26.「帰路は遠く、歩き出す背中」
──ライオス王国の事実上の崩壊を、未だ知らぬ彼女は今日も死地を歩いていた。
任された仕事をやり遂げるのは当然のことだ、それがどれだけ無理難題で遠回しに「死ね」と言われているようなものであっても。
第三戦区に送り込まれた騎士は、誰独りとして生還できない。
それはあまりにも有名な話だ。
しかし殆どの騎士がその災厄さを真に理解することはない。
実際に足を踏み入れるその瞬間まで。
多くの天候神が空を回遊し地上を獣神たちが闊歩する、神々に守護され建造物かと見紛うほどに成長した巣の中で天使は繁殖を続け、肥え太った大群が大穴から飛び出しては人類圏を目指す。
万能の侵攻は、忍び寄る絶滅そのものだ。
圏外区域の中に三つ存在する激戦区の一つ、突破されればライオス王国とコウラン王国どちらにも被害が及ぶ最悪の最前線。
無数の神々や天使の群れと幾度も遭遇し、昼夜問わず交戦を繰り返すことになる。
終わりも勝ち目もありはしない、こんな場所に送られるなんて処刑も同然だと、皆が口を揃えて語る。
確かに此処で起こる現実は辛いことばかりだ、体と心は一瞬で血に塗れ、生きて帰れる保証もない。
生存率など無いに等しい危険な戦地。
けれどそんなのは第三戦区じゃなくたって同じことだろう。
騎士が足を止める理由にはならない。
厳しい戦いを強いられることなど日常的で、生き残る保証がないなんて当前だから。
問題なのは、そこではなかった。
──彼女が第三戦区に送り込まれて最初に目にしたものは、死して尚、腐ることも出来ず打ち捨てられた仲間たちの死体だった。
二つの人類圏を守る為、この戦線を維持しているのは主に聖王騎士と冥王騎士たちだ。
転がる死体は白色と黒色だらけで、皆が目を見開いて、食われ掛けの体で死んでいた。
彼らを弔いに来るものはいない。
いや、来れないと言った方が正しいか、いつだってギリギリの最前線を保ち、人類の滅びを回避することで精一杯なのだから。
神や天使は騎士を栄養源にする為に食うのではなく、殺す為に食う。
食い残された死体は寒い荒野に転がったまま、時だけが経つ。
騎士の体は自然には還らない、だから川に流して果ての泉へと送るのだ。
弔われた体は泉に溶け消えて、魂は新たな生を迎える。
野に晒されたままの骸では、再誕することはない。
第三戦区に満ちる災厄の本質は、死んでも戦地から解放されないことなのだと彼女は把握した。
こんなのは良くない、終わらせなければと思う──悲しいかは良く分からないけど。
未だ倒れぬその騎士は、携帯用の食料が詰まった鞄を地面に置いた。
吹き荒ぶ風に真っ赤になった頰、一つに纏めて結い上げていた金髪はもうぼさぼさだ、白い息を吐きながら彼女は立っている。
血を流す再生途中の生々しい傷を全身に抱えて、痛みを感じぬ彼女は突き進む。
歩いてきた道のりに、生き物はいない。
天使の姿も、神の姿もありはしない。
彼女は一体残らず殺して歩いてきたのだ、右手に握った細剣、その一振りだけで。
「オクティナ、片を付けよう」
彼女の呼び掛けに黄金色が応える。
翡翠色の瞳が、星の輝きに染まった。
進む先には空高く聳える天使の巣がある、回遊する神々が空で、地上で笑う。
それらを殺し尽くす最期の独りが歩く。
光の翼を広げながら。
◇ ◇ ◇
「……しにたく……な……」
糞塗れの獣神どもが行使した神技の余波で刻まれた大地の溝を塹壕代わりに、身を潜めていた騎士は隣で絶命する友の声を聞いた。
歴史に刻まれる事のない有象無象のひとりである騎士は、また逝ったのかと思う。
冥王騎士団を示す黒い外套、その胸に光る狼の徽章を撫でる、千切れかけの指先が銀色を汚した。
「死ぬなら明るい場所がよかったな……」
暗い曇天を見上げながら、意味のない独り言を騎士は呟いた。
愚痴混じりの言葉がちゃんと自分の口から放たれたことに安堵する。
大丈夫だ、まだ喋れる、まだ頭はおかしくなっちゃいない。
所属していた部隊は壊滅した、生き残りがいたとしても
