超前向きな佐藤くん
中内イヌ
前
少し前、私のクラスに転校生がきた。名前は佐藤くん。口数が少なく大人しい印象というだけで、私はまだ彼のことをよく知らない。でも、ひとつ言えることがある。
それは佐藤くんが、とても前向きな人だということだ。
よく知りもせずに、どうしてそう言えるのかといったら、それはたぶん〝前向き〟という言葉のとらえ方の問題だろう。佐藤くんを見ていれば、それは一目瞭然だった。
今は算数の授業中。教室での佐藤くんの席は、私の右斜め前だ。ためしに佐藤くんの側頭部の辺りを、じっと見つめてみよう。こちらの気配を無視できないほど、じーっと。
「……」
でも佐藤くんは微動だにすることなく、先生が板書する黒板を真っすぐに見つめている。女の子が穴の開くほど見つめているのに、なんだかつれないなぁ。私は少し拗ねて頬杖をついた拍子、机の端に置いていた消しゴムを落としてしまった。
角の丸まった消しゴムはコロコロと転がり、佐藤くんの上履きに当たる。これには流石に気づいたようで、佐藤くんは椅子を引くと身を屈めて机の下の消しゴムを拾ってくれたのだけど。
「落ちたよ」
「あ、ありがと」
消しゴムを返す時も、彼の顔は真っ直ぐに前を向いたまま。左手だけを起用に差し向けると、私の机の上に消しゴムを置いてくれたのだった。
もしかして照れてるのかなぁ。そう思い、ほんの少しドキドキしてみたり。私だって、もう小学五年生。男の子のことが気になっても、おかしくない年頃のはず。佐藤くんはスッとして、なかなかのイケメンなのだし。
だけど彼が私の熱視線をスルーしたのは、残念ながらそういうことではないようだ。あれは、この前の体育の授業中のこと。その日、体育を見学していた私は、何気にサッカーをしている男子の方を眺めていた。
目撃したのは、佐藤くんが相手ゴール前に走り込む姿。そこに後方の味方から絶妙なパスが送られたのだけど、佐藤くんたら背中越しに飛んで来たボールを、前を向いたまま難なくトラップすると、そのままゴールに蹴り込んだのだ。
背中に目でもあるの? その光景を目の当たりにした私は、ぽかんと口を開いたまま絶句するしかなかった。
一方、プロ顔負けのプレーを披露した当人は、まるで何事もなかったように大きく弧を描き進行方向を変えると、自陣の方へと戻って行った。そしてその後も同様に、
つまり、私が佐藤くんのことを前向きと言ったのは、ポジティブだとかそういった意味ではなく、文字通り決して後ろを振り向かないから。
この日の下校時、私は少し前を歩く佐藤くんの背中を見つける。どうやら帰る方向が、私と同じみたい。個人的におしゃべりしたことはなかったけど、いい機会だと感じて、思い切って声をかけることにした。
「佐藤くん!」
「……」
五メートルくらい後ろから声をかけると、佐藤くんは立ち止まってくれたけど、やはり後ろを振り向こうとはしない。
すると、妙な沈黙の間の後で。
「なにか用……田村さん」
佐藤くんは背中を向けたまま、私の名前を言い当てた。声だけで、私とわかったのだろうか。さっきも言ったように、私たちはまだ親しくない。
私は小走りに駆け、佐藤くんの右隣に並びかけた。
「用ってわけじゃないけど、よかったら途中まで一緒に帰らない?」
「……」
その申し出に対して、佐藤くんは首を僅かも回すことなく、目だけをじろりと差し向けた。
「だ、駄目ならいいけど」
無言の圧力に怯んでいたら、佐藤くんはポツリと答えた。
「別に、いいよ」
許可を得て肩を並べて歩きながら、私からいくつか話題をふってみる。でも、佐藤くんは「そうだね」とか「別に」とか、素っ気ない相槌を重ねるばかり。その間も相変わらず、じっと前を向き続けている。
徹底して前向きな彼に対し、ふと悪戯心が沸き上がっていた。
「あ、見て見て佐藤くん。あの犬、すごいカワイイ」
私はやや大げさな身振りで後ろを振り返り、少し後ろを散歩している犬を指さすけど。
「……そうかな?」
