英雄を見送る者

寿 丸

第1話「少年ムトと宿屋のんびり」

 とある城下町に、とある宿屋がある。

 そこに泊まった者は〈英雄〉になれるという噂がある。

〈英雄〉とは、様々な偉業を成し遂げた者――例えば、魔の山の竜を撃退した者、または不治の病を治した者、あるいは〈星〉という未知の鉱石を見つけた者などを指す。

 その〈英雄〉になった者は例外なく、とある宿屋に泊まっていたという。

 人々は口を揃えて、「あの宿屋に泊まれば〈英雄〉になれる」と噂する。

 その噂を聞きつけ、各地の豪傑や貴族、旅人、商人、医者、果ては一国を治める王ですら、泊まりに来るのである。

 そして――その宿屋の手前に一人の少年が、〈英雄〉となるべく立っていた。

 少年の名はムト。

この時点ではまだ十五歳にも満たない子供だった。


     ○


 アルバール王国――

 土壌豊かないくつかの村が併合して、興された国である。古くからその土地を狙う者や国は絶えず、今もなお城内外に多くの兵士が配置されている。先の戦争においては敵味方問わず多くの犠牲者が出たのだが、これはまた別の話。

 城壁に囲まれた町の一画――その隅に、〈のんびり〉という看板が掲げられた宿屋があった。二階建ての木造建築で、赤い屋根であること以外、これといった特徴がない。看板がなければ、ただの横長の建物として素通りしてしまうだろう。

