第57話「そしてその男はやってきた」

「これほどか」


 ハーシムは中央の戦況を見ながら短く唸っていた。


「ここまでくると、同じ生物であるのか疑いたくなってくるな」


 思わずそんな言葉が漏れる。メレアの異常なまでの戦闘能力を見ての言葉だった。

 話で聞くのと実際に見るのとではその衝撃の量がまるで違う。

 そんなハーシムにとってメレアの戦闘能力は嬉しい誤算であり、また一方で、


 ――本当にレミューゼの半壊を担保にするはめになるかもな。


 そのきもを冷やさせる要因にもなっていた。

 だが、それもつかの間、


「感心ばかりもしていられん。おれはおれで、すべきことを為そう」


 ハーシムは再び戦況に集中した。


◆◆◆

 

 あらかじめこういう戦型になることを予想していたハーシムは、左右にローテーションする防衛線をいていた。兵の疲弊度合に応じて入れ替わりを行っていく態勢だ。

 相手に反撃を加えようとすれば、さすがに兵を分割している余裕はなかったが、ただその攻撃をいなすことに特化するのならば話は違う。かろうじてではあれど、まだやりようがあった。


「今だッ! 入れ替われ!」


 その方法を取るときの最大の問題は、激突線にいる一軍をいつ入れ替えるかにあった。

 疲弊しすぎれば離脱の際に支障をきたすし、入れ替わってばかりでも相手に攻めの機会を多く与えることになる。その見極めがとかく難しい。

 だが、その点で言えばハーシムの手腕は見事というほかなかった。

 相手の『攻め気』を狂いなく察知する観察力に、その攻め気を逸(そ)らすタイミング。なにより自軍最前線の疲弊を見極めるのが的確だった。


「第二軍は最小限の後退で包囲先端を受け止めろ!」


 かぎられた後方領域を必要最小分だけ刻んで使わせつつ、同時に中央戦場とのバランスも取っていく。

 一瞬たりとも気の抜けない合戦を、ハーシムの指揮が支えていた。


 一方で、そんなハーシムの盤石な指揮を支えたのは中央の魔王たちでもあった。

 中央へ突っ込んでくるムーゼッグの騎兵を魔王たちが止めてくれるから、ハーシムは左右に注意深い観察を入れていられた。


 そんな魔王たちは、中央戦場で徐々にその真価を発揮しはじめていた。


◆◆◆


「金の力はやっぱり偉大ですよぉぉぉおおお!」

「こんなときまで奇声あげるんじゃねえよ!!」


 中央戦場で巨大な金色の球体が飛んでいた。

 遠くで倒れている地竜の体躯ほどはあろうかという、まさしく大きな金塊である。


「ああっ! でも金が私から離れていく光景はどこか切ないですねぇこれ!」

「うるせえ! いいから早く次を生成しろよ! 向こうどんどん騎兵増えてるじゃねえか!」


 〈錬金王〉シャウと〈拳帝〉サルマーンの声が響いていた。

 二人は今、中央戦場のやや右方で隣り合って立っていた。

 あたりに敵の姿はないが、その前方には黒い波のようなムーゼッグの騎兵群がある。

 と、そんな人の波を前にして、シャウがおもむろに動きを見せた。


「これ絶対あとで回収しますからね!」


 シャウは、一体どこにそれだけ詰まっていたのかと思うような金貨を懐から地面にばらまき、続く動きでその中へ両手を落とした。

 すると、金貨の山に触れたその手から一瞬にして術式陣が広がり、直後、その金貨の山が荒野の土と混ざったかと思うと、一気に膨張してさきほどムーゼッグ騎兵の群へ飛んでいっていたような巨大な球体になった。


