第65話「黒い髪の魔神」

 メレアの言葉の意味を、ハーシムは馬上でかみしめていた。

 ハーシムはこの中で、もっともメレアと近いレベルでものを考えられる男だった。

 ゆえにハーシムは、周りから夢物語だと笑われてしまいそうな大それたメレアの構想に、追従することができていた。

 しかし一方で、


 ――そうか……。


 その構想が自分の描いていた夢物語とはやや終着点が違うことにも気づいて、不思議な笑みが漏れていた。

 苦笑でもない。嘲笑でもない。

 ただ、どちらの構想が正しいかという判断を保留するような、その場をしのぐような笑いだった。

 それでもハーシムは、メレアの夢を否定しなかった。

 むしろ、


 ――お前が目指しているものは、おれの目指しているものよりもずっと大きいのかもしれない。


 自分の行き着けなかった大きな夢の出発点にたどり着いたことを、たたえたいくらいだった。


 ――おれはもう、その選択を取れるほど純粋ではない。


 世界と時代の色に、染まりすぎてしまった。

 それに、たとえ純粋であったとしても、その場所に立とうと思えるほどの勇気は――


 ――いや、みなまではいうまい。


 自分は自分なりに、狂人とうたわれるような夢を抱いた。そこに妥協はない。

 だがそれは、メレアの夢と比べるとどこか現実的な要素を含みすぎているような気もした。


 ――お前は本当にこの世界で生まれた男なのだろうか。


 メレアがあんまり自由な発想をするものだから、唐突にそんな荒唐無稽こうとうむけいな疑問が浮かんでくる。

 しかしハーシムは、すぐにそれを一笑に付した。


 ――どちらでもいいか。


 もはやそんなもの関係がない。

 今この男はメレア=メアである。

 間違いなく、この地に存在する――魔王である。


 ふと、ハーシムはメレアの背に途方もないほど大きな何かを見た。

 彼の後ろに、大勢の誰かがいる気がした。


◆◆◆


 ハーシムが馬上でメレアの背を見ていると、今度は別の動きが意図せぬところからやってきた。

 動き――というよりも音だった。


「――風鳥?」


 ピュイ、と。

 軽快な鳥の声がその場にいた者たちの耳を穿うがっていた。

 頭上からだ。


 エルマが誰よりも先に空を見上げて、鳴き声の主を見つけていた。

 鳥。

 特徴的な四色の長い尾をもっていて、大きく鋭角な構造の翼をはためかせている鳥だった。

 その鳥は空をいくらか旋回したあと、狙いを定めたようにハーシムの肩へと一直線に下りてきた。


「やっと来たか」


 魔王たちだけでなく、ハーシムの部下たる近衛騎兵たちも何事かと首をかしげる最中、ハーシムだけはその風鳥の到着を予定どおりといわんばかりに、すぐさま風鳥の足にくくりつけられていた紙を解いた。

 ハーシムがそうやって紙を開くまでの間、隣でメレアが、


「あれは?」


 とエルマに訊ねていた。


「風鳥だ。風鳥はある特異な匂いを判別することに長けていてな。それらの匂いを調合して判別させることで、特定の二点間を行き来させることができる。ずいぶん前から使われている郵送方法の一つだ。当然匂いだけを頼りにすると混乱も生じやすいから、ほかにも条件付けや訓練はするが、特徴的なのはそこだな」


 エルマの説明を受けて、メレアが小さくうなずく。

 すると今度はエルマの方が訊ね返していた。


「お前、さっきのマリーザの話を横から聞いていた感じだと特殊な秘術を使っているようだが、もしかしてその制限時間とやらがすでに過ぎていたりしないか? 髪が黒くなったし――」


 エルマが怪訝けげんな表情を浮かべる。

 それに対し、メレアはあっけらかんとして、


「まだ完全に『門』を開いたわけじゃないから大丈夫。半開きみたいなものだ。まあ、こうやって半開きにしておくのって、一か零しかない俺にしては相当気を使ってやってるもんだから、そう長くは続かないけど」