「本当にここなのか?」

 ムトはつぶやき、古びた地図と看板とを見比べた。

底の抜けた靴からは足の指が見えている。ほつれの目立つ赤い首巻きに、つぎはぎだらけの服。背中まで伸びた茶かがった髪は、ところどころはねていた。

「……ここまで来て、引き返すわけにゃいかないか」

 意を決するように頬を叩き、突き飛ばすようにして扉を開けた。

店内の人々が一斉にムトを振り返る。突然の出来事に不愉快そうに顔をしかめたり、あるいは怪訝そうに眉を寄せる者がほとんどだった。

その中の一人――ムトの背丈の二倍以上はある男が、ずいと立ちはだかった。

「おい、ガキ。ここになんの用だ?」

「決まってんだろ、泊まりに来たんだよ」

「泊まって、どうするつもりなんだ?」

「〈英雄〉になるんだよ。当たり前だろ」

ぶはっ、と男が噴き出した。周りの人々も失笑を漏らしている。

「なんだよ、何がおかしい!」

「まぁ、その心意気は買うがねぇ。ここはそんな簡単に泊まれる場所じゃないんだ」

「なに……!」

「〈英雄〉だって、ねぇ。笑わせるぜ。お前みたいなガキが〈英雄〉になれるもんか!」

「ふざけんな! 上等だ、表に出ろ!」

 腰に差した剣の柄に手をかけると、人々はおっと色めきだった。

「ほぉ、やろうってのかい。この俺と?」

「当たり前だろうが!」

 威勢よく鞘から引き抜くが――その剣はひと目でわかるほど、刃こぼれしていた。これでは人はおろか、細木を切るのさえひと苦労だろう。

その剣を見、男も人々もとうとう大笑いしてしまった。

「お、おい、お前……そんな剣で本当に〈英雄〉になるってのか!? 悪いことは言わねぇからやめときなって!」

「うるせぇ! どいつもこいつも馬鹿にしやがって! いいからさっさと表に出ろ!」

すると男は不愉快そうに顔をしかめた。

「聞き分けのねぇガキだな。いっぺん、痛い目を見ないとわからねぇのか?」

「痛い目を見るのはお前の方だ!」

「おもしれぇ! てめぇなんかひとひねりで……」

「ガタガタ騒ぐんじゃないよ! 他のお客さんに迷惑だろうが!」

 その怒声に、場が瞬時に静まり返った。

 人々を押しのけて出てきたのは、恰幅のある女性だった。太い眉に日焼けした肌、がっしりとした体つきに加えて、目には毅然とした輝きを放っている。

「やけにうるさいと思ったら。これ以上ここで騒ぐなら、出ていってもらうよ!」

「か、カナエさん。そりゃ、勘弁してくれ。今日泊まるところがなくなっちまう……」

「だったら、静かにすることだね。……ほら、おどき」

 すっかり肩をすぼめてしまった男を脇にどかし、ムトの前に立つ。彼の足先から頭のてっぺんまでじっと見回し、「坊や、ここに泊まりたいのかい?」

「あ、ああ。ここに泊まれば、〈英雄〉になれるって聞いたんだ」

「はぁ、まったく……いいかい、坊や。そんなのはただの噂。ここはなんの変哲もない、ごく普通の宿屋さね。それに、悪いけどあんたを泊めることはできない」

「なんでだよ! おれがガキだからか!? 金ならちゃんと……」

「そうじゃない。子供だからって理由で泊めないつもりはないし、金の問題でもない。ここはね、先着順なんだよ。こればかりは例え相手が王様だろうと、変わらないのさ」

「ぐっ……」

 唇を噛み、拳を握り込む。

ここまで来たのに、と肩を震わせるムトの手前――カナエは思案気に腕を組んだ。

「坊や、あんた出身は?」

「……ハジノ村」

「そうかい。ここから馬で行っても、まる二日はかかるね。今日、他に泊まるところは?」

「ない。最初からここに泊まるつもりだったんだ」

「ふぅん……」

 カナエはあごを撫で、独り言のようにつぶやいた。

「そういやちょうど、人手が足りないところだったんだよねぇ」

「!」

「このご時勢、若くて力のある奴は皆、兵士になることが多いんだよね。宿屋は力仕事だし、誰か手伝ってくれる人がいると、助かるんだけどねぇ……」

 それを聞くやムトは、いきなり両膝と手と頭とを床につけた。

「頼む、ここで働かせてくれ! 草むしりでも掃除でもなんでもやるから! 頼む!」

「坊や、顔を上げな」

 言われた通りにしたムトを、カナエはじっと見下ろしてくる。

「あんた、名前は?」

「……ムト」

「そうかい、ムト。あたしはカナエっていうんだ。あんたは今から住み込みで、ここで働いてもらうよ。なんでもやると言った以上、妥協は許さないからね」

「本当か!?」

 二人のやり取りに、人々がざわついた。先ほどの男が半ば苦笑しつつ、「おいおい、カナエさん……」と割り込もうとしたが、「お黙り!」と再び一喝される。

「やれやれ、さっきから騒がしいと思ったら……」

 店内の奥から、足を引きずった若い男が出てくる。一見細身だが、服の内側から筋肉が盛り上がっている。目つきは鋭く、何者をも寄せつけない空気を放っていた。

人々が彼を恐れるように道を空けると同時、カナエが振り返る。

「ああ、アイロ。今からこの子がここで働いてもらうことになったから」

 アイロと呼ばれた男は、ムトを一瞥した。

「本気ですか、おかみさん。まだほんの子供じゃないですか」

「ミルだって子供だろう。働くのに年齢は関係ないよ」

「それはそうかもしれませんが……」

 なおも難色を示すアイロだったが、カナエは構わず、「ミル、ミル!」

「はーい!」

 すかさず人々の間からひょこ、と小さな頭が飛び出てきた。ムトと同じぐらいの背の高さの少女で、赤い髪がふわりと舞う。

「ミル。悪いんだけどさ、この子に仕事を教えてやってくれないかい?」

「はーい、わかりました!」

 敬礼したミルにうなずき、次にムトに向き直る。

「そういうわけで、ムト。今日からよろしくやっていこうじゃないか」

 手を差し出されたが、ムトはそっぽを向いた。

「え、〈英雄〉は……そんな簡単に人と馴れ合わないもんなんだ」

 するとアイロが目を細め、「礼儀がなってないな、お前」

「〈英雄〉になるならない以前の問題だ。でかい口を叩くつもりなら……」

「アイロ、いいんだ」

 カナエが手で遮り、アイロはため息をつく。

「よし。とりあえずムト、あんたはこれからミルの指示に従うこと。いいね?」

「……わかった」

「じゃあ、ミル。後はよろしくね」

「はーい! じゃあ、ムト! こっちこっち!」

 待ってましたと言わんばかりに、ムトの手を掴む。抵抗する間さえ与えず、ミルは奥の厨房へと引っ張り込んだ。こじんまりとした空間で、ムトの視界に真っ先に入ったのは、巨大なボウルに収まり切れない量のジャガイモの山だった。

