序章
「舞咲未来」/1850年
1.「ある冬の日」上
思い出せる記憶の中で一番古いものは、路地裏から見上げた青い空のこと。
晴れた空は綺麗だけど明るいから、自分自身の汚さや惨めさを晒してしまう。
飛んでいく鳥も風に流れていく雲も、移り変わる天気や昼夜ですら自分よりも自由で美しいものに思えて仕方がない。
独りでずっと生きている。
広く美しいこの惑星が嫌う存在として、わたしは生まれて来た。
両親もいない、身寄りがない、自分の名前と生まれた日以外、何も分からない。
路地裏で死んでいなかっただけ、結局わたしは悪い人間たちに攫われて此処に来た。
──そういえば、明日で十歳になる。
そんな事を考えながら、今日も目覚める。
◇ ◇ ◇
真冬の川にバケツを入れて、手が凍ってしまう前に終わらせようと少女は決めた。
長く伸びた金髪を右手ではらって、白い息を吐きながら水を汲む。
今日、与えられている命令はこれだけだ。
騎士に生まれた未来にとって命令に従うことは何ら、疑問に思うことではない。
小さい背丈の膝まである、大きなバケツを二つ、水でいっぱいにして小屋に戻る。
これを何往復もして、未来は生きていく為の権利を今日も得るのだ。
未来が暮らす場所は傍から見れば、崩れかけている石柱や建物の残骸といった遺跡群に木材で屋根を付けた、不恰好な集落だった。
集落と呼べるほどの規模はないのかもしれないが、幼い未来にとっては世界の全てだ。
集落には人間の大人が二十人くらいと、騎士の子どもたちが未来を含めて十名いる。
子どもたちは皆、身寄りがなくて突然いなくなっても分からないような、見窄らしくて物を知らない騎士たちだ。
皆、色々な国や場所から攫われて来たわけだけど、誰かが探しに来ることもない。
それでも子どもたちは騎士だから一生懸命、人間に仕える。
足蹴にしてくる人もいれば、無関心にただ労働力として見てくる人もいた。
優しくされず、対等に扱われなくても、殴られなければ何でも良いと未来は思う。
他の子どもたちも同じように考えている。
人間の顔色を伺って、機嫌を取って命令に従い仕事をこなせばご飯を貰える。
それが未来が生きる世界の全てだった。
「おい、まだ終わらないのか」
集落の隅に建てられた小屋に、水でいっぱいになったバケツを二つ運び入れたところで背後から声が掛けられる。
未来が振り向いた先にいたのは、人間だ。
擦り切れた服を着ていて、伸び放題の髪を無理やり一つに結んでいる。
不衛生で異臭を放つ髭面の男を前に、表情を変えず未来は答えた。
「あと十往復で終わります」
「とろいなぁ、おまえ」
未来に水運びを命じた人間だ。
男は無造作に手を伸ばして小さな子どもの頭を鷲掴みにした。
そのまま揺すられても、未来は変わらぬ顔で男の顔を見上げている。
千切れた金髪が宙に舞った、男は心底から気持ち悪そうに。
「無表情かよ、気味が悪い。
……まあいいや、暫くの内は水を運んでいろ、能無しのおまえはそれだけやっていればいい」
「それで天使どもがやって来たら、俺らの盾になって死ね」
分かりました、と従順な返事。
男はさっさと小屋を出て行った。
小屋の中が水の入ったバケツで埋め尽くされた頃、未来の仕事は終わった。
この水は人間の生活の為に使われているらしい、具体的には良く知らない。
未来に与えられた命令は小屋に水を運び込む事だけだ、人間がこれらをどう使うのかは自分には関係ない事だなぁと思った。
仕事を終えてやる事がなくなったから、ご飯を貰いに行こう。
食べなくても生きられるように騎士は設計されているけれど、空腹を感じないわけではないし力も奪われる。
未来は裸足で土を踏んで歩き出す。
さっき寒さのあまり小指がもげて──再生したばかりだった。
「未来、来たんだね」
集落の中央、一際大きな遺跡を礎にして作られた家の中に人間の女性が一人いた。
決して身綺麗とは言えない服と鞄、汚れた髪に痛々しい傷跡のある顔で女性は微笑む。
ここは集落にいる女たちの住居であり、主だった管理をしているのがこの女性だった。
女たちは男の世話をし、食事を作る。
人間というのは不思議なもので、同族同士でも誰が上か下かを決めたがる生き物だ。
この集落において女は男たちに下だと思われ、そう扱われる。