「ああ……! また純度が……! 金をほかの物質と混ぜるというこの愚行! そんなことを私にさせるこの戦争というものは、やっぱりろくなもんじゃありませんね!」

「主張そのものはまともなんだがそこに到るまでの逡巡がなんかおかしいなお前! ――まあいい! おら、どいてろ! いくぞ!」


 シャウが名残惜しそうに金の球体に頬ずりをしているところへサルマーンが寄っていき、下がっていろとばかりにその身体を押し出す。

 そして、球体の前に立ったサルマーンは、


「よし、前に誰もいねえな!」


 一度前方を見やって確認したあと、


「――おら、吹き飛べ!」


 ふと紫色の粒子をまとった拳を中段に構え、次の瞬間に目にも留まらぬ速さでそれを撃ち出した。

 拳は金の球体を轟音とともに殴りつけ、しかし、


「なんでたかがパンチで私の金塊があんな速度で飛ぶんでしょうか……」

「『七帝器のなりそこない』は伊達じゃねえんだよ。本人からするとかなり使いづれえんだけどな。だが、やっと慣れてきた気がするぜ」


 とても拳で殴りつけたとは思えぬ速度で金塊が飛んでいく。

 向かう先はムーゼッグの騎兵群。

 直撃。

 轟音と悲鳴をその身にまとわせ、金の球体は瞬く間に敵群に風穴を開けた。

 

「くそっ、んでも全然減らねえな! ――左の方はどうなってる!」

「向こうは火柱あがってますね。リリウム嬢でしょうか」

「ああ、よし、向こうは大丈夫そうだな!」

「判断早いですね」

「吹っ切れた笑い声聞こえるからなんかあっち行くのやだわ! メレアも左に寄ってるし大丈夫だろ! えーっと、あとは――」


 今の金塊射出の衝撃でムーゼッグの騎兵が速度を緩めている。

 その隙にサルマーンは周囲を見渡して戦況を確認した。


「こっちはマリーザを含めて近接系が多いな」

「あのなんちゃってメイド、特に術式やら秘術やらを使った形跡がないんですが、それで最前線駆け回って敵の首を落としてる光景怖すぎません?」

「あいつはもともとおっかねえだろ。術式使えねえのにも理由があるのかもしれねえ。〈暴帝〉は特に訳ありっぽいからな。まあ、ひとまずあれで十分だ」

「双子は」

「裏にいる。満場一致で『前には出るな』だからな。いくらぎりぎりの戦場でも、どうしても譲れねえもんはある。あいつら何歳だと思ってんだよ。――まあ、とはいってもその分左右の戦況に術式で足止め入れたりしてるから、ひとまず戦力の持ち腐れにはなってねえよ」

「となると、あとはこの状態でどれだけ耐えられるか、というところでしょうか」

「そうだな。今のところひとまずは耐えていられる。だが敵の数もまだ増えてきてるから、そろそろあのレミューゼの大将になんか手を打ってもらいてぇところだな」

「エルマ嬢がいますから、そろそろなにかしてくれるでしょう」

「そうだよ、一番前線にいて欲しいやつをあえてあいつに貸してやってんだ。これでしくじったりしたらたんこぶ十個くらい作ってやるぜ。……っと、もう来た。ほら、早く次の出せよ!」

