きじょうの空論
雨野 優拓
第1話 藤崎華という女
僕の名前は、間島俊。公立の中学校に通う二年生。自慢じゃないが、テストの成績は良い方だ。上から数えて五本の指にはいつも入っている。
授業は真面目に聞いてノートもしっかり取る。家に帰ってからもその日の復習と翌日の復習を欠かさない。それを毎日コツコツと続けてきた。
努力は必ず報われる。昔の人は良いことを言ったものだ。
けれど、1つだけ気にくわないことがあった。
黒板の前に立ち授業を行う先生に顔を向けたまま、目だけをすこし横に動かすと僕の視界にその気にくわない原因が映る。
僕の席から斜め右前方に座った黒髪ロングの女性徒。彼女が僕の悩みの種だった。
何を考えているのか分からない表情で退屈そうに、教壇に立つ先生の話に耳を傾ける彼女。……あくびをした。よく見れば机の上に教科書とノートは見えるが、筆記用具の類いは見えない。鉛筆の1つも出さずに一体何をしているのだろうか。
彼女の名前は藤崎華。
彼女の何が気にくわないのかっていうと、あれでいて僕よりテストの成績が良いということだった。いや、それどころじゃない。毎回のテストで彼女は学年1位の座を譲ったことがなかった。
藤崎とは大して話したこともないし、家で勉強をしているかなんて知るわけもない。けれど、彼女は普段からああなのだ。あの授業態度を見て、真面目に勉強しているとは到底思えない。
きっと藤崎は僕のことを内心バカにしているんだ。僕がいくら必至に勉強しても彼女は悠々とその上を行き、追い付くことができない。それを見てほくそ笑んでいるに違いない。ほら、またあくびしてるし……。授業なんて聞くまでもないとでも言いたいのか。
僕は視線を黒板に戻す。
これ以上藤崎に気を取られていては彼女ではなく僕の成績が下がりかねない。もしかしたら、それこそが藤崎の狙いかもしれない。僕の気を散らして敵を蹴落とそうという。そういう作戦なんだ。そうにちがいない。でも残念、僕はその手には乗ってやらない。
黒板に書かれた文字を机にかじりつくようにして写し取る。写し終わり、胸の前にノートを広げて再確認。うん、綺麗に書けてる。
それからもう一度、藤崎の方を見やる。
彼女は相変わらず退屈そうに顔の横に垂らした髪の毛先をクルクルと指で弄っている。黒板に書かれた文字が今まさに消されているというのに、その一つも書き写していないであろう彼女はどこ吹く風だ。
黒板がまっさらな状態に戻った。それから間もなく授業終了のチャイムが鳴った。
結局、藤崎がペンを握った姿を見ることは一度もなかった。
「藤崎さんは授業中あんななのに、どうして学年一位なんだと思う?」
給食の時間が終わって昼休みになると、僕は教室の窓枠に腰を乗せて座る友人の中野友也(なかのともや)にそう訊いてみた。
「あんなって、どんな?」
「どんなって……藤崎さん、授業中は一度もペンを持って文字を書こうとしないんだよ」
「へぇ……そうなんだ」
中野はいかにも興味なさげに適当な相づちを打った。
「そうなんだ、って」
こいつは変だとは思わないのだろうか?
僕は目の前の中野を呆れた目で見返した。
「僕がどれだけ勉強してるかは知ってるだろ?」
「ああ。毎日三時間以上やってるんだっけ。よくそんなにやってられるよな。俺なんて三十分も集中できないよ」
「時間をかけてるのが必ずしも良いとは思ってないけどさ。それでも、これだけやってるんだ。それに授業もしっかり受けてる。なのに、だ。家ではどうだか知らないけど、授業を真面目に受けてない藤崎さんがいつも僕より成績が良いんだ。おかしくないか?」
何度考えても納得がいかなかった。
努力は報われなければいけない。やるだけ無駄だなんて、そんなことがあっていいはずがない。
「じゃあなに。藤崎さんがカンニングしてるって、お前はそう言いたいのか?」
「……そうは言ってないよ」
正直に言うと、何度か不正行為を疑ったことがあった。
けれど、もし仮に藤崎が不正行為をしていたとしたら恐らく彼女の成績はもっと低いものになっているはずだ。社会や理科のような暗記問題が多い教科だけならまだしも、藤崎は国語や数学のテストにおいても僕を上回っている。そういった思考力が問われる問題ではカンニングペーパーを用意したところで高得点を取れるとは思えない。だから藤崎が不正行為をしているとはもう思っていない。
「じゃあ単に地頭が良いんだろ。一度教科書を読んだだけで全部理解出来ちゃうとかさ、テレビとかでたまにいるじゃん」
「そうなのかなぁ……」
そういった類いの天才がこの世に存在しないとは言わない。でも、藤崎がそうだとは思えない。というより、そんな存在が身近にいるとは思えなかった。それほどの才能があったら親が普通の公立の中学に通わせるだろうか。もし僕がそんな子どもの親だったら、どこかの有名な私立にでも通わせていると思う。
「――じゃあさ、俺が訊いてきてやるよ。家でどんな勉強してるのかって」
「え」
中野は突然そんなことを言い出した。
「あ、ほら。ちょうど藤崎さん、教室に戻ってきたし」
藤崎の姿を見るやいな、窓枠から飛び降りて彼女の元に向かおうとする中野。僕は慌てて中野の制服の襟首を掴んで止めた。
「ぐぇっ」
中野の口から潰れたカエルみたいな声が漏れた。恨めしそうな顔を僕に向けてくる。
「いきなり何すんだ」
「それは僕の台詞だよ。藤崎さんに直接聞きに行こうとするなんて……」
「それのどこが悪いんだよ?」
意味がわからない、と中野は首をかしげる。
「あ」
何に気がついたのか、彼の口から声が漏れる。
「もしかしてお前、藤崎さんのことが好きなのか?」
「……はあ?」
こいつはいきなり何を言い出すんだ?
