第59話「とある真実の香り」

 この時点でメレアは、魔王という存在がレミューゼからもムーゼッグからも独立していなければならないという思いを自然と胸に抱いていた。


 別に、レミューゼを信じていないわけではない。

 彼らはああして身体を張ってくれるし、ハーシムの覚悟の強さもたしかに感じた。

 ハーシムの目的のすべてには『レミューゼを救うため』という思惑があるのかもしれないが、それは一国の王として当然であるし、メレアとしてもそれに文句を言うつもりはない。

 なにより、彼のもっとも重視する思惑がどこにあろうとも、実際に命を懸けて救おうとしてくれているという目の前の事実をないがしろにしてはならないと思った。

 しかし、そんなメレアも、ハーシムと交わした契約の言葉を自分にとって都合の良いように歪曲させることはなかった。


 『これは対等な取引だ』。


 あの言葉にはついすがりたくなる魔力があった。

 でも、それにつられすぎるときっとよくない結果をもたらす。

 おそらく発言したハーシム自身も、そこまでわかってああいう言葉を選んだはずだ。

 含んだ意味を察しろ。そういう空気があった。


 ――『受け入れ』と……『突き放し』か。


 メレアは今になってその意味をはっきりと理解していた。


 ――ムーゼッグと違って、お前らと対等に取引をしてやる。


 一つは言葉どおり。そんな、いわば『受け入れ』の意味だろう。

 しかしもう一つは、


 ――対等だからこそ、『庇護ひご』はしない。


 おそらくそういう――ある種の『突き放し』の意味でもあった。

 その前提があるからこそ、助けつつ助けられるという相互状態が生まれる。


 魔王はいまや、『魔王という独自のコミュニティ』に属してしまっている。

 魔王という名の民族と土地だ。

 最初は薄かった区別が、長い時間をかけて熟成された結果、完全に分離してしまった。

 ここからレミューゼと同化しようと思ったら、長い時間が掛かるだろう。

 土地の信念や民族的な矜持に支えられていない外部の存在は、もともと内部にあったものと比べて絆が脆い。繋がりを形成しにくい。

 それは理屈じゃないと、かつての英霊たちも言っていた。

 そして戦乱の時代だからこそ、その『違い』がネックになる。

 おそらくハーシムも、そして今ハーシムが再度掲げようとしているかつてのレミューゼの矜持を作った『レイラス』も――それがわかっていた。


 ――そううまくはいかないさ。

 

 取引をしてくれるだけでも御の字だ。

 だが、本気で取引をしようとするならばこそ、やはり魔王はそれのみで独立するべきなのだ。


 ――外に対する希望をいつだって捨ててはならないけれど。


 閉じこもってほかを排他するようになれば、きっとそれは『最古の悪徳の魔王』への回帰を促すことになる。

 それもまた、避けなければならない。


 ――……難しいものだよ、レイラス、フランダー。

 

 メレアは、今自分が魔王としての生き方の分岐点に立っていることを実感していた。

 考えれば考えるほど、魔王という名前に付随する観念や偏見が厄介に思えて、頭の中でぐるぐると廻った。


 魔王は国家である。

 魔王は民族である。

 魔王は魔王という一個の集団である。


 ならその集団は、どこを目指すべきなのか。


 ただ生き残る。それもわかる。しかしそれだけではどこかでつまずく。

 どこかで魔王としての、この世界での信念を作っておかなければ、生き残った直後に空中分解する気がするのだ。

 そしてその信念を作り上げるに、『今』が最大の分岐点であった。


◆◆◆


 魔王を狩ろうとする『ムーゼッグ』と、魔王を守ろうとする『レミューゼ』が、同時に存在するこの場所が。


◆◆◆


 レミューゼの思惑は聞いた。

 信念も理解した。

 ならば――


 ムーゼッグは?

 

 ――きっとエルマなんかは「お前はバカだ」と怒るかもしれないな。 


 でも、ムーゼッグの言葉もまた、訊いておかねばならない気がした。

 今のムーゼッグの象徴として時代に輝いている男の口から、魔王と対峙する国家としての思惑を、聞かねばならない気がした。

 そうしてはじめて、魔王はムーゼッグに対する確固とした反旗を翻せる。


 ――自分の足で行け。


 誰かが用意した厚底の靴を履いていては、きっと目線がずれる。


 ――知りたいんだ。

 

 魔王として、メレア=メアとして、この世界の住人として、盲目的にはなりたくない。なってはいけない。


 ――だから、聞かせてくれ。


 セリアス=ブラッド=ムーゼッグ。

 世界の中心にいるお前に、話を訊こう。


 なぜ魔王を狩るのか、と。


 そうしてただひたすらに勝利と支配を求めた先に、なにを為そうというのか。

 昔と今。ムーゼッグの矜持は変わったのか。

 そもそも、ムーゼッグはどこから出発したのか。

 なにより、


 ――お前自身の考えを。


 それが、この魔王という独立した集団の主としての、役割でもあるように思えた。


「そのためならば、俺の身一つくらい差し出してやる。時代の寵児と呼ばれるお前の力量そのものにも、興味がある。必要とあらば拳を交え――そのあとで『安心』をくれてやろう。ただし――」