「お母さん」
女性のことを、未来はそう呼んだ。
理由としては初めて会った時、母と呼べと言われたからに他ならない。
お母さんは嬉しそうに、穴が幾つも空いた鞄の中から紙に包まれた何かを取り出した。
「はい、今日もお疲れ様」
包み紙の中にあったのはパンだ、女たちが作っている人間の食べ物。
本当なら騎士になんか与えてはいけない物を、お母さんはくれた。
草木も生えない灰の荒野に佇む遺跡群で、僅かだけ残っている無事な土地を利用しなんとか成り立つ暮らし。
女たちが育てた小麦を収穫するのも、未来たち騎士の仕事だった。
「ありがとうございます」
未来はお母さんに歩み寄って、パンを両手で受け取った。
そんな少女の乱れた金髪が気になったのか、お母さんは温和な顔を少し歪める。
「ねえ、未来。
……誰かに意地悪された?」
未来は黙って首を横に振ることで答えた。
別にあれは意地悪じゃないと思う、だって当たり前のことじゃないか。
人間ってそういう生き物だから。
お母さんのように騎士に優しくできる人間の方がおかしくて少数派なのだ。
それ以上の追求は無かったから、未来は立ったままもそもそとパンを食べ始める。
正直、味についてはよく分からなかった。
お母さんの家を後にした未来は家と家の隙間を縫い、誰の目にも付かないように歩く。
人間の思い付きでいつも玩具にされる、だから見つからないように息を潜めた。
今日は何処で寝ようか、夕暮れを見上げた、日が陰り始めると余計に寒い。
騎士は人間を守る為に出来ている種族だから、凍えて死ぬなんてことはない。
たとえ眠らなかったとしても生きていける、でも辛くないわけではない。
未来は寒いのも痛いのも辛いのも嫌いだ。
寝ている間に蹴られなくて、爪を剥がされたりしない場所。
安全な寝床を探して歩き続ける未来は、同じく息を潜めて歩く者と出会った。
「あっ、みらいだ」
向こう側が透けるくらい薄く汚れた布を被った、顔と頭を隠している子どもが未来を見つけ小さな声を上げる。
足元で野良猫が小鳥の死骸で遊んでいた。
「さや、これから仕事?」
未来は見知った騎士の姿を見て、やっと笑みらしい笑みを浮かべることが出来た。
さや、という名の騎士は少女とも少年とも付かない姿と声をしている。
「うん、北門を見張っていろってさ、最近はよく天使が出るようになったから」
さやの答えに未来は黙った、天使と聞いて眉を顰める。
──この惑星において、異星から来る神々と眷属である天使の軍勢は人間の天敵だ。
彼らは人を喰う、人の住処を侵し二度と作物も育たぬ土地に変えてしまう。
未来たちは、人間が退ける事の出来ない神と天使を殺せるように作られている。
人間に仕え、彼らの生命と安寧を守る義務を持って生まれてくる種族が騎士だ。
男が未来に言った、盾になって死ねという言葉は比喩でも何でもない。
そのままの意味、此処での常識の一つ。
人を守って死ぬ、それが騎士の存在理由。
わたしたちが生まれた意味なのだ。
「……これから、暗くなるのに。
寒くて怖い夜が来るのに?」
未来は夕暮れ空を指差し、さやに言った。
騎士が備える五感と身体能力は異常な性能を持っている。
特にさやは目が良いから、夜闇でも昼と同様の視界を有して戦えるだろう。
だけど怖いものは怖いのだ、どれだけ生き物として異常でも、心には抗えない。
夜は寒い、寒いのは皆が嫌いだろうと未来は考える。
未来が放った言葉の意味を全て理解したわけではないけれど、心配されているのだと察して、さやは明るい声を出す。
「大丈夫、私にはこれがあるからね」
さやが右手の人差し指を立てると、ぼうっと──炎が灯った。
騎士は人間の天敵どもを殺す為の異能を備えて生まれてくる。
それは神技と言って、神々が扱う万能と同質の力だ。
万能を殺せる万能として騎士は作られた。
──正直、細かいことは分かっていない未来だが、さやが特別な力を扱えることはちゃんと知っている。
だから安心した顔で頷いた。
「そっか、さやにはそれがあるのか。
……いいなぁ」
純粋に羨ましくて未来は、灯る炎を見つめて言った。
騎士が生まれながらに操るという神技を、未来は持っていない。
持たないというよりは扱えない、身の底に宿る何かを感じられても、現実には何も起こす事ができないのだ。