「まったく、小難しい術を使うな、ほかの魔王たちは。私のところは魔剣を振り回しているだけだぞ」

「はは、そっちの方がシンプルでいいじゃん」


 メレアは笑った。

 エルマはそうやって笑ってくれるメレアを見て、安心感を覚えていた。

 こんな場所だけれど、『いつものメレア』を近くに感じることができて、胸の中に嬉しさのようなものまであった。


 そうして短い会話をしていると、ようやくハーシムが風鳥の脚についていた紙を解き終え、それを開いた。

 ハーシムは開いた紙面をパっと一瞬で見て、


「……十五」


 そうつぶやいた。


「――十五分だ」


 続いて、もっとわかりやすい言葉が来る。

 メレアはハーシムの言わんとすることを察した。


「三ツ国の増援が来るまで、あと十五分か」

「ああ、ズーリアの〈紺碧槍団〉が来る。書いた時間、場所、おおよその進軍速度、ついでにあらかじめ訊いておいたこの風鳥の飛翔速度を加味して、逆算した。――キリシカにしては事細かに書いたな。城での説教が効いたか」


 ハーシムは少し楽しげであった。

 しかしすぐに真剣な表情が戻ってくる。


「おれの計算を信じるならば、十五分だ。――いけるか」

「やるだけやるさ。いずれにせよ、ここから十分は確実にもたせる。そのつもりでこの術を使った」


 メレアはメレアで、決して激情だけで〈暴神の憤怒〉を使おうとしたわけではなかった。

 レミューゼ軍と魔王勢の継戦が厳しくなってきたという様相を察したうえでの使用だった。

 こちらが疲弊していく一方であるのに対し、ムーゼッグの軍勢は続々と増えていく。

 さらにそれらをたった一人でまとめあげるというセリアスの到着と、大規模な殲滅術式を使う術式兵の到着。

 どこかが少しでも崩れれば、おそらくそのまま戦線が決壊するだろう。そんな予測が立ちはじめていた。


「となれば、残りの五分は――気合だな」

「ハハッ、むしろそういう言葉の方がいさぎよくていいな」


 メレアは魔王たちの長として、ハーシムはレミューゼの長として、互いにそのことを察していた。

 ゆえに、ここに来ての『便たより』は、二人にとって大きな僥倖ぎょうこうとも言えるものだった。

 特にメレアにとっては、あとの状況に対する心配が軽減されるという点で、内心の支えにもなっていた。


「お前も死ぬ気でやれよ?」

「ああ、言われなくとも」


 だがメレアは、決してそれのみに頼るつもりはない。

 ハーシムの口ぶりから、そのズーリアの援軍が大きな助力であるのだろうとは思うが、決して身体の重心を預けることはない。

 メレアは、


 ――ここで終わらせる。

 

 そう思っていた。

 もっとも確実なのは、この時点でムーゼッグを押し返してしまうことだ。

 援軍が来れば確実に勝てるのか。――そうとはかぎらない。

 

 ――俺は、みんなを死なせるわけにはいかない。


 自分の立てた夢のためにも、ほかの魔王たちを死なせるわけにはいかない。

 彼らにはやってもらいたいことがある。

 そしてなにより、彼らは、


 ――大切な……。


 心の中でもまっすぐに言葉にするのはなんだか少し恥ずかしくて、メレアは意図的に思考を切った。


「じゃあ、行くか」

「ああ」


 ついにメレアは前への一歩を踏む。

 近くでハーシムが魔槍を構えながらうなずいた。

 長年の友人であるかのように軽口を言い合っていた二人はもういない。

 二人は臨戦に際して鋭さを増した視線を、一度だけ交差させた。

 そして、同時に向こうを見据えた。

 赤い地竜の背に乗っていたセリアスと――目が合った。


◆◆◆


「俺が最初に突っ込むから、みんなは下がっていてくれ」


 メレアが二歩目を踏みながら言葉をあげた。

 マリーザはそんなメレアをまだ心配そうな目で見ていたが、それでも止めることはなかった。

 メレアはみなの前に出ていきながら、ついに頭の中にある四つの門を開いた。


 一門、魔門。

 二門、王門。

 三門、帝門。

 四門、神門。

 