 唖然とするムトの前に、ミルが素早く回り込む。

「あたしはミル! あなた、ムトっていうんだよね?」

「あ、ああ……」

「はい、握手! 友好の証ね!」

 音を立てんばかりの勢いで手を差し出されたが、ムトは口をへの字に曲げた。

「だからなぁ。〈英雄〉ってのはそんな簡単に人と……」

「あ、く、しゅ。……ね?」

 有無を言わさぬ笑顔で迫ってくるので、ムトは応じる外なかった。

 気を好くしたミルはよしよしとうなずき、「お次はこれ!」と、白い布切れを渡す。小さなものと大きなものが一枚ずつあり、ムトは首を傾げた。

「なんだ、こりゃ?」

「あなた、厨房に立つのにそんな恰好じゃあ不潔でしょ? まずはシャワーといきたいところだけど、そんなに時間もないし。とりあえずそれを頭と体に巻いて! あ、その前にきちんと手を洗うこと! 爪の間もね! それからジャガイモの皮むき!」

「そ、そんなの〈英雄〉の仕事じゃ……」

「か、わ、む、き。はい、復唱?」

「……わ、わかったよ、皮むきだろ。やればいいんだろ、やれば!」

 白い布を体と頭に巻きつけ、念入りに手を洗い、それから皮むきに取りかかる。手が止まる度にミルから笑顔で迫られるため、従わざるを得ない。

「なんで、こんなことしなくちゃならないんだ……」

五十個を超えた辺りで、とうとうムトは音を上げてしまった。

「おっつかれ! じゃあ、次は二階の掃除ね! じゃ、これモップとバケツ!」

 ムトはもはや、言い返す気力もなかった。

 木張りの床をひたすら拭く。皮むきで手が疲れていることも相まって、次第にムトはうんざりしてきた。

「やってらんねぇ……」

「ぼやいている暇があるなら、手を動かせ」

 ぎょっとして振り返ると、アイロが壁にもたれかかっていた。

拭いたばかりの床をじっと見つめ、「掃除の手が行き届いていない」

「ここも、あそこもだ。おかみさんから妥協はするなと言われたはずだが?」

「わ……わかってらい! 後でやろうと思ってたんだ!」

「どうかな」

舌打ちしつつ掃除を再開するが、アイロは腕を組んだまま、立ち去る気配がない。

とうとう彼の視線に耐えかね、「さっきからなんだよ!?」

「お前、なんで〈英雄〉になりたいんだ?」

「なんでって……」

 決まってんだろ、と語気を強めて言い返す。

「〈英雄〉はすげぇんだ! 獣や竜を狩って、報酬をもらって、皆にちやほやされて……」

 言い終えるよりも前に、アイロは深々とため息をついた。

「夢物語だな。やっぱりお前はガキだよ」

「なんだと!」

「言っておくぞ。〈英雄〉なんて、そんないいもんじゃない」

 そう言い残し、手すりに手をかけながら階段を下りていく。

「なんだよ、あいつ……くそっ!」

 やってられるか、と一度はモップを放り出したが――「妥協はするな」という言葉が耳の奥でこだまし、歯噛みしながらも再びモップを手に取った。

「くっそ……ふざけんな。馬鹿にしやがって」

先ほどよりも念入りに、床を磨いていく。「ちくしょう」だの、「今に見てろ」だのと毒づきながら、何度も何度もモップを往復させた。


 皮むきと掃除を終えた頃には、とっくに正午を過ぎていた。

 カナエがまかない(塩っ辛い握り飯と、卵焼きと、鶏の唐揚げ)を作ってもらったので、ようやくひと息つけると思っていたが――甘かった。今度はミルとアイロとで買い出しに行くよう、言いつけられたのである。