「あなた私のふところから無限に金貨でるとか思ってません? ――そろそろきれそうなんですけど! 私の金がきれそうなんですけど!」

「なくなったら拾いに行くんだよっ!」

「あそこ敵だらけじゃないですか!」

「金の鎧とか着てどうにかしろ!」

「あっ、それいいですね! それでいきましょう!」


 二人は再びムーゼッグの軍勢に視線を向ける。

 さきほどのような一気呵成いっきかせいの勢いではないが、じりじりと黒い人波が寄ってきていた。

 できればそろそろこちらに有利となる要因が欲しいと内心に思いながら、二人は身体に臨戦態勢を敷き、地を蹴った。


◆◆◆


「――右だな」


 防御後退戦の指揮をいくばくかの間こなしたハーシムは、ムーゼッグ側の動きを見てあることに気づいていた。

 また、それに気づいたことで新たな手を打つことを決心していた。


「頃合いか」


 包囲しようとしてくる左右のムーゼッグ軍に、わずかな違いがある。

 具体的には、態勢が崩れてからの再突撃までの速度や、隊列編成の精度の違いだ。

 最初はわずかな差だったが、繰り返すことでその差が大きくなってきていた。


 ――右の方が精度が高い。


 そこから導き出せるのは、


 ――おそらく『指揮官』が右に寄っている。


「剣帝!」


 ついにハーシムはエルマを呼んだ。

 すると、


「なんだ!」


 呼び声があがってすぐに、はきはきとした声が返ってくる。さらにそれから二秒も経たないうちにエルマが馬を駆ってやってきて、「やっとか」とせわしげに黒髪を振り乱した。


「見えるか、あのあたりだ。おそらく中央から右に寄ったあたりに敵の指揮官がいる」


 エルマはハーシムの指差した方向へ視線を飛ばす。

 ハーシムも同じく目を細め、鮮明な指揮官の姿を捉えるべく注視を向けた。

 と、そんな二人に助言するように、そこへ別の声がやってくる。


「たぶん、いた、よ。さっきサルくんのところにいた、大きい人」


 エルマの馬に相乗りしていたアイズが、ひょこりと後ろから頭を出して言っていた。


「たしか〈天魔〉の――」


 ハーシムはアイズを見て戦闘前に知らされていた情報を思い出し、それを踏まえた上でとっさに訊き返した。


「だいたいの位置がわかればその眼で精密視できるか?」

「やって、みる」


 ハーシムの問いにアイズは間髪入れずにうなずく。


「よし、そのでかいやつを注視してみてくれ。指示を出しているふうかどうか、それがわかるだけでも十分だ」

「わかった。ちょっと、待って」


 アイズは目を瞑った。

 しばらく沈黙があって、


「――うん、やっぱり、そうだと思う」


 目を開けた彼女からうなずきが返ってくる。


「私も今そいつを確認した。アイズが言うのならたしかだろう。私が信ずるにそれで十分だ」


 エルマはそういって魔剣を鞘から抜き放った。

 そんなエルマに対し、ハーシムが再び声を掛ける。


「さっきもいったとおり、騎兵一隊を貸してやる。それを足場にして右から回り込め」


 その意味するところは、


「指揮官の首を取ってこい」


 ハーシムは真面目な顔で言っていた。

 そんな言葉に、エルマはわざとらしくやれやれと皮肉めいた笑みを浮かべ、


「さっきも言ったが、なかなか無茶をいってくれるな、レミューゼの王よ」


 そう返した。

 しかし、そういうエルマも次の瞬間にはその笑みを引っ込めた。

 代わるように浮かぶのは同じく至極真面目な表情だ。


「――だが、了解した。三八天剣旅団長の末裔として、戦場のつとめを完遂して見せよう」

「ああ、頼んだ。左に囮を飛ばす、合図があるまでは動くな」


 ハーシムは淡々と告げたあと、最後に付け加える。


「――気をつけろ。無理そうなら別に首を取らなくてもいい。だが、できれば喉元をかすめるくらいの威嚇いかくは欲しいな」

「案ずるな、こういう不利な戦場は何度か体験している。そのときの私は敵の指揮官首を三つ取った。一つなら余裕だ」


 エルマの言葉には誇張があった。

 それはハーシムを安心させるための言葉でもあったし、同時に自分を鼓舞するための誇張された言葉でもあった。


「――わかった」


 ハーシムはそんなエルマの言葉を受けて、最後のうなずきを返す。

 すると、今度はエルマが自分のすぐ後ろを振り向き、その背中にひしとくっついていたアイズを見て微笑んだ。


「アイズ、お前はここに残れ」

「えっ?」


 アイズは驚いたように目を見開いたあと、悲しげな表情を見せる。

 それを見たエルマは困ったように苦笑するが、彼女は彼女で退かなかった。


「ここから先はお前には危険すぎる。大方の位置は捉えたし、もう導きはなくて大丈夫だ」

「で、でも――」

「お前に傷をつけさせるとあとでマリーザにどやされるからな。あいつだって本当はアイズの傍にいたいのだろうが、さすがに中央の人手が足りないからとああやって前で暴れているわけだ。私はお前の身をそんなマリーザから引き受けたから、『私たちの勝手な責任』だけれど、それでも――お前を危ないとわかっているところへ連れて行くわけにはいかないんだ」


 アイズはエルマの言わんとするところをすぐに察する。

 彼女はその点で聡明すぎるほどに聡明だった。


「……そっか。ここから先は、エルマでも、危ないんだね」

「……ああ」


 アイズはその短い返答を受けて、とっさにエルマの腰に回していた腕に力を込めた。

 しかし――


「……わかった」


 すぐにその腕をほどく。

 そうして、誰の手も借りずに馬から飛び降りた。

 そんな彼女を見ながらエルマが、


「まあ、逆に言えばここは安全ということだ。なんといってもメレアの後ろだし、こちら側の総大将の隣でもある。それに、お前の力は指揮官の傍にあった方が戦の役に立つだろうからな。あまり好ましい言い方ではないかもしれないが、お前の戦うという意志を尊重してあえてそう言おう」