彼はそう言っただけで、犬を見ようともしてない。ちなみに、おばさんがリードを引くその犬は、ずんぐりしていて実は私もそんなに可愛いとは感じていなかった。
その後も私は、なんとか佐藤くんを振り向かせようとする。
「ほら、飛行機!」
「別に、珍しくない」
「あ、あの人! 最近人気の芸人さんに似てるよ」
「そういうの、興味ないな」
あまりにのリアクションの薄さに、私はやけになる。
「危ない! 後ろから車がっ! 佐藤くん、よけて!」
驚いた拍子に振り向かせようと、大きな声を張り上げた。
なのに佐藤くんは、眉ひとつ動かす様子もない。
「そういう嘘、よくないと思うよ」
でたらめを口にした私を静かに諭した後で、ため息交じりにこう話した。
「田村さん、僕を振り向かせようとしてるなら、よした方がいい。前の学校にもいたんだ。特にしつこく振り向かせようとしたのは、同じクラスだった三人。でも彼らも、結局は僕を振り向かせることができなかった。それどころか――」
「な、なに?」
息を呑んで訊ねた私に、佐藤くんは一言こう答える。
「ぺちゃんこさ」
「?」
まるで意味がわからなかった。だけど、佐藤くんが自分で〝振り向かない〟点に触れてくれたことで、こちらも素直に聞くことができた。
「なんで一度も振り向かないの? もしかして、首を怪我してるとか」
「違うよ」
「じゃあ?」
私がじっと窺うと、彼は静かに語りはじめた。
「両親が離婚してから、僕は母さんと二人で暮らしてきた。父さんとはたまに会っていたけど、子供の僕から見てもあの人は駄目な人で、ろくに働きもせずお酒ばかり飲んでいるような人だった。父さんを見ていると、母さんが離婚したのも無理はないって思えた。でも、僕は嫌いじゃなかった。なのに三年前、父さんは死んでしまったんだ」
佐藤くんは足を止め俯くと、右手の拳をぎゅっと握った。私は黙ったまま、彼の次の言葉を待つ。
「……父さんが、死ぬ前に僕に言った。絶対に後ろを振り向くな。そんなことをしていたら、俺みたいになるぞ。いいか、お前は前だけ見て生きていけ――ってね」
佐藤くんは真剣に話していたし、私と同じ年でいろいろ辛いことを経験してる彼を前に、こんなことを言うのはどうかと思うけど、どうしても我慢ができなかった。
「あ、あのね、佐藤くん……お父さんは、きっとね。後悔したり、うじうじ悩んだり。そういうのが駄目だって、言いたかったと思うよ」
それを聞いた佐藤くんは、また大きく息をついた。
「田村さん、僕だってそこまで馬鹿じゃない。父さんの真意ぐらい理解しているさ」
「ご、ごめん。だけど、じゃあ……?」
「父さんは確かに〝振り向くな〟と言った。〝前を見て生きろ〟とも。だから、僕はそうしようと決めた。僕だけはせめて、憐れな父さんの人生に報いようと決めたんだ」
佐藤くんの言葉には、強い決意が現れていた。他人には理解できない、理屈を超えた境地なのかもしれない。
「だけど、生活していて不便でしょう? それに、やっぱり危ないし」
「平気だよ」
佐藤くんは言うと、ポケットから出したハンカチを手から落とした。そして地面に落ちたハンカチをそのままに、すたすたと立ち去ろうとする。
「ねえ、いいの?」
「うん、見てて」
佐藤くんが言った、次の瞬間のこと。その光景を目の当たりにして、私は驚愕するのである。
「あっ!」
地面からハンカチが、ふわりと浮かんだ。そして、佐藤くんの背中を追いかけるようにして、ひらひらと宙を舞う。
佐藤くんの方は相変わらず前を見たままだ。なのに、背後の様子を察したように右手を肩口に掲げると、タイミングよく浮遊するハンカチを掴んだのだ。
ハンカチをポケットに戻し、佐藤くんは言う。
「ありがとう、父さん」
一連の光景を呆然と見守っていた私に、彼はまた目だけを向けた。
「言いつけを守る限り、僕は振り向く必要がなくなったんだ。父さんが助けてくれるからね」
佐藤くんのことが、恐ろしくなった。
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