現代病床雨月物語 第四十三話 「平岡君と由紀夫は心中した(その三)」

秋山 雪舟

第四十三話 「平岡君と由紀夫は心中した(その三)」

 平岡君と由紀夫が心中して50年になります。由紀夫を偲ぶ人達は毎年十一月二十五日を「憂国忌」として追悼会を行っています。

 一九七〇年十一月二十五日のその日の雰囲気を最も良く伝えている本があります。中川右介さんの「昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃」幻冬舎新書(二〇一〇年九月三十日 第一刷発行)です。私は、この本を二〇一〇年に読みました。その当時(一九七〇年=昭和四十五年)の状況や雰囲気がよくわかりました。それと同時に現在とはまるっきり異質な時代でもあったことを実感させられました。これはもう一つの歴史になりかけていると思ったのです。

 たとえば当時の十一月二十五日の夕刊紙には由紀夫の生首の写真が掲載されていたのです。今の新聞では決して載ることはないでしょう。良い悪いは別として一九七〇年代とは生々しいむき出しの生へのエネルギッシュな時代であったと思います。社会に色々なエネルギーが満ち溢れているのが普通の時代でもあったのです。

 その当時(一九七〇年=昭和四十五年)は、総理大臣・佐藤栄作、警察庁長官・後藤田正晴、防衛庁長官・中曾根康弘、自民党幹事長・田中角栄でした。

 この中川右介さんの「昭和45年11月25日」の本は資料として価値があり読むことでこの時代の風を知ることができます。この本には生々しい、牛込警察署署員と警視庁との無線のやり取りや自衛隊の一佐が上官に報告している内容も書かれています。資料としても由紀夫の決起への「手紙」・「要求書」・「檄文」・当日の市ヶ谷での「演説内容」を記載しています。また当時の有名人の動向や感想が載っています。

 警察庁長官・後藤田正晴は後に、『何とも気持ちのわるい事件だった。思い出すのも厭だ』という印象を語っています。作家・野坂昭如は、『人間が死を賭して何ごとかをなす場合、事の理非曲直を問わず、ぼくはつい背筋にしびれがはしる。TVでさまざまに解説していて、楯の会がクーデタをもくろんだやら、また三島さん自身の言葉、去年(一九六九年)十月二十一日の強力な警察力動員による反体制勢力鎮圧の成功により自衛隊の治安出動は今後あり得ず、ひいては憲法改正のチャンスを失ったとする考え方も、ただ奇妙にしか感じなかったが、とにかく、自らの言葉に責任をとって、いさぎよく死んだという事実に、うたれてしまう。』評論家・呉智英は、『私は友人とこんな話をした。これで日本はどうなるのだろう。二・二六事件の青年将校たちが目指していたような方向に進むのだろうか。あるいは、三島由紀夫と楯の会に対抗し、左翼系の政治勢力が結束して反政府運動を燃え上がらせるのだろうか。いや、たぶんそのどちらにもならないだろう。三島の行動はすぐに鎮圧され、これを機に左右両翼の政治運動に対する警察の規制が強まるのではないか。』

 俳優・美輪明宏は、『即座に「あ、あの霊にやられた!」と地団駄を踏みました。自分が力になれなかったことが悔しくて仕方ありませんでした。でも同時に、「三島さん、おめでとう」という気持ちも湧き上がってきたんです。自分の美学に合った死に方を三島さんが選んだ結果なのであれば、私個人はいくら悲しくても、十九年間の親交があった三島さんに「おめでとう」という言葉をかけてあげたいと思ったのです。』

 私は、この本(「昭和45年11月25日」)を読む以前に作家の遠藤周作=狐狸庵先生の由紀夫像からインスピレーションを感じていました。遠藤周作『死について考える』(光文社文庫)の『死が迫ると』で遠藤周作は、「ただ私の場合、救いとなるのは、死を目の前にして周章狼狽し、みっともないことになったとしても、私の文学とかなりつながっていることです。森鴎外や三島由紀夫氏の場合はみっともないことができない文学ではないでしょうか。」と語っています。    また『狐狸庵人生論』(河出文庫)の『狐狸庵という名から…』では、あれこれ考えた末、狐狸庵と名づけることにした。そしてそれを自分の雅号にもした。三島由紀夫氏からある日、「君はどうしてそんな名をつけたんだ」とたずねられたことがある。「そのほうが生き方が楽ですからね」そう答えると、三島氏はムッとしたようだ。「ぼくはそんな年よりじみた名は嫌いだな」と言ったのを今でも憶えている。そう言われると三島由紀夫という名はたしかに若々しい。周知のように三島氏の本名は平岡氏なのだが、氏はどうしてこのようにあまりに若い名を自分につけたのだろうか。……私は時々、三島さんはあんなペンネームを自分につけたため「ずいぶんしんどかったろうな」と思うことがある。若々しいこの名のイメージにふさわしくなるため、彼はいつも青春の活力やボディービルで鍛えた体を自他ともに示さねばならなかったからである。その点、狐狸庵という名のイメージはヨボヨボとしているし、少なくとも颯爽たる名前ではない。なんとなく垢じみた丹前などを着て、風呂屋の帰り、往来の賭け将棋をうしろからのぞいている親爺のイメージがある。そしてこのペンネームは五十歳になっても六十歳になっても七十歳、八十歳になっても通用できる息のながい雅号である。

 三島さんは私のこの名を「年よりじみている」と怒ったが私に言わせると三島由紀夫という名こそ生き方が「しんどく」なる名である。それに対して狐狸庵という名を持てば生き方は「楽だ」ということになるのだと書いています。私は初めてこの本を読んだときこの遠藤周作=狐狸庵先生の言葉に妙に納得したのを覚えています。

 話は戻りますが由紀夫は欧米の価値観からくる「愛」を嫌っていました。由紀夫としては「愛国」ではなく「大和魂」であり「憂国」であったのです。由紀夫は、戦後を嫌い「反・戦後」であり続けていたのです。由紀夫の心の中には偉大なる明治の再興が充満していたのです。 それは皇軍の復活でした。

由紀夫は戦後の米国に押し付けられた憲法を無力化する可能性を持った青年集団の前に登場したのです。それは具体的には警察力(機動隊)の無力化を前提としています。それが東大全共闘であり市ヶ谷の青年自衛官達であったのです。そんな由紀夫に引きずられ平岡君は由紀夫と心中したのです。

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