第62話 二人の空間
激しくそのドアは開いた。
そしていつも見せる完全無比で誰にも隙を見せないはずの上條裕子が”余裕の欠片も内表情”でそのドアから飛び出して来た。
勢いのついたその身体は、私の後ろに隠れるように引っ込んでしまっていた維澄さんの姿を見つけてようやく止まった。
私は上條社長が”息をのむ”気配を間近で感じた。上條社長がこんな必死の表情をした事に私は驚いた。改めて上條社長にとっての維澄さんがどれだけ大切な存在なのかを見せつけられた気がした。
私はすぐに維澄さんに顔を向け、彼女の表情を確認した。
目を瞑って下を向いてしまっているだろうと想像していた維澄さんは、意外にも上條社長をしっかり見つめていた。それはまるで熱い視線を送っているようにも見える。
そんな私が想像しえなかった維澄さんの表情を見て、心がザワザワと漣をたてる。
「ほ、ほんとに……維澄なの?」
さっきはあれほどふてぶてしい態度で強引なやり方で維澄さんをこの場に引きずりだして張本人の上條社長なのに、その態度に全く余裕がない。
そして彼女の震える声は”維澄さんが目の前にいること”を未だ信じられていないという響きを持っていた。
私は焦燥感で胸が苦しくなってきた。
維澄さんの表情が、全く想像していたものと違う。いやもしかするといままで”そうあってほしくない”と無理に心の奥に押しこんでしまっていた想像がふつふつの沸き起こる。
維澄さんの熱い視線と少し紅潮した顔。
「ゆ、裕子さん」
そう一言言った維澄さんの瞳にはもう涙があふれている。
私はそんな維澄さんの表情を見て胸がズキリと痛んだ。
苦しい……
維澄さんを全部この人に持っていかれてしまいそうな恐怖。
「維澄……ゴメン」
意外だった。
先に謝ったのがなんと上條社長だった。そしてこともあろうか上條社長の目からも涙がこぼれ始めていた。
さっき私に見せた強気の表情そこにはなくただただ優しく美しい女性がそこにいた。
「……私のほうこそ迷惑かけちゃって、ゴメンナサイ。」
維澄さんは腰から身体を曲げて深々と頭を下げた。そして私からは下を向いて表情は見えなかったが大粒の涙がぽたぽたと廊下のカーペットに落ちるのが見えた。
はは言えたじゃない。維澄さん。偉いぞ!
なんだ全然大丈夫じゃない。
そうだった。
忘れていた。
この二人の関係って……私が想像するよりずっと深いものだったんだ。
”維澄さんはただ過去の過ちから逃げている”
”だから上條社長を避けている”
確かにそれは間違いない事だったのだと思う。でも私はこの二人の溝はもっともっと深いもので簡単に埋まるものではないと勝手に思い込んでいた。しかし、そう思っていたのは自分本位の誤った希望的想像だったことを思い知った。
あんなに気合入れてきたのに、今のこの二人に挟まれたら私の出る幕なんてどこにもなかった。
はは、なんだ……私バカみたい。
二人は7年もの間、ずっと会っていなかったはずだ。でも一言交わしただけでその7年間の空白が一瞬で埋まってしまったように見えた。
目に見えない沢山のやり取りが一瞬で終わってしまった。そんな濃厚な空気感を私はヒリヒリとした痛みとして感じていた。
私が決して入れない二人だけの空間。
カリスマ経営者と元カリスマモデルという雲の上の二人。
私はただの田舎の女子高生だ。
住んでる世界が違いすぎる。
そんなことをずっと忘れていた。
私は維澄さんが急に遠くに行ってしまったように感じた。
そして自分が全く場違いなところに来たしまったと言う居心地の悪さを感じた。
「維澄……元気にしてたの?」
上條社長は私が見たこともない優しい目で維澄さんにそう尋ねた。
維澄さんは少しハニカミながら……
「うん、最近は……」
そこまで言って維澄さんは、急に私の顔見た。
私は今遠い存在に感じていた維澄さんが、急に近しい視線を向けてきたことで……”そのギャップ”に激しくうろたえてしまった。
私は全身がカーッと熱くなり心臓の音が聞こえるくらいに激しく脈打ってしまった。
そしてそんな維澄さん見つめる上條社長は……
私の方をチラと見てから……
「そっか」
とやさしく微笑んだ。
全てが終わったように思えた。
これが自分にとって良かったのかどうか考える余裕すらない。自分の想像ばかりが空回りしていたが二人のすれ違いを埋めるのに私なんてなんの役にもたたなかった。
でもきっと維澄さんにとってはいい結果だったに違いない。維澄さんの今まで見せたこともない穏やかな表情を見れば明らかだ。
私がどうとか、この場ではどうでもいい。そんな自己満足なだけの想像をしても仕方がない。
頭ではそれは分っていたが、私は自分の落とし所のない感情に顔を歪めていると……
ふと、同じように”浮かない”顔をしている櫻井さんの視線が気になった。
その視線を先には維澄さんの左腕があった。
”なんだ?”
と思って私も維澄さんの左腕を見ると……
維澄さん、しきりと左前腕を右手で撫でている。
きっと無意識だと思うけど。
私はまた意味のわからない不安感が擡げて来た。
なんで左腕さすってるの?
もしかして”あの傷”の記憶が無意識に維澄さんの心に飛来しているのか?
やっぱり上條社長が引き金で?
まさか?
ずっと和やかなムードだったのに。
でも人の僅かな行動を気味の悪いほどに読み取る櫻井さんの表情が曇っているのがどうにも気になる。
すると櫻井さんは私の視線に気付いた。
すると……
ツツッと私に静かに近づいてきてこっそり耳打ちした。
「そろそろ終わりにしたほうがいい」
「え!?」
私が驚いてそう言うのと同時に櫻井さんが口を開いた。
「上條さん、これくらいにしておきましょう」
「あ?なんだ櫻井?……急に割り込むな」
「いや、ちょっと……」
櫻井さんは眉間に皺を寄せて、上條社長に厳しい視線を投げた。
維澄さんはいきなりのことで”きょとん”としてしまった。
確かに腕をさすっている姿は気になったが、その表情は和やかなままだった。
問題があるようには見えない。
でも櫻井さんのこの表情……なんなんだ?
いつのまにか……
和やかだった場に緊迫した空気が流れはじめていた。
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