投入された六名は皆、学舎時代からの同期だった……友は次々に減って逝く。
こんなのもう慣れっこだ、きっと自分がここで死んだって良くある話だと流される。
真っ当に悲しいと思えるだけ幸せだと思った、心が壊れても絶望だけは出来ず、狂った笑い声を上げながら戦う騎士だって箱庭にはいるのだから。
自分が生きて帰れるとはもう思っちゃいない、選べるのは死に方くらい。
懐から拳銃を取り出し残弾を確認する、あと二発。
神技はどうだろう、まだ己の深層は立てるだろうか。
「坊ちゃん泣くかな、泣かねえだろうな」
それがいいや、と騎士は笑った。
仲間の死体に包まれて、蔓延る万能の視線を逃れている今のうちに走馬灯でも見ておこうと考える。
……第三戦区入りは、我が王からの直接命令だった。
コウラン王国を率いる人の王は、苦虫を噛み潰したみたいな顔で、悲痛さを隠せぬ瞳で俺たちに死んでくれと頼んだ。
告げられた命令に対し特別な感情は不思議と湧かなくて、思ったのは主に悲しんでほしくないとだけ。
我が王の傍に控えた第一階級は、月のない夜の如き暗がりで俺たちの顔を見ていた。
俺たちにとっては、肩書きなんて邪魔なものだから皆が彼の事を「坊」と呼ぶ。
──気にしないで良いんです、これは誰かがやらなきゃいけないことだ、坊ちゃん。
俺たちが揃いも揃って明るく笑い掛けるもんだから……あいつは、泣きたくても泣けねえよなんて苦笑いを浮かべて。
死に慣れきった男の顔で、行ってこいと静かに言ったのだ。
だから、俺たちは胸を張って死地へとやって来た。
「あんたが冥王になるなら、それでいいや」
息を吸う、覚悟なら決まっている。
溝から飛び出す為に足に力を込めた、隠れるのは終いにしよう。
人の為に死ぬなら本望なのだ、それこそが己に課された命題なのだから。
「……なんだ?」
浮かせかけた体の上に、黄金色の羽が降りてきたのを見て、騎士は間抜けな顔をした。
柔らかい羽は光で出来ている、あまりの美しさに息を呑み、同時に。
満ちた万能の気配に全身が強張った。
今から死に逝くところだったというのに、体は恐怖に簡単に負けて打ち震える。
恐る恐る頭上を見上げた、視線の先には間違いなく神がいる。
それも今まで戦ってきた奴らとは別格の存在が、俺のことを見下ろしているのだ。
歪んだ顔で空を見た瞳が映したのは、眩しい黄金色の光だった。
あまりにも強い輝きにうっと目を細めてしまう、騎士の目には辛すぎる。
暫くしてやっと慣れてきて、輝きの中心にいる存在を捉えることが出来た。
思ったよりも小さい、背中から光の塊のような翼が六本生えている。
そしてなにより姿が幼すぎて──。
「聖王騎士……?」
輝きを放つその者が、純白の騎士服を纏った少女であると知って唖然とした。
……少女の方はこちらを見ていない、ただ真っ直ぐに前だけを見て宙に浮いている。
黄金色に光り輝く瞳、金糸のような髪が冬の空を泳ぐ。
姿形は騎士で在るのに、満ちる気配は神そのものだった。
敵なのか味方なのか分からない異質な存在、初めて見る生き物のことをただ見上げることしか出来ない。
状況を理解しきれない冥王騎士のことなど眼中にも入れぬまま少女は掻き消える。
前へと飛んだのだ、と後からやってきた衝撃派で騎士は理解した。
何とか体に響く揺れを逃した後、溝から這い出る。
飛んでいった背中は見る間に小さくなっていった、一体どれだけの速度で飛行しているのか。
彼女の行く先には膨れ上がった天使の巣が待ち構えている。
呆然とする騎士の視線の先で、何度も黄金色が爆発した。
鼓膜を破らんばかりの音と、眩しい光。
自由自在に飛び回るその翼で天使の群れを両断し、細剣を振って骸の城を引き剥がす。
空に届くのではないかと思うほどに成長しきっていた天使の巣が、あっというまに崩れ始め、核が晒されていく。
少女の体に天使が集る度、爆発は起きた。
燃え尽きた天使が地面へと落ちる、二枚羽だろうが四枚羽だろうが一撃死だ。
万能を斬り裂いて飛び回る黄金色。
空を駆ける星、奇跡のような現実を前に声も上げられずただ魅入る。
