粉砂糖

東美桜

君は甘味なんて嫌になったかもしれないけれど

「ただいまー」

「ん……おかえり」

 リビングに続く扉を開けると、キャラメル色の髪をした青年が視線を上げた。暖房が効いて快適な部屋の中、軽く羽織られたタータンチェックのカーディガンが目を惹く。ソファに深く座ってノートPCをいじっている彼に歩み寄り、俺はいつものように隣に腰掛ける。チョコレート色のダウンジャケットを脱ぎ捨てながら、彼の肩に頭を置いた。

「調子どうよ、白兎はくと?」

「よく見えるかよ。今日も今日とて、吐きそうで仕方ない」

「はは、そりゃ大変だね」

「心にもないだろ」

 白兎は俺の言葉を軽くあしらいながら、キーボードに指を走らせた。白くて細い指が黒いキーボードの上を踊る。その様子はまるでバレエダンサーのようで、俺はその舞いにただ釘付けだった。

「……お前、指きれいだよな」

「そうか?」

「そうだよ。飴細工みたい」

「よくできた喩えだな。お前、俺より作家向いてんじゃね?」

「またまた、ご冗談を」

 白兎の軽口にこちらも軽く返しつつ、俺は今度はノートPCの画面に目を向けた。文章作成ソフトの上に綴られるのは、繊細な文字の羅列。だけどそれはきっと、どんなケーキよりも甘いものなのだろう。


 古宮こみや白兎はくとは恋愛小説作家だ。

 小学生の頃から物語を書き続け、中学生以降は文芸部に所属して文章表現法をひたすらに磨いていたという。大学1年の時に応募した新人賞で見事大賞を射止め、それ以降は大学に通いながら恋愛小説作家として活動している。

「で、今日はどんなシーン書いてるの?」

「主人公とヒロインのファーストキス」

「うひゃぁ、また甘々だねー……大丈夫?」

「……」

 俺の問いに、白兎は応えなかった。思わず片手をそっと伸ばし、彼の細い喉を丁寧に撫でる。外に出たばかりで冷たい俺の指が、温かい白兎の喉に触れる。彼は一瞬びくりと震え、しかしすぐに膝の上のノートPCに目を落とした。細い指がキーボードを叩く音が、淡々と響く。

 ……だけど、そんなに淡々としているはずもなくて。


 ひぐっ、と彼の喉が醜い音を立てる。彼は思わず口元を押さえ、ぐっとえづくような声を上げた。俺は即座にノートPCを避難させ、彼を抱きしめる。指や喉と同じようにひどく細い身体を抱き寄せ、その口元にあてられた指をそっとどかした。握りしめた指はひどく震えていて、露わになった唇から白い結晶が漏れる。俺は即座に彼の唇に自分の唇を押し当て、塞いだ。

「……っ……けほ、こほっ……」

「……ん……っ」

 触れ合った唇を介し、白い粉が俺の口腔を満たす。思わず咳き込みそうになるけれど、俺は粉雪のような白を舌で絡め取り、飲み込んだ。白兎の苦しむ顔を視たくなくて、俺はぎゅっと目を閉じる。舌を満たす味は、甘い、ひどく甘い。蜂蜜のように、練乳のように……いや、これは白くて甘い、粉砂糖の味。

「けほ、けほっ……かはっ……」

 白兎が苦しそうに咳き込んで、俺は彼の背中を丁寧にさする。蕩けそうなほどの、痺れそうなほどの甘味。ある種の毒ともとれる暴力的な甘さだけれど、それを飲みこむ俺は天にも昇るような心地で。あぁ、もっと。もっと欲しい。もっと、君が吐き出す甘さを感じていたい。


 ……どのくらい、そうしていただろうか。

「……はぁ……はぁ……うぅ……」

 触れ合っていた唇が、ふと離れる。恐る恐る目を開けると、白兎は疲れ果てたように俺に身を預けてきた。熱に浮かされたかのように荒い呼吸を繰り返す彼を、俺はさらに強く抱きしめる。白い耳に口を寄せ、そっと囁いた。

「……大丈夫? 白兎」

「……ああ……大丈夫……」

 ぐったりと重い身体で、白兎は縋るように俺を抱きしめる。何度も荒い息を吐きながら、彼はどこか泣きそうな言葉を吐き出した。

「……治らないかな、……」


 ――古宮白兎には、持病がある。

 咽喉糖被型嘔吐性疾患と名付けられたその病は、世界的に見てもかなり珍しい症状をもっている。患者は喉に糖分を生み出す腫瘍を持ち、甘い状況に見舞われると粉砂糖を吐き出す。それは例えば恋人とのひとときに、恋愛ドラマや少女漫画を鑑賞しているときに。そして最も症状がひどくなる事例が、恋愛を扱う創作者――小説家、漫画家、俳優や声優、ひいては歌い手に至るまで――だ。治療法は確立されておらず、塩味のきつい内服薬で症状を緩和することしかできない。

 俺は白兎をそっとソファに寝かせて、熱に浮かされたかのように紅い頬を見つめる。流石に体調が悪いのだろう、彼はぼんやりとした瞳で俺を見上げた。言うことを聞いてくれない喉から必死に息を吸い込み、吐き出す白兎。そんな子供のような必死さが愛しくて、俺は彼のキャラメル色の髪をそっと撫でた。

「無理しないでね」

「……して、ねぇよ」

 荒い息の間隙に、彼の辛そうな声が響いた。メレンゲのように吐息を含んだその声に、俺の喉がふるりと震えた。ぐっと唇を引き結び、彼の紅く染まった頬に手を這わせる。熱に浮かされたように熱い頬、夜の氷柱のような俺の指。

「……ねぇ、白兎。辛いなら俺のこと、ちゃんと頼ってね」

「……わかっ、てるよ……へへ……」

 薄い笑みを零し、彼は静かに目を閉じた。まるで白い花畑の中、眠りに落ちる姫君のように。俺は彼の頬から手を離し、その手をそっと握りしめた。肌の内側が燃えているかのように熱い手のひら、蝋燭ろうそくのように折れそうな細い指。自分の指をそっと絡め、そっと目を閉じる。


『ねぇ、何でそこまでして恋を描くんだ?』

 半年がたった今でも脳裏に焼き付いている。そう問われた時の白兎の表情――見開いた瞳、震える肌、息を呑む音。彼はどこか悲しそうに俯き、病で親を喪った子供のように薄く微笑んだ。その表情だけが何よりも雄弁で、その姿はまるで白日の下の雪だるまのように儚くて。そう、まるで叶わない夢を追いかけてしまう少女のように。

 想いを伝えたら、きっと彼は困るだろう。最悪、病気が悪化してしまうかもしれない。だけど、と俺は彼の手に絡めた指を強めた。そっと目を開き、ソファに倒れた彼を見つめる。眠ってしまったのだろうか、その表情は胸焼けに耐えるようで、それでいて幸せを噛み締めるようで。そんな彼と向かい合うように身体を倒し、俺は至近距離で彼の綺麗な肌を、寝顔を見つめる。


 君の吐き出す砂糖は、天国の泉のように甘い。

「……好きだよ。なによりも甘くて、頑張り屋さんの白兎のこと」


 白兎は応えない。永遠の眠りに落ちた姫君のように。彼と指を絡ませたまま、俺は甘く痺れる意識を微睡みに溶かしていった。

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粉砂糖 東美桜 @Aspel-Girl

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