 許してくれとでも言わんばかりに、眉尻を下げた笑みを向けていた。

 

「うん、わたしは、大丈夫。だから、エルマも――気をつけてね」


 アイズも同じような笑みを顔に浮かべて、下からエルマを見上げた。

 エルマは彼女の髪を最後に名残り惜しそうに一度だけ撫で、ついに視線を切った。

 そうして、


「――ハーシム」


 最後に、再度戦況に目を向けていたハーシムへ鋭い視線を向ける。

 いつのまにか、『レミューゼの王』という呼び名からより近しい呼び名へと変わっていた。しかし、それは親しさからくる呼び名の変化というよりも、まるで釘を刺すようにして真名を紡いだ結果のようでもあった。


「魔王の助力が欲しければ、アイズに傷一つつかないよう十分に気を配るんだな。――アイズの傷は高くつくぞ」

「肝に銘じておこう」

「――よし」


 ハーシムがはっきりと答えたのを見て、エルマは満足げに鼻から息を吐いた。

 そのまま、馬のきびすを返させて馬鼻を右方へ向ける。


「ならば行く。仲間たちを頼んだ」


 エルマは背を向けながらそう言い残し、レミューゼ兵にまぎれて右方へ駆けていった。

 アイズはその背を心配そうに見ていた。


◆◆◆


 エルマがハーシムからの指示を受けた頃には、ずいぶんとムーゼッグの騎兵たちが前がかりになってきていた。

 荒々しい突撃だ。

 レミューゼ騎兵が思った以上にしぶといことが彼らの苛立ちを誘発していた。


 そんなおり、ハーシムはムーゼッグ騎兵の『視界の狭まり』をその目で確認する。

 戦況全体を見渡したときに、彼らの顔は一方を見過ぎていた。


 うまくいかぬ包囲。

 予想外の抵抗を受けている中央の一帯。

 早くどこかが崩れないかと待ちくたびれ、一方で焦燥していく心。


 また、魔王たちの抵抗に加え、なによりもその最前線でメレアが派手な術式兵装を見せていたことがあって、彼らはそこを突破することを徐々に諦めていったようだった。


 となれば、当初の作戦通り右か左の回り込みが早く完遂されないかと意識を向ける。

 特に、彼らはハーシムから見て左方の先端を見ていた。

 左方のレミューゼ騎兵が右と比べてあきらかに『後退気味』だったからだ。


 この調子でいけば、おそらくあそこが一番最初に開かれる。


 そんな予想を抱いている様子が、彼らの顔の向き、そして視線の動きに表れていた。

 しかし、


◆◆◆


 それはハーシムの仕掛けた罠だった。


◆◆◆


 ハーシムはあえて左方のレミューゼ騎兵を『下げさせて』いた。

 そもそもギリギリであることには違いないから、その後退も勘付かれるほど不自然にはならなかった。ある意味で、数という戦力で負けているからこそ仕掛けられた罠である。

 そうやって下がっていく戦線に細心の注意を配りながら、ハーシムは自分の思惑がうまくいったことを確信した。

 そして、とどめとばかりに最後の一手を打った。


「行け、これみよがしに大回りで回り込め」


 あらかじめ手元に残しておいたわずかな数の『囮』。

 特に足の速い騎兵の一隊。

 それを左方の激戦部をさらに回り込むように走らせた。

 相手の本陣を裏からつくように見せる一手である。

 本当にそれで相手の本陣を急襲するとなるとまだ遠いが、注意を引くには十分な数だ。


「砂塵を巻き上げろ。身体を不透明に、できるかぎり大きく見せろ。大げさな不穏を漂わせて、注意を引きつけろ」


 左から大きく回り込んだレミューゼ騎兵の一隊は、槍の柄で地面を削りながら荒々しく馬の蹄鉄を踏み鳴らし、隊列を覆うような砂塵を巻き上げていた。

 