 だ。


 メレアは内心でつぶやいて、駆ける足を速めた。

 いつの間にか、セリアスへ向かって後退していくムーゼッグの大軍の先頭を追い越し、視界が開けていた。

 風になびく灰色の髪が、よく見えた。

 今に――たどり着く。

 

◆◆◆


「ハハハ、向こうの軍師は姑息な手を使うな」


 セリアス=ブラッド=ムーゼッグは、ハーシムから数十分遅れてようやくその場にたどり着いていた。


「だが、その巧さは称賛に値する。たしかにこちらの騎兵がああいう動きを取れば、私でもそこに隙を見つけてそういう手を取る。さて、その顔を覚えておきたいところではあるが……さすがに遠すぎてよく見えんな」


 セリアスはハーシムと違って敵側の指揮官が誰かということには気づいていなかった。

 白の紋章旗を見てそれがレミューゼの軍であることには気づきつつも、その指揮官の顔までは見えなかった。

 

「おそらくあの茶色の髪の男だろうが……」


 あのくらいの髪色はどこにでもいる。

 アクアブルーの特徴的な輝きを持った瞳までを見れば、あるいはセリアスもそれがかつて相対したことのある男であることに気づいたかもしれない。

 しかしハーシムの本名を知らないセリアスは、ハーシムがレミューゼの王族で、いまやクーデターによって王にまで上り詰めているなどという情報は知る由もない。

 まだ二人は『出会っていなかった』。


「まあいい。まずはこっちだな」


 代わり、セリアスは白光砲を撃った方向に注視を向けていた。

 今もっとも自分の興味を引くのはむしろそちらの方角にいる『魔神』の方であった。


「あれはたしかに反転術式だ。――フランダーめ、本当に生きて霊山に逃げ込んだか。毒を盛られていたにしてはずいぶんと元気だったようだな」


 セリアスはメレアの方を見やり、さらに注意深くその姿を観察していた。

 すでにセリアスはさきほどの白光砲の打ち合いでメレアの性質を二つほど見抜いていた。確証を抱くほどではないが、八割がた間違いないだろうという程度の自負もある。


「あの黒曜の三尾が消えているな。――ミハイ、間違いないな?」

「は、たしかに白光砲を止める直前まではその背に三本の尾があったかと思われます」

「あれは土神の三尾だ。神石クセルスを使っている。まともな衝撃では崩れんし、簡単に形状を変えられる上、それ自体が生きているような行動を取るのが厄介極まりない」

「〈炎帝〉の『真紅の命炎』のようなものでしょうか」

「あそこまで厳密に生物ではないがな」


 ミハイの問いにセリアスは平坦な声で答える。

 そこへミハイがさらに質問を重ねた。ミハイはセリアスの隣に立ちつつも、決してセリアスより前には出ずに、少し下がった位置で妖美な金髪を風になびかせていた。


「ちなみに、神石クセルスとは〈石帝〉が使ったといわれるあの神石ですか?」

「――ああ。だが逆だ、ミハイ。石帝の神石がその前の時代の土神の術式を流用したものなのだ。あの神石の形成素材は土神の生み出した『神土リリシス』というやつでな。なんでも人の思念に反応する虹色の土だったらしい」

「おとぎ話ですね」

「私もそう思う。古代の人間の詩的能力の高さに尊敬の念を禁じ得ないところだ。まあ、そのせいか当初は戦闘用というよりも農業の方面で活躍していたらしいが、そんな便利なものがあれば当然周りの者たちは欲しがるだろうからな。そこからは例によって戦というところだろう」

「なるほど。――それにしても、その三尾が消えたというのは」


 ミハイは話を本題に戻した。

 セリアスもそれに応えるようにうなずく。

 

「仮定だ。だがおそらく合っているだろう。やつは反転術式を使いながら魔王の術式を三つも使えない」

「なる……ほど」


 簡単に見抜く、とミハイは思った。

 あらかじめそういう予想が立っていたのならば、今のわずかな変化を見て気づくのも何歩か譲ってわかる。

 だが、この場合で言えば普通は白光砲を止められたという事態にまっさきに目がいって、そこまで万遍ない注意は向かない。少なくともミハイはそうだった。


「私は魔王の術式の完成形をいくつか行使するからわかるがな、そもそもあれは二つ同時に発動するようなものではないのだ。ああやって白のいかずちと風の翼を併用している状態がまずおかしい。まあ、それだけの性能スペックをやつが持っている証明でもあるのだろうが――」