 城下町では大勢の人々がひっきりなしに行き交っていた。

 ミルは人々との合間を器用にすり抜け、あちこちを指差している。

「鐘のあるとこが教会でしょ。あっちは酒場で、あそこが診療所。それでね……」

「まったく。なんで俺まで……」

「それはこっちの台詞だっての」

 アイロとムトが睨み合うが――二人の間にミルの手が挟み込まれた。

「はーい、そこまで。無駄口叩かないの。ほら、あそこが八百屋だよ」

 軽い足取りのミルに、二人は渋々ついていった。

八百屋は〈のんびり〉と同じ二階建ての木造建築だが、こちらの方が規模は小さい。一階部分がまるまる商店で、軒先に並んでいる野菜はどれもみずみずしい輝きを放っていた。

野菜を売っている初老の男性がミルに気づくと、嬉しそうに眉を上げた。

「おお、ミルちゃん! アイロも! それに……その子は誰だ?」

「こんにちは、おじさん! この子はムトっていって、今日から〈のんびり〉で働いてもらうことになったの! 〈英雄〉を目指してるんだよ!」

「おい、ぺらぺら喋るなよ!」

「ほぉ、酔狂なことだ」

「それよりもおじさん、今日のおすすめは?」

「ああ、それならトマトだな。今朝の採れたてだ」

「じゃあ、それ下さい! ええっと……二十個ぐらい!」

「へいへい、ちょっと待ってな。他には?」

「ニンジンとー、タマネギかな。どっちも三十ぐらいで!」

「相変わらずよく買うねぇ。それなら、リンゴとかはどうだい?」

「おまけしてくれるなら買うよ!」

「ミルちゃんにはかなわないな! わかったよ、ちょっとおまけするよ」

「ありがとう! じゃあムト、お荷物よろしくね!」

「おれかよ!」

「アイロやか弱い少女に、重いものを持たせるつもり?」

「どこが、か弱いんだ……」

「……なんか言った?」

ムトは無言で、紙袋に収まった両手いっぱいの野菜を受け取った。

「毎度、どうも!」

「またね、おじさん!」とぶんぶん手を振る。

「じゃあ、次は肉屋ね!」

「まだ買うのかよ……」

「当ったり前じゃない。山ほど食べる人もいるんだから、多すぎるってことはないの」

 その後もミルを先頭とした三人は肉屋、養鶏場、ついでに魚屋へと赴いた。その度にムトの背負う皮袋の重さが増し、真っ昼間ということもあって、額には汗が滲んだ。

「あそこは兵舎で、その隣が訓練場! あっちは氷屋さん! あとねー……」

 次々と案内していくミルを、人々は皆、温かく迎えてくれている。

「皆、ミルのことが好きなんだな……」

「それもあるが、ミルは交渉上手でな。ああやってうまくおまけしてもらっている」

「へぇ……」

 ミルが最後に足を運んだのは鍛冶屋だった。熱気は禁物とミルが言うので、ひとまず向かいの民家に荷物を預かってもらう。そこの住人も快く、引き受けてくれた。

 鍛冶屋に足を踏み入れると、むわっとした熱気が肌をなぶる。

禿頭の男が鬼気迫る形相で、何かを叩いている。とても声をかけられる雰囲気ではないのだが――横目でミルを捉えるなり、いきなり顔をほころばせた。

「ミルじゃないか、待っていたぞ!」

「こんにちは、グルドのおやっさん! 頼んでいたものは?」

「ああ、ちゃんとできてるよ。……おい!」

奥から妻と思しき女性が、布にくるまれた包丁を持ってきた。物静かな女性で、初対面のムトにも優しく微笑みかけている。どうやら無口な人であるらしい。

ミルは包丁をひとつひとつ確かめ、「うん!」と満足そうにうなずいた。

「相変わらずいい腕だね! これならおかみさんも喜んでくれるよ!」

「まったく、ミルは人をおだてるのが上手だな!」

 グルドは豪快に笑い――ふと、ムトに気づく。ムトにというよりは、彼の腰に差してある剣に興味を抱いた様子だった。

