残留思念と希死念慮

燈外町 猶

第1話

 学生街の中心地に存在する月三万の格安部屋。

 この部屋に引っ越して一週間で、勤めていた会社を辞めた。

 大学を出て五年間真面目に勤務し、趣味はなく、実家暮らしだったため貯金は五百万を超えている。

 ようやく私は、ゆっくりと時間を掛けて、自分の死を思う時間と場所を確保できたのだ。

 カーテンを開ければ、目の前にそびえる坂に沿って高級住宅が群れを成し、私の心中に於いて大部分を占める劣等感がくすぐられる。悪くない気分だ。

 ただ茫漠とスマホを使って消化する日々。存在していることで誰かのプラスになることはなく、死ぬことで誰かのマイナスにもならないことを、着実に確信へと変えていく。

「あの~」

 安い布団に包まれ微睡んでいると、するはずのない女の声が耳元から突然聞こえ、脳に直接冷水をかけられたかのように急激に目が覚めていく。ドアガードも鍵も確実に掛けている。強迫観念にも近い防犯意識を抱えている私が簡単に侵入を許すはずがない。

 私は死にたいが、誰かに殺されるのも事故に巻き込まれるのもゴメンだ。穏やかで、安らかで、自ら選択した死以外は――。

「ちょっと……あの~」

 しかし、この胸の高鳴りは、侵入者に向けて恐怖を抱いているからではない。

 声は鈴を鳴らして甘える猫のように可愛らしく、漂う香りは品のいい清涼さがある。顔を見なくてもわかる、私好みの女だ。

 リモコンに手を伸ばし部屋の電気を付けると、布団のすぐ近くには――想像を超えた――私好みの女が複雑な面持ちでへたり込んでいる。

「……誰?」

「こっちの台詞ですよぅ」

 軽くウェーブの掛かった金髪。何かしらの宝石が埋め込まれているであろう輝きを放つ大きな碧眼。若さの暴力もあるだろうが、職人が手作業で造形したとしか思えない程美しい顔立ち。

 そしてなによりも目を引くのは、だらしないタンクトップを更にだらしなく伸ばしながら大胆に開かれた胸元。

「ここ、私の家ですよね? なんで寝てるんですかぁ?」

 女は自分こそが被害者と訴えかけるように、されど明らかに様々な疑問で綯い交ぜになって混乱している様子で私への糾弾を続けた。

「ここはもう、私の家よ。貴女はたぶん――」

 私という人間の性質を二つ述べるのであれば、一つは女のくせに女が好きなこと、そしてもう一つは幽霊だのお化けだのと呼ばれる存在が見えてしまうこと。

「死んでるんじゃない?」

 さらに補足するなら、引越し先をこの部屋に決めたのは不動産屋から開示された一つの情報が大きい。それは、この物件が安くなっている理由として、というもの。

「……あっ」

 泣き喚くか、逆上するか、事実を告げられた霊体が何をしでかすかなんて予想もできなかったけれど、そんなものはどうでも良かった。彼女という存在について知りたい。

 私から与えられた情報を受けて、彼女がどのようなリアクションをとり、どのような人格をもっているのかを知りたい。ただそれだけだった。それだけだったのに――

「そうだ、私、そういえば死んだんでした」

 ――あっけらかんと言い放ち、胸元以上にだらしないその笑みを見せつけられ、私はもう二度としないと誓った、女への恋慕を開始してしまった。


 ×


「これは失礼しました。はぁ~そうだそうだそうだった。死んだんだった~あーそうだ~」

 私と女は、敷布団の上で並んで座った。たまらない香りに脳みそがくらくらと酩酊に陥りかけているが、なんとか彼女の言葉に集中する。

「私、ミザンナ・ビームと申します。いやぁ~にしてもお姉さん、幽霊見てるにしては落ち着き過ぎでは? 肝座り過ぎでは?」

「見慣れてるから」

 確かに幽霊は、見慣れている。しかしここまでの美人は正直見たことがない。そのせいで心臓が暴れまわり呼吸が荒くなっていることを悟られないようにしなくては。

「あーそういうタイプの人なんですね。良かったです、同居人が理解のある人で」

 理解のある人、か。まさか幽霊からそんな台詞をもらうとは。

 これまでの人生で、見える見えない云々はもちろん、女が好きだという点についても理解をしてもらえることのなかった私への皮肉だろうか。

「なんで死んだの? 自殺?」

「いやいやいや、自殺なんかするわけないじゃないですか~、死んだって意味ないですもん」

 現在進行系で死を思い続ける私にとって、やや辛辣な発言を受けつつ、茶々は入れずに淡々と聞く。

「たぶんあれですね、過労……いや、衰弱死」

「衰弱?」

 こんな……健康そうで……その、豊満な女が?