 本来なら順番の開けていくところを、同時に開く。

 そうして門が完全に開くと同時、メレアの身体から莫大量の魔力が可視化できるほどの密度で噴き上がった。

 風のようにメレアの周囲にめぐる魔力は、髪と同じく黒い色を伴っていたが、不思議とその黒色は澄んで見えた。

 そんな魔力の奔流で黒髪をふわふわと舞わせながら、メレアはさらに軽快な音の乗った拍手を打った。

 ぱーん、と、乾いた空気の中を涼やかな音が通った。

 そして、


「〈雷神セレスター=バルカの白雷〉、〈風神ヴァン=エスターの六翼〉」


 歌うような声が続く。


「〈土神クリア=リリスの三尾〉、〈水神セウラ=エウラスの麗刀〉」


 さらに、


「――〈炎神フラム=ブランドの死炎〉」


 五つ、銘が続いた。

 メレアはまだセリアスに術式領域を封印されているはずだった。

 だが、そんなもの関係ないと言わんばかりに、術式がメレアの身体に装填されていく。

 しかも、それらは明らかにさきほどまでと大きさや力強さが違っていた。

 自然事象を司る五人の神号魔王の銘ある術式が一堂に会する状況もさながら、ただでさえまともではなかったものがさらに巨大化、強靭化することで、もうほかの者たちにはどういう位置にそれを判断しておけばいいのかわからなくなった。

 端的に言えば、想像できる段階を突き抜けてしまっていて、思考が停止した。


 そんな彼らをおいて、五つの術式はどんどんと動きを伴っていく。

 身体にまとった白雷はメレアの身体を支点としつつ、さらにどんどんと外側に雷電の手を伸ばしていった。

 風の六翼はいっそ巨城を覆う壁か何かのように天高く広がった。

 黒い大蛇のような三尾はメレアの尾骨付近を支点としつつも、そうやって動きを一点に縛られていることすらもはや関係ないと言わんばかりに、ばかげた長さの身をゆらゆらと辺りに漂わせている。

 水神の麗刀にいたってはメレアの手の中にすら納まらず、空中に一気に四本ほど生成され、もはや剣というよりも飛び道具に近い射程をたたえてた刀身をきらめかせていた。

 そして、


「あ、あれ、もしかして〈紺碧こんぺきの死炎〉じゃ――」


 リリウムが、ふとメレアの両腕に発生した『青黒い炎』を見て、呆然とした声をあげていた。

 〈炎帝〉リリウムはその立場上、自分の号よりも上にいる〈炎神〉についてくわしかった。

 そんなリリウムのつぶやきに、隣にいたサルマーンが訊ね返す。


「〈紺碧こんぺきの死炎〉? どっかで聞いたことある気がするが――」

「たぶん、歴史書よ。〈炎神〉はずいぶん前からずっと空席だから。これから先もずっとそう」

「そりゃまたなんで。ずいぶんハッキリと明言するじゃねえか」

「前身の実績と能力が途方もないほど大きいからよ」

「ああ、そういう……」


 サルマーンは苦笑を浮かべた。


「しかし、紺碧っつうと、ズーリアの国色でもあるな。もしかしてなにか関係あるのか?」

「ええ。――古代にズーリアを作ったのが〈炎神〉よ」

「……マジかよ」

「で、その炎神はズーリアが革命期から安定期に入る際に自害した」

「……は?」


 サルマーンが素っ頓狂な声をあげた。リリウムの口から次々と放たれる信じがたい事実に、思考が止まりかけた。

 しかしリリウムは、そんなサルマーンを待たず、メレアの両腕から肩にかけて燃え盛る紺碧の炎を見ながらさらに続けた。


「伝承では、『強すぎる炎はおのが身を焼くから』自害したんだって。革命的な独立には推進力としてそういう力が必要だったけれど、安定期には逆にそれが重荷になると思ったらしいわ」

「だからって自分から死ぬかよ……。使わなければ良かったとか、俺の都合のいい考え方かね?」

「きっと、半分くらいは。あんたの言いたいこともわかるけど、あれはそういうレベルの術式じゃなかったから。有識者からは『虐殺術式』って呼ばれてるわ。だから、たぶんあたしたちが思い至らないような、いろいろな『しがらみ』があったんじゃないかしら」

「虐殺術式?」

「一回放つとコントロールが効かないのよ。死炎って、あたしの命炎と逆でね。命炎は命を作るけど、死炎は命を奪うの」

「それは普通に焼き殺すって意味か?」

「違うわ。間違ってもいないんだけど。――触れたら命を吸われるの。そしてその命を吸いながらどんどん勝手に大きくなっていく。しかも死炎は一旦解放されると近場の命の香りにつられて無差別に自動で暴れ回るから、炎神は常に一人で戦場に行ったって。周りを敵だらけにしないと……味方を食ってしまうから」

