第31話 上條裕子
「維澄?私モデルやめようと思ってる」
上條裕子は、思い切った様子で唐突に切り出した。
「え!?な、何を言いだすんですか!急に?」
維澄は上條の方に向き帰り、その美しい切れ長の目を大きく見開いきながら驚きの表情を見せた。
「私ってプライド高いじゃない?」
「そ、それがどうしたって言うんですか?」
上條の自嘲気味な言葉に維澄すこし苛立ちながら言い返す。
「だからモデルも一番じゃなければやなんだよ」
「どういうことですか?私は裕子さんが、今のモデル界でダントツで一番だと思いますけど?」
「まあ、今はそうだろうね」
「”今は”って?」
モデル界のカリスマ”上條裕子”
維澄にとってはモデル界の大先輩であり、維澄の憧れでもある。
モデルは競技とう訳じゃない。それゆえ一番とか二番などと順位を決められる訳ではないが、少なくとも維澄からすれば間違いなく上條裕子こそモデル界のNo.1であった。
上條裕子と碧原維澄が初めて出会ったのが、当時22歳の上條が真夏の渋谷スクランブル交差点で当時高校三年生だった維澄に声を掛けたのがきっかけだった。
「あたなモデルやってみない?」
上條は何の前置きもなく維澄にそう問いかけた。維澄は最初意味も分からずただ固まったしまった。
当時から上條裕子の知名度はカリスマモデルとしてかなりのものがあった。だからファッションに少しでも興味のある若い女性であればその姿を見れば上條と分かった。だから当然上條の顔を知る維澄はそんなカリスマモデルから突然、モデルに誘われば驚くのは無理もない。
しかし、維澄は当時から内向的な性格で人前に出ることを極端に嫌っていた。
だから維澄は直ぐに上條の申し出を断ろうとしたが、現実にはそうはならなかった。
維澄は一目で上條裕子というモデルの美しさに目が離せなくなってしまっていたのだ。
だから、上條が自分を必死に説得する姿を見ている内に維澄の心が傾いて行った。しかしそれは”モデルをやりたい”という思いよりも”この人ともっと一緒にいたい”という気持ちが強かった。内向的な維澄をほんの短時間で引き付けるくらいに上條裕子は魅力は絶大だったと言える。
果たして維澄は、それから間もなくして上條に見込み通り高校生モデルとしてデビューすることになる。
そんな風に維澄をモデル界に誘っておいて、たった半年もたたない内に、突如モデルを止めると上條は維澄に切り出したである。
維澄の不満はもっともと言える。
おそらく維澄は上條からの誘いでなければモデルになることはなかってであろう。しかも維澄がモデルになった動機にしてもモデルという職業に興味があった訳ではなく上條裕子に魅かれたからに他ならない。
維澄に言わせればきっと”ただ裕子さんの側にいたかっただけ”と答えるに違いない。
維澄の思い入れを差し引いても現実的に上條裕子を超えるモデルはいないといってよかった。
だから上條がモデルを止める理由としては説得力に欠けた。
しかし上條は、維澄にとっては驚くべきことを口にした。
「維澄?冗談だと思ってるでしょ?でも残念ながら本当だよ。モデルを辞めることも、私がもう業界で一番ではなくなることも」
「そ、それはどういうことですか?裕子さんより優秀なモデルがいるってことですか?」
「その通りだよ」
「だ、誰なんですか?そんな人いる訳ないですよ!」
「それがいるんだよ」
「ど、どこにですか?」
「今、私の目の前にだよ」
「……は?」
まだモデルになって日も浅い維澄に対して上條はそう言い切ってしまった。その表情からその言葉が決して維澄を揶揄っているものではないことは維澄も気づいていた。しかし当の維澄がそれをすぐに受け入れるのは困難であった。
「そ、そんな真面目な顔で冗談言わないでくださいよ!」
維澄は上條のゆるぎない表情に抗うように必死に抵抗した。
維澄の必死の抵抗に、上條は表情を緩めて少しトーンを優しくしながら穏やかに語った。
「維澄、そんな興奮するな。今の話は、ちょっとだけウソがあったな。別にモデルを辞める理由は、私が一番じゃなくなるのが原因ではない。ただ……維澄、あたなをプロデュースしたくなったのさ。私の今にとって最大の関心は自分がモデルをやることじゃない。あたなを業界一のモデルにすることだと気付いたんだ」
「な、何を言ってるんですか?いくら私が業界の事よく知らないからってからかわないでください。そんなウソで誤魔化さないでください!ホント怒りますよ!」
「ハハ、そんな恐い顔しないでよ」
上條は破顔して微笑みながら続けた。
「維澄?あなたね、自分で気付いてないと思うけどあなたほどモデルの才能に恵まれた女性は私は見たことないんだ。でなければ渋谷のど真ん中でいきなり声なんかかけないでしょ?」
「だから、そんな冗談……」
「維澄!!」
上條は優しい表情は崩さずに少しだけ語気を強めて維澄の言葉を遮った。
「嘘じゃない。本気なんだよ。私はどんなに頑張ってもおそらく近い将来、モデルに関してはあなたの足元にも及ばなくなる。でもそれは全然悔しくない。それよりも、あたなの才能が他の誰かにさらわれてしまうのは、それだけは絶対にやなんだ」
上條は、いつにない真剣な眼差しでそう語った。
その眼差しについに維澄は観念せざるを得なかった。上條が本気であることが分かったからだ。
「維澄、私はモデル事務所を立ち上げる」
「え?そ、そんな裕子さんまだ22歳で大学も卒業していない……」
「もう卒業だよ。私、就職活動する暇なかったでしょ?だからしタイミングとしては今なんだよ。幸い私はモデル業界は長いからそれなりに人脈もある。それに維澄、あなたさえいれば、間違いなく私は成功できる。」
「そ、そんな私が頼りみたいな言い方しないでください。私は半人前の高校生モデルでしかないんですから」
「フフ、そんなことはあたなが心配するところじゃない。私が認めたってことは間違いのない評価ってことなんだよ」
たしか上條裕子ののモデルに対する評価は、辛口かつ鋭すぎるがいつも的を得ていることが仰臥位でも知られていた。ファッション雑誌の編集部も新人モデルの評価を聞きたくてまず上條を尋ねた。
「だから維澄。あたなが私の事務所のモデル第一号になって」
維澄は話の途中から気付いていた。
上條が維澄をプロデュースするために事務所を起こすことに、全く困ることはないことに。
維澄にとってはむしろ叫びだしたいほどに嬉しかったのだ。
憧れの上條が自分をこんなにも頼って、維澄を他人に渡したくないとまで言ったことに歓喜した。
そんな維澄の気持ちは、ただの憧れというにはあまりにも強く燃えるように熱いものだった。
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