騎士である癖に戦う力を持たない、故に未来は人間たちから能無しと呼ばれていた。
さやの炎は体を温めてくれるし暗闇を照らす、天使を退けることも出来る。
未来から羨望の眼差しを向けられて、さやは笑いながら右手を振って炎を消した。
「未来にはきっと、凄い力があるんだよ。
大きな力だから目覚めるのに時間が掛かっているだけ」
「そうなのかな、そうだといいな」
励ましてくれたと気付いて未来が微笑み返すとさやは、じゃあさとしゃがんで足元から石を拾い上げた。
小石というには大きいが、子どもの掌にすっぽりと収まる石だ。
「良いものをあげる、今夜は冷えるから」
そう言って、さやはふぅっと手に持つただの石に吐息を吹きかけた。
不可思議な赤い灯りが石を包み、柔らかな炎が内側へと吸収されていく。
さやは未来に、炎が宿った石を手渡した。
未来は素直に両手でそれを受け取る、掌に乗った赤色に輝く石は心地よい熱を宿していた、寒い冬の夜に体を温めてくれそうな。
「ありがとう、くれるの?」
「長くは持たないけどね、帰ってきたらまた作ってあげるよ」
未来の満面の笑みを見て満足したか、さやは嬉しそうに集落の外へ出て行った。
その日の夜は、本当に寒かった。
服の中にさやがくれた石を入れていなければ、心が折れてしまったかもしれない。
何度か凍える子どもとすれ違った、自分だけ温もりを抱えている状況を良いとは思わない、だけどこれを奪われるのも怖かった。
未来に出来ることなんか無いのだ。
未来は寝床を探して歩いていたわけだが、夜が深まった現在、お母さんの家の裏口付近で座り込んで膝を抱えていた。
家の中から聞こえてくる無数の声、この家は夜になると人間たちの溜まり場になる。
酒でも飲んでいるのかと思うような騒ぎ声、男たちが時折大笑いをして、何かを殴りつけているような音も聞こえてきた。
怖いことが起こっていると知りながら、未来がその場から動けないでいるのは、中へと引き摺り込まれていった子どもたちの安否が気になるからだ。
何も出来ないくせに自分は此処で何をしているのだろう……何が、したいのだろう。
裏口の扉は少しだけ開いている。
やめておけば良いのに、未来は隙間から中を覗き込んだ。
「……え?」
小さく声が漏れる、それが自分の声だと後から知った。
視線の先、薄暗い部屋では騎士の子どもが大人の足蹴にされている。
酒の臭い、薬を焦がす音、騎士の五感では耐え難い物の数々。
悪意が溢れた部屋のなかで、子どもを殴打しているのは怯えた顔をした女性だった。
男達に怒鳴られて、囃し立てられて、女性は木材を振りかざす。
床に倒れた子どもが女性のことを見上げていた、小さな口から声がする、消えかけの声が。
「おかあ、さん」
未来の鋭すぎる聴覚は、か細い声をはっきりと聞き取った、響き渡る殴打音と一緒に。
抱えた膝に顔を埋めていたら、いつのまにか朝になっていた。
眠れたと思う、胸元で灯る温い感覚に安堵する、未来はぼんやりと空を見上げた。
薄曇りの朝だ、今日も仕事をしなくちゃ。
小屋を水の入ったバケツでいっぱいにして、生きていても良いって証明しなければ。
何だか立ち上がる気になれなくて、動かずにいた未来の耳に裏口の扉が開く音がした。
肩を震わせそちらを見れば、見知った顔が未来のことを見つめている。
「おはよう、未来」
お母さん、だった。
頰が赤黒く腫れている、服には蹴られた跡がある、顔色が酷く悪い。
眠れていないのだろうと見ただけで分かる、お母さんはそれでも微笑んでいた。
何も言うことができずに、未来は自分の体が震えているのを自覚する。
寒いからじゃない、なんだろう、何故自分が震えているのか分からない。
言いたいことならあるはずだった、胸の内に渦巻いている感情が無数にありすぎて、言葉が詰まって未来は動けない。
この人は何なのだろうか、自分は何なのだろうか。
未来はやっとの思いで、のろのろと立ち上がり、お母さんから目を逸らして言った。
「仕事が、あるので」
逃げるみたいにその場を去る。
実際、未来は逃げていた、逃げることしか出来なかった。
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