「おっかねえなおい……」

「死炎はそうやって炎の身体の中に命をため込むから、その点は命炎と同じく生きているようだって。いわば、ただ生物の命を奪うことに特化した命炎って感じかしら」

「まさしく虐殺術式ってか……。いや、ちょっと待て」


 サルマーンがメレアを見ながら言った。


「てことはあいつ、それを使おうとしてるのか?」


 直後、


炎神フラム=ブランドと同じ使い方はしないよ。たしかに本来は、術式の中に組み込まれた自動的な循環機構を使って、そうやって無差別かつ自動的に命を食い殺すようになってる。俺も〈炎神フラム=ブランド〉には『目に見える位置に味方がいるうちは絶対にそれを使うな』って口を酸っぱくして言われた」

「でもその両手の炎は――」

「だけど、四門をあけて暴神化しているときだけ、俺はその自動循環機構の部分をすべて自力で演算することができる。つまるところ、〈紺碧の死炎〉を完全制御下における。まあ、今のところはこうやって腕に纏わせるので精一杯だけど――触れればそれでおしまいだから、これでも十分さ」

「神号を持つ魔王の術式をぽんぽんと併用するお前だからこそか……ってか、ホントお前はどういう面子に育てられたんだ。聞きたいけど聞きたくなくなってきたぜ……」


 サルマーンが肩をすくめて苦笑したのを、メレアは風の翼越しに見ていた。


「それにしても、そんないろいろ大術式使って、術式の枠とか魔力の方は持つのかよ?」

「ああ、これでもまだ余ってる。魔力は使った分がすぐに回復するからな」

「な、なにいってんだお前……」


 今度はそのサルマーンが頬をひきつらせた。


「術式処理の枠は? さっきまで反転術式用の術式処理領域を残してあと二つ、って言ってなかったか?」

「その上、一つ分はセリアスに封印されたよ。それがいつ解けるのかはわからないけど――」


 メレアは続けて、何事もないように言った。


「まあ、そんなものは『関係ない』。たかが一つ封印されたくらい。枠が減ったのなら、増やせばいい」


 サルマーンは口をぱくぱくと所在なく動かしたあと、ついに観念したように両手を投げ出した。


「あー、わかった、わかったよ。いろいろ訊きてえことばっかだけど、もう十分じっぷんはじまってるっぽいしな。今はいい。引き留めて悪かったな。だが、これだけは言っておく」

「ん?」


 サルマーンは言いづらそうに頭をかきながら、しかし意を決するように大きく息を吐くと、ついに言葉を紡いだ。


「今回はお前に頼りっぱなしになる。てかもうなってる。俺たちはお前と比べるとずっと弱えし、覚悟を決めてもすぐに強くなるわけじゃねえ。――でも、いつまでもお前に助けてもらうばかりってところに落ち着くつもりもねえから、だから――」


 サルマーンの砂色の瞳が、言葉を静かに聞いていたメレアの瞳を真っ向から見据えた。


「――助けてくれ」


 冗談も、剽軽ひょうきんも、照れもない。

 ただ正直に、まっすぐに、恥をおそれず、サルマーンは言った。

 それを受けたメレアは、嬉しげな――満面の笑みを浮かべて答えた。


「ああ。――戦いが終わったら、またあのレモネードを飲ませてくれよ」

「お安い御用だ、主さま」


 サルマーンもその表情を笑みに彩り、返した。

 そしてメレアは正面を向く。

 もう振り向かなかった。


「さあ、セリアス、お前が望んだ戦だ」


 メレアは身体を大きく見せるように両腕を広げた。

 それに呼応するように六翼がさらに身を巨大化させ、三尾が威嚇する蛇のように身を立たせる。

 きらめく水の麗刀は、まるで主人の身を自動で守る護剣のようにメレアの身体の左右に二本ずつ滞空した。

 そして、両手に宿っていた青黒い炎が一際ひときわ火力をあげて天へと燃え盛り――


「魔王の力が欲しければ――」


 ついにメレアが響声きょうせいをあげた。


◆◆◆


「俺を倒してからいけ」


◆◆◆


 これだけの術式を併用しながら、なおも全開ではないことを表すかのように、メレアの身体から黒い魔力が爆発するようにあふれ出た。


 その存在が〈魔神〉であることを疑う者は、もはやここにはいなかった。

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