 セリアスはほんの少し顔を渋くさせ、すぐにまた平坦な表情へと戻した。


「それでも私は懐疑的だ。怪物、化物、魔神、私たちと比べてのその名称は間違ってはいない。だが必要以上におそろしいものだと決めつけるのも問題だぞ。――化けの皮ともいうではないか。まあ、恐怖は人の目を曇らせるものの中でもっとも身近にあり、かつ偉大なものだ。それもわかる。そんな偉大な恐怖にかかれば簡単に本質がかすんでしまうだろう。だがそれをしっかりと自覚しておけば、恐怖の隙もつけるようになる」

「凡人はそういう色眼鏡を自力で外すのにも苦労するものなのです」


 ミハイは肩をすくめて言った。

 セリアスと比べられるほかの凡百を気遣っての言葉だ。もちろん、自分もその凡百に含まれている。


「まあ、私も少量の情報だけではこううまく色眼鏡を外せなかったかもしれん。ただ、やつに俗な一面を見つけたことが、懐疑をたやすくさせた」


 セリアスは灰色の髪を風になびかせながら言った。


「やつに牙がないらしいことを知らなければ、人間であるという前提はまだ少し霧が掛かっていたかもしれんな。……どうやらその情報自体は無駄なものになったらしいが」


 戦端がすでに開かれているということを察知できる地点にまでやってきたときには、黒く巨大な大蛇のような尾が人を吹き飛ばしていたのを見た。

 さすがに遠すぎて細かいことまではわからなかったが、あれで打たれれば普通の人間は死ぬだろう。

 その持ち主があの魔神であることを知れば、なるほど、


「――牙は生えたらしいな」


 そう予測できる。

 セリアスは当初それを内心に恐れていた。

 だが不思議なことに、今はそれに対する驚きがなくなっていた。

 むしろ、戦場において人を殺すのが当然というような、『自分の信奉する摂理』の中に組み込まれてしまったことで、魔神の異端性が薄れた気がした。


「私が異常なのだろう。戦場という場に組み込むと、途端にどうにでもなるような気がしてくる」


 戦場は自分の本拠地ホームだ。

 戦いこそ自分の得意とするところだ。

 戦場の高揚にあてられたという気がしないでもないが、


「まあ、どうにかなるだろう」


 メレアを見て、セリアスは思っていた。


「ああ、それと、兵長」


 セリアスはそこで言葉の矛先をミハイから逆側に立っていた男に変えた。

 霊山に連れていき、そこからさらにここまで連れてきた幾人かの術式兵のうちの一人。その兵団長である。

 多少の傷が見えるが、彼はおのずから望んでこの場にやってきていた。


「二発目と三発目の白光砲はちゃんと威力を変えたな?」

「はっ、間違いなく。三発目の白光砲はやや威力を弱めて撃ちました」

「よし、なら『こちらの予測』も間違いないな。こちらの予測は牙無しの証明と比べるとやや勘にったところがあったが、兵長たちの戦闘報告に際して違和感を覚えたのも事実だ。――やつの反転術式はフランダー=クロウの反転術式とは違う」


 セリアスはおそろしい男だった。

 三王やハーシムたちが口をそろえて大げさにセリアスを称する理由が、また現れようとしていた。


「あれは『模造品』だ」


 セリアスの、天啓に支えられているとまで言えてしまいそうな観察力は、


「やつは撃たれた術式をそっくりそのままの規模で打ち返すことしかできない」


 メレアの反転術式の性質を浮き彫りにさせていた。

 たったの三発。

 むしろ、一発目はエルマを狙ったものであるから、二発目と三発目のみでそこまで導き出した。

 あらかじめ多少の情報に基づいた予測があったにしても、たったの二発でそれを見抜けたのはセリアスをおいてほかには存在しなかっただろう。


「フランダー=クロウなら三発目の威力の弱さに気づいて、おそらく二発目の方と同じ規模で黒光砲を撃っただろう。それで確実にこちらへの反撃が通る」


 当然そうなったらセリアスも防御術式を使うつもりだったが、結果は完全な相殺だった。

 つまり、


「やつはそれほど〈術神の魔眼〉を使いこなせていないな。あるいはほかの魔王の術式にかまけた結果か。自然系の神号を持つ魔王の銘ある術式を使っている時点で脅威ではあるが、なによりも優先すべきは術神の魔眼だったな」


 セリアスは〈術神の魔眼〉こそがもっとも有用な力であると信じている。

 そこにはある理由があった。


「貴様の手にはあまるものだ」


 それはその能力が特に輝かしいからというだけではない。

 もっと、『特別な理由』。


「やはりその眼は――」


◆◆◆


「我が一族の手元に『戻る』べきものだ」


◆◆◆


 セリアス=ブラッド=ムーゼッグは、フランダー=クロウに特別な思いを抱いている。

 それは尊敬と嘲笑と軽蔑と、さまざまなものが混じった複雑な思いだった。

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