さは様々ではあったけれど、みな一様に澄んだ美しさをたたえていて、一目で泉の王国民であると知れるのだ。
世界の東に位置する泉の王国。人の暮らす土地でありながら、どこまでも神話めいた穏やかで美しい国は、一年を通して穏やかで爽やかな天候に恵まれた水の楽園。訪れるものたちはみな深く魅了される。
青に彩られた美しい世界の様子は、この地上にその歴史が記された日から絶えることなく、人の口から口へと伝えられ世界の隅々にまで広がっている。いつの日か訪れんと誰もが夢みるのだ。
国境も間近な街道沿いの店先には、もう青は届かない。生い茂る落葉樹の森がいつの間にかその色を包み隠してしまうからだ。冷えたグラスを片手に名残惜しそうな旅人たちは、初夏の風が吹き渡る空を見上げた。
「本当に青だったなあ」
「ああ、噂以上だった。まさに神話の世界だ」
「家族にも見せてやりたいよ。まあ、そんな機会があったらだけどな」
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