「はい。私小説家なんですけど、ああいやこれじゃ語弊があるか。生前は小説家だったんですけど、文字通り寝食を忘れちゃうんですよね~。最後にある記憶もキーボード叩いてたんで、そのまま死んじゃったんだと思います」

「ふうん」

「わー、人の死因聞いといて塩対応だー! 慰めてくれないんですか? お姉さん」

 正直、狂ってるなとは思ったけど、その程度だ。

 それ以上に、彼女が発した『慰めて』という言葉の意味が私の知っている『慰めて』と同じなのかが気になる。経験則上、同じなわけがないが。

「私とは正反対な人種過ぎて……反応に困ってるのよ」

「えっ? 普通に夢に命懸けただけですよ?」

 どんな普通だ。いや、これが普通なのか? 空っぽな私が異端なだけで。

「あっパソコンはあるんですね~、いやぁ良かった、この部屋に新しく来てくれたのがお姉さんで」

 立ち上がったミザンナは、部屋の隅にある小さなテーブルの上で埃を被っているノートパソコンに近づいた。

さわれはしないか~」

 床に立ったり布団に座ったりは出来るくせに、パソコンには触れられない彼女を可笑しく見守ってみる。

「お姉さん、名前はなんて言うんです?」

 しばらく云々と頭を悩ませた末、こちらを振り返り質問を投げかけ、

江渡えと

「そうですか、じゃあ江渡さん、お願いがあります」

 ミザンナは私に近づくと、パソコンには触れないその手で私の手を取り言った。

「江渡さん、その両腕、私に貸してください」

「…………あの」

 頼まれた内容を咀嚼するよりも早く、私の手を包むミザンナの温もりやら柔らかさで頭が真っ白になってしまった。

「私が口頭で物語をお話しますので、それを文章化して欲しいんです」

 正直、彼女が何を言っているのかは理解していない。ただ目の前にいる惚れた女が『欲しいんです』と言えば、私が返す答えは一つだ。

「良いよ」

「わー! これまたあっけらかんと!」

「でも、その代わり」

 好みの女の幽霊が私に懇願しているのだとようやく腑に落ちて。

 その事実を現実的な思考が咀嚼した時、口に出す要求は身も蓋もない願望なのだと私は知った。

「その代わり、私と付き合って」

「えー! 江渡さん、レズビアンさんだったんですか!」

「嫌ならその身体を好きにさせて」

「ド直球で来ましたねぇ! というかそれって選択肢じゃないですかぁ!」

 ミザンナは、私の支離滅裂な要求に引く素振りは見せず、その可憐な笑顔を保ったまま受け答えしてみせた。

「それでまた小説が書けるのなら、もちろんいいですよ。じゃあ早速パソコンを立ち上げてもらって「じゃあ早速こっちに来て寝て?」

「……あ、あの、ちょっとだけ、三万文字だけでいいですから」

「寝・て?」

「……はい」

 三万文字を書くにあたりどれほどの時間を所要するのか知らないが、私としては目の前の女を両腕に収めたいという欲求に一刻の猶予もない。

 契約を申し込まれた側の特権として、まず私がメリットを享受させてもらう。

「……ミザンナ、おっぱい大きいね」

「あはは、女の人に触られるのは初めてなので……なんか変な感じがしますね」

「……男にはあるんだ」

「もちろん。この顔にこの身体ですよ? より生々しい小説を書くためにも学生時代はモテまくりヤリまくりで……ってイタタタタ! 嘘です嘘です! こんな性格と生活で友達すらいませんでした! 江渡さん! そんなにしたらおっぱい破裂しちゃいますよぅ!」

 八年ぶりに抱きしめた女の体は――いや、ミザンナの体はあまりにも艶かしく、温もりに満ち、脳に渦巻く負の感情を押し退け、五感全てが生を命令し、いつ振りかもわからない程穏やかで、安らかな眠りを私に与えた。

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