「ミル、こいつはなんだ?」

「ムトっていうの! 〈英雄〉を目指しているんだよ!」

「へぇ、〈英雄〉ねぇ。……坊主、その剣をちょっと見せてみな」

「あ、ああ……」

鞘から剣を引き抜いて、手渡す。

刃こぼれした剣をまじまじと眺め、「坊主、この剣はどこで手に入れた?」

「戦場でだよ」

「なるほど。だが、こんな剣でよくもまぁ〈英雄〉になろうだなんて思ったもんだ」

 ぐっ、と一歩前に出ようとしたムトだったが、後ろからアイロが肩を押さえてきた。思いの外力が強く、驚くと同時に堪える外なかった。

ひとしきり店内に視線を巡らしてから、「なぁ、ここ鍛冶屋なんだろ?」

「見ればわかるだろうが」

「じゃあ、おれの剣を直してくれよ。あんたならできるんだろ?」

「まぁ、できなくはない。だがな……」

 グルドはアイロと視線を交わし、彼の表情から納得したようにうなずく。それから剣をムトに返し、「悪いな。引き受けることはできねぇ」

「なっ、なんでだよ!」

「悪いことは言わねぇから、その剣を捨ててこい。子供が持つには過ぎたおもちゃだ」

「なんだと! どいつもこいつも子供子供って……」

「ムト、どうどう。どうどう」

「おれは馬じゃねぇ!」

 ムトとミルとの掛け合いをよそに、アイロが前に出て頭を下げた。

「申し訳ない、おやっさん。礼儀のなっていない子供で」

「ああ、いいってことよ。お前さんが教えてやればいいだけの話だ。だろ?」

「……気が向けば、ですが」


〈のんびり〉に戻る途中――ムトの機嫌はますます悪くなっていた。

ぎりぎりと歯を食いしばる彼を尻目に、ミルは小さなあごに指を添える。

「ねぇ、ムト。どうしてムトは〈英雄〉になりたいの?」

「どうしてって……」

 気まずそうにアイロの顔色を窺うが、応じる素振りはなかった。

 ためらいながらもムトは、「おれの母さんは体が弱いんだ」

「おれの村にはなんもない。大人たちは毎日毎日、畑仕事ばっかり。〈英雄〉なんてひと握りの奴にしかなれないとか、そんなことよりちゃんと働けとしか言わない。でもよ、普通に働いたって、その先に何があるっていうんだ。だからおれは〈英雄〉になって皆を見返してやる。そんで、母さんに楽をさせてやるんだ」

「ふーん……」

「なんだよ?」

「いや、別にぃ」

 それまで黙っていたアイロが急に、「ムト」と呼びかけた。

「それは本心か?」

「当たり前だろ」

「じゃあ、ムト。言ってやるよ。今のお前じゃあ〈英雄〉になれっこない」

「!」

「ミル。俺は先に帰る。仕込みがあるからな」

「はいはーい、了解!」

 歩き去っていくアイロの後ろ姿を見、「なんだよ、あいつ!」

「やっぱ、あいつ嫌いだ」

「アイロはアイロなりの考えがあるんだよ。……アイロってね、元は戦士だったんだ」

「え?」

「足の怪我がきっかけで引退したの。でも、今もめちゃくちゃ強いんだよ。だからアイロから色々教わったら? 戦い方とか」

「い、嫌だよ。あんな奴から教わるなんて。それに、あの足じゃまともに戦いなんか……」

「でも、今のムトよりずっと強いよ。それだけは絶対」

「絶対って……なんでそう言い切れるんだよ?」

「さーぁ、なんでだろうね?」

 くるりと身を翻し、ミルはそのまま歩き出す。

 納得できなかったが、ムトは仕方なくミルの後についていった。


 その夜――仕事がひと段落ついた頃に、ムトはシャワーを浴びた。それから小さな部屋のベッドに頭から倒れ込む。

「くそっ、毎日こんな感じなのか。こんなんで〈英雄〉になれるのかよ……」

ぐるりと仰向けになり、しばらく天井を眺めていたところで――窓の向こうに、小さな明かりが灯るのが見えた。身を起こし、窓に顔を寄せると、カナエがランプを手にどこかへ向かおうとしていた。

