第4話 チェシャ猫


 下を向いたまま、どれくらい走り続けていただろうか。

 

「はぁっ……はぁっ……!」

 

 足を止め、呼吸を整えながら顔を上げて辺りを見渡せば、先ほど双子に出くわした森の中にいた。

 一番戻って来たくなかった場所で響くのは、


「あっ!」

「あー!」


 一番、聞きたくなかった声。

 恐る恐る目をやると、こちらを指差して立っていたのはやはりあの双子――ハンプティ・ダンプティ。相変わらず仲良さげに片手を繋いだまま、満面の笑みを浮かべて小走りで目の前にやって来た。


「ご機嫌よう、アリス! また会えたね!」

「嬉しいよ!」

「……ごきげんよう、ハンプティ・ダンプティ。私はもう二度と会いたくなかったわ……」

「悲しいこと言わないでよ!」

「そうだよ! 言わないでよ!」


 膨らませた頬を二人でぴたりとくっつけながら、横目で互いに見つめ合い「ねー!」と声を合わせて言う。少しの間、眉間に深いシワを刻んでいたかと思えば、反応に困る私を見た途端ぱあっと笑顔を咲かせた。

 情緒不安定なのかしら、と呆れ気味に心の中で呟く。


「ねえ……もしかしてアリスはさ、」

「道に迷ってるの?」

「きっとそうだ、迷ってるんだ」

「でも、アリスが迷っているのは道だけじゃないよ?」

「あ、そっか! アリスは未熟だもんね!」

 

 余計なお世話だ。

 

「この先に進みたいなら、」

「チェシャ猫に聞くといいよ!」

「チェシャ、猫……?」


 初めて耳にした名前に首を傾げると、ハンプティかダンプティか……どちらかはわからないが、片方が「そうだよ!」と大きく頷き答えてくれる。


「チェシャ猫には、この道を抜けた先で会えるよ!」

「ああ、でもアリス。気をつけて?」

「くれぐれも、気をつけて……行ってらっしゃい、大事なアリス」




 ***

 



 多分、あれは……ダンプティだったはず。

 彼が指差した小道を歩いている最中、ある事を思い出した。そうだ、先ほどの……多分、ダンプティが強調して続けた「気をつけて」の一言がどうにも引っかかるのだ。

 サタンといい、彼らといい。伝えたい事があるのなら、回りくどい物言いをせずにはっきりと言葉にすれば良いのに。

 心の中であれこれと文句を浮かべながらしばらく歩いていると、


「――……!?」


 突然、喉に冷たい物が当たり、何者かの声が降ってきた。


「はぁい。たった一人でぇ、こーんにゃ暗い所に来るにゃんてぇ、とーっても不用心だねぇ」


 のんびりと言葉を紡ぐソプラノ。同時に、目の前に一人の女性が現れた。

 紫の髪から同じ色の猫耳が生え、寝間着のように緩い服装をした、ついさっきまでそこにはいなかったはずの人物。

 その少女が尻尾を揺らしながら私の喉に当てているのは、怪しく光るナイフだった。


(殺さ、れ)

「こーうやってぇ、いきなり殺されちゃっても知らにゃいよぉ?」


 女性は人懐っこそうな犬歯の見える笑顔を浮かべるなり、ポイとナイフを投げ捨ててしまう。安堵に胸をなで下ろすと、女性に手首を掴まれた。


「な、なに……?」

「えぇー? ここに来たってことはぁ、この森から出たいんだよねぇ? いいよぉ、案内してあげるねぇ」




 ***




 体感として数十分間、黙々と二人で森の中を歩いていたが、むず痒い静寂に耐えきれなくなり、呟くように言葉を投げた。


「あの……あなたが、チェシャ猫?」

「うん、そうだよぉ。そういうキミはぁ、アリスだよねぇ」


 チェシャ猫はこちらを振り返って、花のような笑顔を浮かべる。先ほどの言動から察するに、どうやら彼女は私を殺す気は、


「あーあ……やっぱりぃ、さっき殺してあげればよかったかにゃぁ……失敗したにゃぁ……せっかくジョーカーだったのににゃぁ……」


 ないようだ……と、心の中で言いかけてやめた。気まぐれで殺さなかっただけらしい。

 ため息を吐くと同時に、私の前を歩いていたチェシャ猫は足を止め再び振り返る。


「あれぇ、あのお家ぃ。あそこに行くといいよぉ。それじゃあ、僕はこれでぇ。また遊んでねぇ、アリスー」


 最後まで不思議な猫さんだ。

 チェシャ猫が尻尾をくるりと回して煙のように姿を消した後、私は教えられた場所に向かって歩き出すのだった。

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