第2話
警察学校を卒業したあとはそれなりに平和だったと思う。初配属先が利用客の多い駅前交番だったからかなりの忙しさだったけれど、それぐらいが丁度よかった。他の事を考えずに済むから。
気を抜けば、どうしようもない虚無感に襲われる。俺は例え人を好きになったとしても、本人に伝えることさえ叶わない。今まで通り、普通の生活がしたければ、誰にも悟らせてはいけない。この先も。絶対に、だ。
初恋の相手と物理的に距離が出来たところで、苦しい気持ちか消える事はなかった。
ゲイだから苦しくて、ストレートの人達が幸せだと言うつもりはない。ゲイであることを隠して苦しんでいるのは俺の勝手で、それと同じようにストレートでも悩んで苦しんでいる人達が大勢いるのは知っている。
異性愛者でも浮気をする人はするし、パートナー以外の異性に目移りすることもある。他人同士が結婚し一緒に暮らせば価値観や考え方の違いで喧嘩をすることだって珍しくはない。
どれだけ愛していても事故や病気で死に別れる夫婦やカップルもいる。
こんな仕事をしていれば、どれも別に珍しい事ではないと思い知る。
よくよく考えてみれば、同級生の中で片親の子供は俺だけではなかったし、半分しか血が繋がらない兄弟がいる子もいた。そんなものだ。恋とは総じて苦しいものだと俺は思う。
初めから“恋”なんていう感情が無ければよかったのに。そんな下らないことを考える時がある。特に、ストーカー、DVの相談や色恋が絡んだ喧嘩の仲裁に駆り出された後。少しでも考える時間が出来てしまうとダメだった。恋なんて感情が無ければ、もっと世の中は平和なんだろうな、なんてぼんやり思い、あとはズルズルと深みに嵌まる。
恋愛感情なんてものが無ければ学生時代友人に怯え距離をとる必要はなかったのではないか。警察学校時代、好きになってしまったアイツとは友達として今でも連絡を取り合う仲になっていたかもしれない。友達と遊んでご飯を食べに行き、一年後には連れだって飲みに行く。そんな未来もあったかもしれない。そうやって自分が選んで来た道を否定して、あり得ない未来に思いを馳せ、そしてまた虚しくなるのだ。
その虚しさを紛らわす術を覚えたのは、それから一年と少したった頃。交番勤務から刑事課へと異動になった後だ。
二十歳を過ぎ、酒が飲める歳になった俺は空いた時間を利用して新宿二丁目のバーへと足を運ぶようになった。ゲイバーに入れば、そこにいるのは同類だけだから。自分を取り繕う必要はない。そこで出会った気の合う人達と、所謂セフレのような関係になった事もある。お互いに、都合のいい時だけ利用し利用される関係。そういう相手がいるのは楽だった。
特定のパートナーか出来たことはない。作るつもりもなかった。爛れた大人になってしまったと思う。苦労して育ててくれた母親に、今のこの生活は絶対に言えない。
心配させないために、心配されるような行為をする。本当に不毛以外の何物でもないなと自嘲する。けれど、“普通”の生活を送る為にとれる手段はこれしか思い付かなかった。
俺にマイノリティ専用のSNSを教えてくれたのは、複数いたセフレのうちの一人だ。仕事が立て込み、プライベートの時間をとれなかった時期。久しぶりに顔を出したバーで俺は相当酷い顔をしていたらしい。たまたまその場にいあわせたそいつは、コミュニケーション手段のひとつとしてこういうのもあるよ、とそのSNSの画面を見せてくれた。言われるがまま登録したのは、相当疲れていたからだと思う。
それからは、ぼんやりとそのSNSを覗くのが日課になった。職業柄、なんとなく気まずくて自分から率先して何かを配信する事はなかったけれど、同じように悩む人がいるというのはなんとなく安心出来たから。
アイという女性の書き込みを見かけたのはそんな時だった。適当につけた名前だったけれど『I』という名前を使っていたからか、『アイ』という名前の彼女の書き込みがなんとなく目についただけ。偶々だ。
偶々目についただけの書き込み。しかし、その書き込みは俺にとって酷く衝撃的なモノだった。
アロマンティックの女性が書いたらしいそれを読み、一番始めに感じたのは罪悪感だった。恋が出来ずこんなにも悩んでいる人がいるのも知らず、恋がなければ楽なのに、なんて考えていた自分の愚かさを思い知らされた。次に感じたのは、知りたいという気持ちだ。自分の知らなかったセクシャリティについて、理解したいと思った。なぜそう思ったのかはわからない。
捜査官としての本能が知識を求めたのかもしれないし、中学の頃の友人のように無知故に誰かを傷つける事を恐れたのかもしれない。または、無意識に憐れみの気持ちを感じていたのかもしれない。
でも、そんなことはどうでもよくて。気付けば彼女の投稿にコメントを付けていた。
その瞬間から、俺の世界が格段に広がったのは間違いない。
東雲と出会ったのは、色々な出会いにより自分の性について前向きに考える事が出来るようになり始めた頃の事だった。
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