あんなのってアリか。
あんな性能で戦える者がこの惑星にいて良いものなのか。
多くの騎士を殺してきた天使の群れが、幾つも玩具みたいに落とされていった。
異変を察知した天候神が三体、空から降りてきて神技を振るう。
曇天に稲光が走った。
少女の体を複数の稲妻が威貫き、破砕音と共に荒野に穴を空ける。
天候神たちは人型を上手く使いこなし、口元に手を当てて笑った。
落ちた落ちた、目障りな黄金の翼がやっと落ちたと……。
その首を斬る為だけに、彼女は稲妻の向こうから飛ぶ。
天候神の首が、一つずつ弾けた。
宙で咲く血の花、空を駆ける流星は地上へ落下する神の死体を踏んで高く舞い上がる。
背に備わる六翼が一つ射出され、逃げ惑う神々を追いかけては貫いた。
我が物顔で空を占拠している神々に彼女は細剣を振り下ろし襲い掛かる。
何もかも此処で殺し尽くすつもりなのだと、見ているだけでも分かった。
雷が、吹雪が、嵐が、身を焼かんばかりの快晴が少女を襲う。
それらに己が殺される前に彼女は殺す、響き渡る破裂音、血が噴き出て、足蹴にされた死体が落ちる。
舞い上がった黄金色こそが次の支配者だった。
空を制した彼女は今度、地上に降りて、泣き叫ぶ獣神たちを殺して回り始める。
四足歩行の獣たちは、自分の神技を使う余裕もないまま斬り捨てられていった。
一体、何ならアレを止められるのだろう。
異次元の性能を見せつけられて騎士は、彼女の正体に思い至った。
あの並外れた戦闘性能と異質な在り方は間違いがない。
彼女こそがそうだったのか、名前とぼんやりとした容姿だけは聞いたことがあっても実際に目にしたことはなかった。
聖王騎士団第一階級の片割れ。
騎士王候補に数えられる、最優と称されることもある少女は、噂によれば特殊な神技を扱うらしい。
──その神技の名は「神降ろし」
休息を必要とせず、死ぬまで天使と神を狩り続ける圧倒的なまでの強者が、何の因果か第三戦区に現れていた。
「……俺、生き残ったんだ」
夢現に呟く、眼前で天使の巣が木っ端微塵に打ち砕かれる。
光の乱反射が曇天を貫いた、後には黄金色の少女だけが残る。
◇ ◇ ◇
「起きているか、未来」
散々暴れ回ったオクティナは、伸びをしながら半身へ問い掛けた。
こうして体を借りるのは久しぶりだ、人類圏内ではもちろん、周囲に多くの味方がいる時に顕現するのは色々と不都合なので、いつもオクティナは我慢していた。
辺りに散らばった神とか天使とかの死骸には目もくれず、オクティナは欠伸をする。
騎士の肉体に睡眠はあまり必要ないらしいのだが、未来の体はそうでもない。
ここのところ、休みなくオクティナと未来は交代しながら第三戦区を突き進んできた。
投入されてからまだ三日だというのに、ふたりは大抵の障害を全て破壊し終えてしまったのだ。
気の向くままに殺していたら、人類守護に大きく貢献したらしい。
オクティナとしては未来が邪魔だと思うものを排除しただけなので、人類にも神にもさして興味はない。
「うん?」
未来の返答を待つ間、視線を感じてオクティナは己がやってきた方を見る。
無数に刻まれた溝があるだけの荒野だ、死骸以外には何も見えないが。
「生き残ったのか、よかったな」
そう呟いたオクティナは、目を細めてふらついた。
瞳に満ちた黄金色が明滅し、体を覆う光が溶け消える。
「ぅ、うう」
ぐらぐら揺れた体を何とか立たせ、呻き。
翡翠色の瞳が開いた、腰に細剣があることを確認してから彼女は言う。
「おなかすいた……」
さて、携帯食料の詰まった鞄はどこに置いてきたのだったか。
数多の死骸に背を向けて、未来はてくてくと歩き出す。
帰還条件を聞かされなかったから神も天使も殺して回ってみたのだけれど。
そろそろライオスに帰ってもいいかしら、なんて思いながら。
これで少しは弔いの代わりになれば良いと、未来は満足そうだった。
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