あまりの見当違いに呆れて何も言えずに言えると、それを図星と捉えたのか中野はニヤニヤと笑みを浮かべながら言葉を重ねた。
「だって、授業中もずっと見てたんだろ。藤崎さんのこと。それこそ、何をしているのかわかるほどに。好きでもなかったらそんなに見ないだろ」
「お前はバカか」
一つ大きな溜息をついてから僕は言った。
「それは、藤崎さんが僕のライバルだからだよ。敵情視察だ。偵察だ。それにずっと見てたわけじゃない。何回かだ。誇張するな。ちょっと黒板から目を離すと勝手に視界に入ってくるんだよ。不可抗力だ」
「へぇ……そう」
「そうだ。だから、ライバルに直接話を聞きに行くなんてできるわけないだろ」
「その、藤崎さんがお前のライバル認定されてるってこと、彼女は知ってるのか?」
「それは……知らないと思う」
藤崎が僕のライバルだというのはあくまで僕の中でという話だ。藤崎に直接、「お前は僕のライバルだ」なんて宣言したことはない。けど、普通そんなことは言わないと思う。皆、口に出さないだけで心の中では誰かしらを自分のライバルに見立てているはずだ。それがたまたま、僕の中では藤崎だったというだけの話だ。
「――ともかく、藤崎さんには絶対言うなよ」
「わかったよ」
表情は不満げながらも、中野は僕の言葉に首肯した。
それから話は別の話題に移り、少ししてから昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。五時間目の授業を担当する先生が教室に入ってくる。
午後の授業中も、チラリと横目で窺った藤崎は教科書とノートを広げているだけでペンを握ろうとしない。中野が言ったように、本当に教科書を一度見たり、話を聞くだけで全て頭に入ってしまう天賦の才を持っていたりするのだろうか。
すると、藤崎が身じろぎをした。そのせいで、視界の端の彼女と目が合った気がした。思わずついと目を逸らす。
そして中野の言葉を思い出す。
傍から見たら、僕が藤崎に一方的な好意を抱いているように見えるのだろうか。そんなつもりは全くもってなかったのだが、中野に指摘されたことでそんな考えが頭をよぎる。
……いや、やっぱりそんなことはない。だって僕はろくに藤崎のことを知らないんだ。そりゃあ整った顔立ちをしてるなぁとか、なんだか大人っぽいなぁとか思ったりすることはあるけど……。やっぱり違う。だって彼女は僕のライバルなんだから。好きとか嫌いとか、そういったのとは少し違う。
それから頭を横に振って、僕は意識を黒板に向けた。これ以上藤崎ばかりを気にしていたらそれこそ誤解を助長するようなものだった。
5時間目、6時間目と時が流れ、最後に帰りのホームルームが終わって放課後を迎える。
僕はすぐさま鞄を持って席を立つ。ホームルームで先生も言っていたが一学期最後の定期テストが数週間後に控えている。そのテストで、今度こそ藤崎を抑えて学年一位の座を勝ち取るため、いつも以上に勉強時間を増やす必要があった。
「じゃあな、中野。部活頑張れよ」
「おう」
部活に向かう準備をする友人にそう声を掛けて教室の出口に向かう。教室を出る間際、横目で藤崎の座る席を見ると彼女はそこに座ったまま本を読んでいた。
ずいぶんと余裕なものだ。今に見てろ。
そう心の内で言ってから僕は教室を出た。
昇降口で靴を履き替え校門をくぐり、いつもの通学路を通って家に向かう。なんら変哲もない普通すぎる通学路。何か言うべきことがあるとすれば、家を出てすぐの横断歩道の信号の切り替わりが少し早いくらい。遠目に歩行者信号が青に変わったのを見て走っても、ギリギリ間に合わないくらいなのだ。
どうしてそんなに切り替わるのが早いのかと考えると、思い付くのは面しているのが車通りの多い道だということ。車に乗れない身分としては、もう少し歩行者のことも考えてほしいものだ。
なんてことを考えていると、件の横断歩道に辿り着き、信号が変わるのを待ってそれを渡った。横断歩道を渡ってから少し歩けば僕の家が見えてくる。
「ただいまー」
そう言って僕は階段を上がって自室に向かう。
さて、勉強しますか。
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