 ――見ろ。


 ハーシムはその様子を見ながら、同時にムーゼッグ軍の全体を広範視する。

 瞬きなく、ただ待った。

 彼らの視線を引きつけられるだけ引きつけて、その後一気に――


 本命たる右方の『剣』を刺し込む。


 その時はすでに一寸先に迫っていた。

 ハーシムの脳が視界に映った情報を同時に処理し、ついに――


 ――ここだ。


 ハーシムは右腕を横に目一杯開いて『合図』を送った。

 同時、


 右方の激戦部を回り込むように、〈剣帝〉エルマのまぎれこんだ『レミューゼ最速の騎兵隊』が走った。


 それはムーゼッグに報いるための一矢でもあった。


◆◆◆


 ――耐えてくれよ。


 エルマを送り出したあと、ハーシムはすぐに左方の戦況に視線を飛ばした。

 エルマがうまく向こうの懐に潜り込み、指揮官の首にその魔剣を刺しこんでくれれば、おそらく相手の指揮は崩せる。

 だが、同時にそれまで左方の戦況が持つかどうかも問題になってくる。

 あえて下げさせた分だけ、ムーゼッグ軍に勢いがついたのも事実だった。


 と、そんな中、メレアが白雷をまといながらおそろしい速度で中央戦場をい抜け、そのまま左方に圧力をかけるように突撃していったのが視界に映った。

 メレアはメレアで言うまでもなく戦場の流れを察知しているらしい。

 一秒たりとも止まらず、ひたすらに戦場を走り続けるメレアの体力に畏怖を抱きつつ、ハーシムもまた剣の柄を強く握った。


 いざとなれば自分も前に出る必要があるだろう。

 当面の指示は出しきったし、騎兵たちも徐々にこの戦い方に慣れてきている節がある。

 この状況で、頭より手が必要になれば、


 ――おれはセリアスやムーランほど白兵戦は得意ではないんだがな。


 それでも、出るだろう。

 アイシャの制止を押し切る言い訳をほんの少し余裕の生まれた脳裏で考えながら、ハーシムは前を見た。


 その――次の瞬間だった。


◆◆◆


「あっ……、だめっ! 『来る』!」


◆◆◆


 エルマがここで降ろしていった少女、〈天魔〉アイズが、恐怖に縮こまるようにその華奢な身体を抱きこみながら声をあげていた。

 なにが、とハーシムはとっさに訊ね返そうとして、しかし言葉は出てこなかった。


 わざわざ訊ね返さなくともわかったのだ。


 ――視線。


 ハーシムが直後に感じたのは、自分の腹の底まですべてを見透かされるかのような視線だった。

 背筋がゾっとした。悪寒おかんが走った。

 誰の視線だかはわからない。

 だが、たしかに――


 ――見られている。


 と、ハーシムは自分の身体に不思議な力が掛かったのを感じた。

 まるで意識ではなく身体の方が、『早く向こうを向け』と自分に命令しているような。

 あるいはそれは神の啓示のようにも思えた。


 ハーシムは猛然とした速度で馬上から視線を感じた方向を振り向いて、ムーゼッグ軍のさらに奥側に観察の視線を飛ばした。

 とっさに視界に入ったのは、開戦前にも見たムーゼッグの旗手騎兵である。中央後方で、どんな状況であろうと国家の威信を掲げ続けなければならないという任務のもと、黒いムーゼッグの紋章旗を今も掲げている。

 しかし、彼らじゃない。

 ハーシムはさらに目を凝らし、そんな旗手のさらに奥へと視線を飛ばす。

 すると、次の瞬間。

 はためいた紋章旗の裏の方から――


 なにか大きなものが見えた。


 しかし、すぐに旗が風に揺られて、再度そのなにかを覆い隠す。

 ハーシムは瞬きを忘れた。

 次に旗がはためいたとき、そのなにかの全容を把握するために目を凝らした。

 直後、二度目のはためきが来た。


「――地竜レイルノート


 赤い鱗の、『地竜』が見えた。


 そしてその背に――


◆◆◆


 灰色髪の男が見えた。


◆◆◆


 遠く、まだ小さな姿だ。

 だがハーシムはそれが男であることを疑わなかった。

 そして、その男が自分のよく知る人物であることを――直感した。


 ハーシムにとってその髪の色は――


 忘れられない色だった。

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