碧羅の天は狼月に恋をする
四十川 烈
生まれた時に受けるものが愛情だけとは限らない #1
「男子だろうか。なあ、そうであろう?」
口髭を蓄えた体格のいい男が、妻の大きくなった腹を、愛おしげに撫でながらそう言った。何度目か分からないその問いに、身体の弱い妻は幾分すぐれぬ顔色ながら、優しい声とそれに見合う笑顔で答える。
「ええきっと。あなたが毎日お祈りを捧げていらっしゃるもの。神様はきっと答えてくださるわ」
「おお、おおそうとも。ああ楽しみだ。お前を我が国の剣と仕立てるのが父の楽しみなのだ。どうか丈夫に、健やかに産まれてくれ」
「そうね、どうか、どうか健やかに。望めるならば屈強に逞しく――」
そんな穏やかな日常が幾許か過ぎた頃、妻が突如腹の痛みを訴えた。そう、陣痛だ。大急ぎで領地内の治癒術士、医師、産婆が集められ、妻緑色の髪を揺らしながら処置室へと入った。その扉の前を、同じく緑色の髪をし強い紫眼を持った、この土地の領主である男――フランチェスコ・カルーナ・プレラティが落ち着かない様子でそわそわと、上等な絨毯の上を行ったりきたりと忙しなく動いていた。その手は固く握り締められ、眉間には深いシワが刻まれ、今まさに我が子が誕生しようとしている興奮に苛まれているのか、はたまた体が弱く、子を孕んだだけでも奇跡だと、次の子は期待できないだろうとまで言われる程に身体の弱い、妻へ対する心配なのか。フランチェスコの顔色は優れず、表情もまた硬く険しいものだった。
彼はきっとこう願っているのだろう。勿論母子の無事、安全や健康は言うまでもないが、恐らく一番強く願っていること。それは――どうか、神よ。どうか我が家に跡継ぎを。どうか我が家の象徴たる緑髪紫眼を持ち、我が国の剣となれる屈強な男児を、と。
そんな、使用人すら声をかけるのを幅かれるような、ピリピリとした雰囲気を破ったのは、そんな戦場を彷彿とさせる雰囲気には似合わないほどに穏やかな声音だった。
「そろそろですかな」
聞き覚えのある声に、キツく目を閉じていたフランチェスコが思わず紫眼を見開いた。
「お、おお……コーション司祭……。そ、そうですな」
「はっはっはっ、なにもそんなに、険しい顔をなさることもありますまい。男児であろうが女児であろうが、母子ともに健康に、無事に生まれることが一番。そうでしょう、プレラティ侯爵」
声音と同じように穏やかに優しく笑う司祭に、フランチェスコが釣られたように、妻が処置室へと入ってから一時間ほどして初めて、笑顔を見せた。
「はは、まさしく……。頭では、分かっておるのですが、」
心では願ってしまう。そう続けそうになった彼の言葉を遮ったのは、ひとつの騒音。否――産声。
「産まれましたな。どうやら"子"は元気なようだ」
「お、おお……! 神よ、感謝します!」
我が子の無事に、ひとまずの安堵を。
そして開かれた扉。産婆の腕に抱かれたのはま白い布で包まれた赤子。布で遮られ顔は見えない――いや見えたところで、産まれたての赤子の性別などわかりもしないが――フランチェスコの視線がその布へと釘付けになり、産婆とおくるみを交互に見る。さながら『どっちだ?』と、今にも問い質したいのを我慢しているかのように。
それを悟っている産婆は、えらく勿体ぶったような、もしくはとても言い難いものを告るような、そんな重苦しい口調で「旦那様」と一言告げた。それに答えるように、フランチェスコが喉を鳴らして唾液を飲み込んだ。
「……ど、どちら、だ。産婆よ」
「元気な……」
ひとつの沈黙がその場に落ち、言い辛そうに言葉を区切った産婆が、意を決したように答える。
「お嬢様にございます」
「そして……、大変残念ではございますが、奥様が……」
その言葉は、フランチェスコの胸を穿つ杭となり深々とくい込んだ。ぎっ、と音を立てんばかりに拳を握り締め、何故、どうしてだと喚きたかった。だがそれでも我が娘の誕生を、唯一生き残ったその無事を、感謝した。祝福しようと、この手で抱こうと、妻の置き土産に愛情を渡さんと、産婆に近寄り、受け取ろうとした。そう、慈愛に満ちていた。希望する男児ではなかったが、小さな命と引き換えに、妻は崩御してしまったが、それでも無事生まれてくれた我が子に対する愛に満ち満ちていた。
その髪と目の色を見るまでは。
「な、なんだこの髪と目の色は!?」
とある王国、とある領主の屋敷の中に、