「何をやってんだ、おかみさん? ……まさか?」

 ムトは部屋から出、足音を立てずに〈のんびり〉を出た。民家や商店の陰に身を潜ませながら、カナエの後をつけていく。周囲は薄暗いが、彼女の足取りに迷いはなかった。

 そして――辿り着いた先は教会だった。

 カナエはそのまま、中に入っていく。しばらく経ってから窓から覗いてみると、カナエは祭壇の前で、長い椅子の端っこに座って何かを祈っている様子だった。

「何をやってるんだ?」

「それはこっちの台詞だ」

 突然降りかかってきた声に、ばっと振り向く。すぐ後ろにアイロが立っていて、咎めるようにムトを見下ろしている。

「覗き見とは感心しないな。なんのつもりだ?」

「う……」

 慌てて左右に視線を巡らしたが、とても誤魔化せるような雰囲気ではない。

「そ、その……泊まった人を〈英雄〉にするためのなんかをしてるかもって……」

「あるか、そんなもの」

「じゃあ、おかみさんは何をしてるんだ?」

「お祈りだよ。ああやって、泊まった人の無事を祈っているのさ。毎日な」

「毎日? それで何か変わるのか?」

「さぁな。〈のんびり〉に泊まったとしても、皆が皆、〈英雄〉になれるわけじゃない。中には怪我をする奴もいるし、命を落とす奴だっている」

「じゃあ意味ないじゃないか」

「本当にそう思うか?」

 カナエは先ほどと変わらず、お祈りを続けている。ムトのいる場所からでは背中しか見えないが、それでも懸命に祈ってることは疑いようもなかった。

「俺も、最初は何をやってるんだろうって思ったもんだよ」

「……?」

「だがな、よく考えてみればそれしかできないんだ。泊まった人がその後どうなるかなんて誰にもわからないし、俺たちがどうにかできるようなことでもない。おかみさんは誰よりもそれを理解しているから、ああしているんだ」

「…………」

「俺たちの仕事は人を泊めて、美味い料理と寝床を用意して、きちんと送り出すことだ。それ以上でも以下でもない。だがな、その仕事すら全うできないようでは、例え〈英雄〉になれたとしても長くは続かない」