フランチェスコの張り上げた声に驚いたのか、赤子が大きく泣き出した。その驚きように、無理もないと言いたげな産婆の様子に、一体どうしたのかとコーション司祭が二人の手元を覗き込んだ。つまりは泣き叫ぶ赤子を真正面から見る形である。
「こ、この色は……!? この
「産婆を務めて三十年経ちますが……、こんな目は初めてお目にかかります」
三人が驚くのも無理はない。プレラティ侯爵家は、代々緑髪紫眼であるのだ。稀に夜のような黒髪や緑がかった青眼も産まれはする。庶民へと目を広げれば黒髪や赤い眼の者も居るのだろう。だがこの赤子はどうだ。妙齢の司祭、領地の産婆を三十年務めた老婆。そして数々の戦線を潜り抜け、広大な領地を収めてきたフランチェスコすら、その色味は見たことがなかった。
まるで燃え盛る紅蓮の焔のように、上へ行くほどに色が薄くなる炎のように、グラデーションがかった紅い髪。
「か、髪は、髪はまだわかる! ここまで鮮やかではなかったが、赤毛の者を幾人も戦場で見た!! しかしこの、この目は!? この目はなんなのだ!?」
涙で潤んだ大きな瞳。その色は――金。
例えるなら夜半に浮かぶ満月のような。顔が映るほどに磨き上げた金貨のような。英雄の胸に輝く勲章のような。底知れぬ輝きを放っていると、見ているだけで眩しいと、そあ錯覚させるほどの色をした、美しい金色のまなこが、三人を見返していた。まるで狼のような鋭い瞳孔で、射抜かんばかりに。
へたりと、フランチェスコが座り込んだ。
ふるふると震える指で、力の入らぬ顎で、見開くことをやめられぬ瞳で赤子を見ながら、力なく言った。
「お、鬼子だ……。呪い子だ……!! 妻はこのモノに喰われたのだ!!」
慈愛に満ちていた瞳は一点、化け物を見るような、恐れと殺意をなみなみと宿してそれを見ていた。今にも始末しろと命令を下しそうなほど、フランチェスコは憔悴しきっていた。そして今まさにそうしろと、忌み子を始末しろと叫ばんとした時、予想外の声が待ったをかけた。
「おお、神よ……!」
呟いたのはコーション司祭。なんと涙をぼろぼろと零しながら、そしてその身体を震わせながら、一心に赤子を見つめていた。
「忌み子だなどと、とんでもありませんぞプレラティ侯爵……! この子は、いや、この方は……!!」
「……"方"?」
「左様! この方こそ、この方こそ! 世界に光をもたらすお方! 憎き魔王に対抗しうる人類唯一の希望……!」
わなわなと、コーション司祭の体は震えていた。ここまで来ればこの震えが歓喜から来るものであるということは想像に難くない。一方のフランチェスコはといえば、そこまでの言葉を司祭に言われ、察せぬほどに愚かでもない。こちらはこちらで顔面蒼白と言った面持ちで、身体を震わせていた。
「ま、まさか……。まさかそれは……
「そう! このお方が! 勇者である!!」
「このお方の命を絶つこと即ち! 人類の希望を断つという事ですぞプレラティ侯爵!」
畏怖、驚愕、戦慄、猜疑、疑心、そして――殺意。
凡そ赤子が誕生した場とは思えぬ様々な感情が渦巻くその中で、動いたものはただ一人だった。
「な、なにを!? 旦那様!?」
フランチェスコは猛然と立ち上がり、産婆の腕から強引に赤子を掴みあげると、高々と掲げて見せた。当然、いきなりそんなことをされれば赤子は泣く。大人に例えれば、胸ぐらを掴まれた挙句持ち上げられているようなものなのだから。
「侯爵!!」
「よかろう……」
「……?」
小さく、しかししっかりと芯の通った声が、フランチェスコの口をついた。
「よかろう! 貴様を我が子と、我が"
「なっ……!? 侯爵、お気は確かか!?」
跡継ぎとする。その言葉がなにを意味しているのか? その場に居合わせた二人は充分過ぎるほど理解していた。
代々家督を継承できるのは男児だけ。
国をあげて、そう言った風習があるのだ。法律で決められている訳では無いが、その目に見えない鎖を、人々が自ら作り上げ、己が首にかけ続けているのである。
つまり? そうつまり。
「その子を、その
「天に祝福されたとて、この色味、そして妻の逝去……忌み子としか思えぬ……。今すぐこの手で首をねじ切ってやりたいほどだ」
「……なれどそれが叶わぬと言うのなら、この異形を育てねばならぬというのなら!」
この時初めて、赤子の狼のような金眼を、フランチェスコの紫眼が真っ直ぐに見返した。
「貴様は
愛情よりも祝福よりも、真っ先に殺意を向けられた赤子は、どのような"剣"になるのだろう。
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