 ムトは唇を噛み、うつむいた。

アイロの言葉はその通りだった。ムト自身、それを認めるのが悔しかった。昼間でのミルの言葉を思い出し――次に口を開くまでにしばらくの間と、勇気が必要だった。

「……なぁ、アイロ」

「なんだ?」

「あんた、今のおれじゃあ〈英雄〉になれないって言ったよな?」

「ああ」

「じゃあ……お、おれに戦い方を教えてくれよ。あんた、おれより強いんだろ?」

「…………」

 薄暗闇であることと、ムト自身がうつむいているのとで、アイロの表情を窺い知ることはできなかった。しかし、それでも何かを考えていることだけは察せられた。

 やがて、仕方ないと言わんばかりにアイロがため息をついた。

「言っておくが、俺は厳しいぞ」


 その翌日の昼下がり。

城下町からほど近い草原にて、ムトは剣を抜いていた。その後方ではアイロが、そしてムトの眼前には牙をむき出しにしたウサギが身構えている。

「まずは牙獣(がじゅう)からだ。こいつを倒せないようでは話にならない」

「そんなの子供だって知ってらい! 見てろよ! ――って、うわっ! 速ッ!?」

「牙獣は獰猛な奴が多い。一番弱い奴でも、その気になれば人を食い殺せる」

「怖いこと言うなよ! ……って、痛ぇ! 噛まれた、噛まれたぁッ!」

「やれやれ……」


「次は軟獣(なんじゅう)だ。こいつは剣で切ると分裂する。打撃は一切効かない」

「じゃあどうしろってんだよ! なんかブヨブヨしてるし! って、うわああッ! 食われてる、食われてる! 気持ち悪い! ネバネバするし!」

「……何のために、火打石と油を渡したと思ってるんだ?」


「うわああああああッ! なんだこいつらはああああッ!?」

「そいつらは蟲獣(むじゅう)だ。一匹一匹はたいしたことないが、群れで襲ってくる習性を持つ。とにかく雑食で食欲旺盛。たかられたら逃げる術はほとんどないと思え」

「言ってないで助けろよ! うわ、来るな、来るなぁああああ!」

「……前途多難だな」


 夕方に差しかかる頃、アイロと傷だらけのムトは〈のんびり〉へ戻った。

ロビーに足を踏み入れたところで、人々が口々にささやき合っている。

「魔の山に竜が戻ってきたらしいぞ」

「〈英雄〉にやられたんじゃないのか?」

「いや、あの時は倒しきれずに撃退しただけって聞いたぞ」

 ムトは不意に、アイロの顔がこわばっていることに気づいた。全身から立ち上るただならぬ気配に、ごくりと息を呑む。

「どうする? このままここにいたら……」

「どうするったってよ。城の兵士たちでどうにかできるのか?」

「わからんよ、そんなの。〈英雄〉ですら撃退がやっとという相手なんだ」

 なおも不安を口にし続けている人々の姿が、なんだかムトには腹立たしかった。考えるよりも先に丸型のテーブルに飛び乗って、勢いよく剣を振り上げる。

「何を恐れてるんだ! 大丈夫だっての! 竜なんておれが倒してやる!」

 そう意気込んだものの、周りの反応は冷たかった。というより、ほぼ無反応に近い。

誰からも注目されていないことに、ムトは顔を赤くした。

「くっそ、見てろよ! なんなら今すぐにでも……」

「おやめ!」

そう言ってカウンターから出てきたカナエの顔は、いつになく険しかった。

「あんたが行ったところで、無駄死にするのがオチさ」

「そんなのやってみなきゃわからないだろ! 死ぬのなんか怖くない!」

「ムト、お前……!」と声を荒げたアイロを、カナエは素早く手で制する。そのまま腰に手をつけて、「それなら」とはっきり告げた。

「ムト、今すぐこの場であたしを倒していきな」

「え?」

「女一人吹っ飛ばせられないようなら、たかが知れているからね」

「う……」

「さぁ、どうする。やるのかい? やらないのかい?」

 気づけば、周囲の人々が二人のやり取りに注目していた。その目はムトの勝利を確信していないことは明らかで――何よりカナエに気圧された自分が、惨めだった。

「わかったよ……」とテーブルから降りる。

「やめればいいんだろ、やめれば」

「それでいいのさ。さぁ、わかったら仕事に戻りな」

「……わかった」

 とぼとぼと厨房に向かう。

その途中でミルとすれ違ったが、ムトはまともに顔を合わせられなかった。


 月明かりの下、ムトは〈のんびり〉の小さな庭で、一心不乱に剣を振るっていた。

 とても寝つける気分ではなかった。幾度なく素振りを繰り返しても、どれだけ汗を流しても、少しも気分が晴れることはなかった。

「精が出るね、ムト」

 振り返ると、ランプを手にしたカナエが立っていた。

「そんなに汗をかいて、まったく。喉が渇いたろう。着替えてから何か飲んでいきな」

「……わかった」

 言いつけ通り着替えてから、食堂へ向かう。

さほど広くない円形のホールで、壁には多くの似顔絵が貼られている。

カウンターの隅に落ち着くと、カナエがすっとグラスを滑らせた。ミルが交渉でおまけしてもらった、ブドウを絞ったものだ。

 カナエは自分のグラスも用意し、とくとくと酒を注いでいく。「ほれ、乾杯」とグラスを持ち上げ、ムトも気のない素振りでかち合わせた。ひと口だけ飲むつもりのはずが、舌触りのいい感触とその冷たさに、一気に飲み干してしまった。

ぷはっと息を吐くと、カナエが慈しむような目で見つめてきていた。

「さっきは悪かったね。……おかわり、いるかい?」

「い、いや……その、ああ……」

 遠慮がちにグラスを差し出すと、カナエは気前よく注いでいく。

「アイロとミルから大体のことは聞いたよ。……あんた、父親は?」

「いない。飲んだくれの、ろくでなしだった」

 半分まで飲んでから、ムトは続ける。

「母さんにも、妹にも弟にも暴力を振るうような奴だった。で、ある日ふらりとどっかに行って、それっきり。今はもう親父だなんて思ってない。……よくある話だろ」

「まぁ……よくあるといえば、よくある話だね」

カナエはそれ以上、何も言わなかった。

同情されているのかさえわからず、ムトは落ち着かなかった。

「な、なぁ。おかみさんはどうして、宿屋をやってるんだ?」

「さぁ、どうしてかな。あたしの母さんもおばあさんも、ずっと宿屋をやっていた。だからというわけでもないんだけどね……これでも、昔は冒険家になるって夢があったんだ」

「……叶わなかったのか?」

「いや、そうじゃないのさ。自分の夢よりも、大切なことがあるって気づいたからかね」

「それってなんだよ?」

「それは内緒さ」

 それよりも、とグラスを置く。

「ムト、よくお聞き。戦いってのはね、獣や竜と戦うってことだけじゃないんだ。働くことも生きることも、立派な戦いなんだよ」

「……?」

「わからないって顔をしているね。でもまぁ、今はそれでいいのさ」

 ぐっと背筋を伸ばし、「ああ、くたびれた」

「あたしはそろそろ寝ることにするよ。ムト、戸締まりお願いね」

「あ、ああ……」

「じゃあ、おやすみ」と背中を向け、ひらひらと手を振って立ち去る。

残されたムトは、「戦い……?」とひとりごちた。

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